リディア・リプコフスカヤ

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リディア・リプコフスカヤ
Lydia Lipkowska
(Lypkivska in Ukrainian)
基本情報
生誕 (1882-05-10) 1882年5月10日
ロシア帝国, バビンドイツ語版
死没 1958年3月22日(1958-03-22)(75歳)
レバノン, ベイルート
ジャンル クラシック音楽
担当楽器 ソプラノ

リディア・リプコフスカヤ (Lydia Yakolevna Lipkowska、ロシア語: Лидия Яковлевна Липковская、ウクライナ語: Лідія Яківна Липковська; 1882年5月10日 – 1958年3月22日) は、ウクライナ出身のロシアルーマニアのオペラ・ソプラノ歌手である。「リプコウスカ」とも表記される。

生涯[編集]

リディア・リプコフスカヤ, Music News, 1921 より
マルグリート・マーティン英語版の描いたリプコフスカヤと写真, 1910年

リディアはバビンドイツ語版の教師の家に生まれたが、その町の博物館は彼女を記念して造られている。彼女には3人の姉妹と4人の兄弟がいた。伯母のマリア・ザンコヴェツカ英語版はウクライナの有名な女優だった。リディアはカームヤネツィ=ポジーリシクィイにあるマリインスキー女学校で教育を受けた。他の学生たちと共に彼女は聖歌隊に加わってソロパートを受け持ち、その美しい声は教会の聖堂に響き渡った。カームヤネツィの人々は彼女を「歌う鳥」と呼んだ。女学校を卒業後、リプコフスカヤはサンクトペテルブルク音楽院に入学した。彼女は有名なポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドの弟子であるナタリア・イレツカヤ英語版に師事したと言われている。彼女は1906年から1908年まで、および1911年から1913年までマリインスキー劇場と契約した。ここで彼女はプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の主役を歌っている[1]。1909年から1911年まではニューヨークメトロポリタン・オペラのメンバーだった[2]。メトロポリタンへのデビューは1909年11月18日、「椿姫」のヴィオレッタ役で、アルフレッド役はカルーソーだった[3]。彼女は1909年にボストン・オペラ・カンパニー、1910年にはシカゴ・グランド・オペラ・カンパニー英語版に客演した。ボストンで滞在したザ・レノックス・ホテル英語版は彼女に敬意を表し、メニューに「カップ・リディア」と「スフレ・ア・ラ・リプコフスカヤ」を追加した。これに対し彼女は「自分の評判を傷つけ嘲笑するものだ」とクレームを唱え、ホテルのメニューの差し止めを裁判所に訴えた[4]。1911年に彼女はロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスに、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」のミミ役でデビューした。

1912年、リプコフスカヤはニューヨークのギャングスタ―、サム・シェップス英語版に入質した8万ドル相当の2つのダイヤモンドを、彼が返さなかったので訴えた。彼女の言い分は、シェップスから1万2千ドルを借り、その担保にダイヤモンドを渡したところ、彼は宝石を返す前に5千ドルの利息を要求したというものだった[5]。1914年に彼女はポンキエッリのオペラ「バレンシアのムーア人英語版 」をモンテカルロ歌劇場で初演した。1919年8月パリのオペラ座で、ヴェルディのオペラ「リゴレット」のジルダ役を歌った[6]。10月にはオペラ座でトマのオペラ『ハムレット』のオフィーリア役を歌った[7]

リプコフスカヤは1920年、当時の夫ピエール・ボダンと共にソ連から亡命し、ホワイト・スター・ライン社の客船アドリアティック号で、2月8日にニューヨークに到着した[8]。その年の9月、リプコフスカヤはマンハッタンのサン・カルロ歌劇場で、オペラ「リゴレット」のジルダ役を歌った[9]。1922年に来日し、2月19日に帝国劇場で演奏会を開催している[10][11]。この時はピアノ伴奏者スクリャレフスキーロシア語版を伴って来日[12]リムスキー=コルサコフのオペラ『雪娘』のアリア、ヴェルディのオペラ『椿姫』のアリアの他、ドニゼッティ、スカルラッティ、チャイコフスキーなどの歌曲を歌った[13]。また2月23日には有楽座でオペラの衣装をつけた演奏会も開催した[13]。さらに3月12日には京都岡崎公会堂でも演奏会を行った[14]

舞台から引退した後に彼女はルーマニアに住み、ヴォイス・トレーナーとして活躍した。教え子の一人にはソプラノ歌手のヴィルジニア・ゼアーニがいる[15]。リプコフスカヤは75歳の時にレバノンベイルートで亡くなった。彼女は一時期バリトン歌手のジョルジュ・バクラノフ英語版と結婚していた。

脚注[編集]

  1. ^ Madam Butterfly -- Lydia Lipkovskaya|Global Performing Arts Database 2022年3月6日閲覧。
  2. ^ “Metropolitan Plans Great Opera Season”. New York Times: 9. (13 September 1909). 
  3. ^ “Traviata at Metropolitan: Mme. Lipkowska Makes Debut as Violetta – Caruso as Alfredo”. New York Times: 11. (19 November 1909). 
  4. ^ “Declines a Hotel's Homage”. New York Times: 3. (16 February 1910). 
  5. ^ “Lipkowska Accuses Broker of Usury”. New York Times: 18. (23 October 1921). 
  6. ^ 出羽八郎 (1929-08). “十年前”. 財務協会雑誌 13 (8): 5. https://dl.ndl.go.jp/pid/1477775/1/4. 
  7. ^ 出羽八郎 (1929-10). “十年前”. 財務協会雑誌 13 (10): 16. https://dl.ndl.go.jp/pid/1477777/1/10. 
  8. ^ “Saved From 'Reds,' Singer Here a Bride”. New York Times: 3. (9 February 1920). 
  9. ^ “'Rigoletto' at Manhattan”. New York Times: 24. (22 September 1920). 
  10. ^ リプコウスカ夫人演奏会|渋沢社史データベース”. 渋沢栄一記念財団. 2023年4月24日閲覧。
  11. ^ 楽報会 編『音楽年鑑 大正12年版』竹中書店、1923年、12頁https://dl.ndl.go.jp/pid/964533/1/18 
  12. ^ 園部三郎『音楽五十年 改訂版』時事通信社、1956年、122頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2477918/1/75 
  13. ^ a b 秋山竜英『日本の洋楽百年史』第一法規出版、1966年、345-346頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2509168/1/177 
  14. ^ 京都音楽史』京都音楽協会、1942年、253-254頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1125301/1/148 
  15. ^ Virginia Zeani 2022年3月6日閲覧。

外部リンク[編集]