ラデ・プリカ

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ラデ・プリカ Football pictogram.svg
名前
本名 ラデ・スタニスラフ・プリカ
Rade Stanislav Prica
カタカナ ラデ・プリカ
ラテン文字 Rade PRICA
基本情報
国籍 スウェーデンの旗 スウェーデン
セルビアの旗 セルビア
生年月日 (1980-06-30) 1980年6月30日(36歳)
出身地 ユングビュー英語版
身長 185cm
体重 82kg
選手情報
ポジション FW (CF)
利き足 右足
ユース
スウェーデンの旗 ユングビュー英語版
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-1998 スウェーデンの旗 ユングビュー 37 (14)
1998-2002 スウェーデンの旗 ヘルシンボリ 74 (27)
2002-2006 ドイツの旗 ハンザ・ロストック 113 (20)
2006-2008 デンマークの旗 オールボー 48 (28)
2008-2009 イングランドの旗 サンダーランド 6 (1)
2009-2012 ノルウェーの旗 ローゼンボリ 104 (57)
2013-2015 イスラエルの旗 マッカビ・テルアヴィヴ 62 (24)
2015-2016 スウェーデンの旗 ヘルシンボリ 9 (2)
2016 イスラエルの旗 マッカビ・ペタク・チクヴァ 10 (3)
2016 スウェーデンの旗 ランズクルーナ 9 (4)
1995-2016 通算 453 (180)
代表歴2
1999-2001 スウェーデンの旗 スウェーデン U-21 13 (5)
2001-2008 スウェーデンの旗 スウェーデン 14 (2)
監督歴
2016- スウェーデンの旗 ラムルサ・スードラ英語版(コーチ)
1. 国内リーグ戦に限る。2017年1月26日現在。
2. 2016年8月12日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ラデ・スタニスラフ・プリカRade Stanislav Prica, 1980年6月30日- )は、スウェーデンクロノベリ県ユングビュー出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはFW。自身のルーツであるセルビア語に基づきプリツァとも表記される。

スウェーデンデンマークノルウェースカンディナヴィア3か国全てでリーグ優勝した唯一の選手[1]

経歴[編集]

クラブ[編集]

スウェーデン[編集]

セルビア人の父とクロアチア人の母の間に生まれた[2]プリカは、地元のユングビューIFの下部組織でキャリアを始め、15歳の時に同チームのトップチームでデビュー以降3シーズンの在籍で37試合14得点を記録。1998年にトップリーグの強豪ヘルシンボリIFと契約し、1年目のチームは2位の好成績で終えるも、個人としての出場は僅か1試合にとどまったが、翌年は、オーゲ・ハレイデ英語版監督の下でアリルド・スタヴラム英語版とコンビを組むなど出場機会を増やし、6得点を挙げ優勝に貢献した。

シーズン終了後にハレイデ監督がデンマークブレンビーIFへと去ったことで、新たにナンネ・ベリスタランド英語版監督を迎えた2000年は、BATEボリソフインテルナツィオナーレ・ミラノを破り、UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01に出場した。パリ・サンジェルマンFCバイエルン・ミュンヘンローゼンボリBKとのグループリーグでチームは最下位に終わったものの、バイエルン・ミュンヘンとパリ・サンジェルマン相手に引き分けに持ち込み、ノルウェー王者ローゼンボリ戦では、イェスパー・ヨハンソン英語版アルヴァロ・サントス英語版の得点で勝利した。プリカ個人としては、ローランド・ニルソン英語版スヴェン・アンデション英語版ウルリク・ヨハンソン英語版ヨゾ・マトヴァチ英語版と共に全6試合に出場し、アウェーのローゼンボリ戦(1-6)で初得点を挙げた。一方の国内リーグでは、連覇を達成することは出来なかったものの、得点ランク6位の11得点(チーム内最多得点)を挙げ、2位でのシーズン終了とUEFAカップ2001-02出場権獲得に貢献とチームとしても個人としても良い時期を過ごしていたが、2001年は5位で欧州カップ戦を逃し、プリカは7得点に終わった。

2002年初めに6試合出場後にチームを変更することを決意し、ドイツへと渡っていった。ヘルシンボリでは、74試合27得点を記録した。

ドイツ、デンマーク、イングランド[編集]

ドイツ

ドイツのハンザ・ロストックに移籍したプリカは、ピーテル・ウィブラン英語版アンドレアス・ヤコブソン英語版マーカス・ランツ英語版ヨアキム・パーション英語版マグナス・アルヴィドソン英語版の5名の同胞と共にプレーすることになり、2003年2月1日の1.FCニュルンベルク戦で6人のスウェーデン人選手が先発出場したため、ブンデスリーガで同じ外国籍選手が同時出場した最多人数を記録した。[3]。また、移籍1年目は、2002年8月24日のエネルギー・コットブス(4-0)で初得点を記録以降で7得点を挙げ、途中加入ながらレネ・リドレヴィッツ英語版バシル・サルー英語版マルコ・フォアベック英語版を抑え、チーム内最多得点を決める活躍を見せた。しかし、翌シーズンにブンデスリーガ得点王のタイトルを2度獲得したマルティン・マックスが加入してくると、ユーリ・シュルンツ英語版監督はプリカを主にマックスの控えとして起用したことで3得点に終わり、またマックスは得点ランク3位の20得点を挙げた。

シーズン終了に伴いマックスが引退したことでレギュラーの座を取り戻し、2004-05シーズンを通してアントニオ・ディ・サルヴォ英語版や新加入のマルクス・アルベックとコンビを組むことになったが、マックスの穴を埋めることは出来ず苦しい状況が続き、11月になりヨルク・ベルガー英語版監督が新たに就任するも、依然として状況は変わらず、最終的に下から2番目の順位で2部降格が決定。これに伴い中心選手のウーヴェ・メールレ英語版マティアス・ショーバー英語版トーマス・ラスムッセン英語版と共にプリカも関心を寄せられたが[4]、チームは売却を拒否した。2005-06シーズンを2部で戦うことになったチームは、フランク・パーゲルスドルフ英語版監督を新たに迎え、シーズンを開始するも3部降格間近(シーズンを10位で終えるも、降格圏のチームから勝ち点差2)、プリカ個人としても先発とベンチを行き来する苦しい日々を過ごし、最終的に29試合4得点を記録。2006年3月17日にデンマークのオールボーBKと3年契約を結んだことが発表され、シーズン終了後に退団することが決定した[5]

デンマーク

ヴィボーFFとの開幕戦(3-1)で2得点を挙げ、最初の4試合で5得点とハイペースに得点を重ねていたが、14試合連続無得点の困難に陥った。第20節のACホーセンス戦で得点以降は調子を取り戻し、最終的に32試合19得点を記録し、モアテン・ノアストラン英語版モアテン・ラスムッセン英語版を抑え得点王に輝き、デンマークの地で嘗ての点取り屋としての姿に戻っていった。翌シーズンも12月までの間で16試合9得点と好調さを見せ、同胞のエリック・ハムレーン英語版監督の下でマルティン・ペデルセン英語版マティアス・リンドストローム英語版ミカエル・ヤコブセンカリム・ザラ英語版といった中心選手と共にチームを牽引した。

イングランド

デンマークでの素晴らしい活躍から、2007年はスウェーデン代表に定期的に招集され、初得点を含む2得点を記録する等、クラブ、代表共に順風満帆の時を過ごしていたことで、欧州のトップリーグから注目を集めることになった。2008年1月23日に移籍金200万ポンドでロイ・キーン監督率いるイングランドサンダーランドAFCへ加入[6]し、デビュー戦となった1月29日のバーミンガム・シティFC戦でドワイト・ヨークに代わり後半頭からから出場するとすぐさま得点を挙げ、2得点目はオフサイド判定で無効となったものの[7]素晴らしい活躍を見せたが、マイケル・チョプラケンワイン・ジョーンズとのレギュラー争いに敗れ、出場機会は滅多に訪れず、先発出場は1試合もなかった。そんな、プリカに対して2009年1月にイギリスの2チームと前所属のオールボーから関心を寄せられ[8]、最終的に3月9日にノルウェーの強豪ローゼンボリBKへの4年契約で加入することが決定[9]。また、オールボー時代に指導を受けたハムレーン監督と再会することとなった。

ノルウェー[編集]

2009シーズンの開幕戦ではステファン・イヴェルセンの控えだったものの、後半戦からレギュラーの座を掴みチームの2シーズンぶりにして通算21度目の優勝に貢献。プリカ個人としては移籍1年目で17得点を挙げ得点王に輝き[10]、さらにリーグ最優秀FWに選出された。翌年は、1年目ほどではなかったものの23試合13得点を挙げ連覇にして無敗優勝に貢献。2011年は開幕戦、第2節のスターベクIF戦とSKブラン戦の両試合を1-2で落とし、またプリカも得点を挙げることが出来ない苦しい状況だったが、2011年4月10日の第3節リールストロムSK戦(4-4)で4得点を挙げ[11]、最終的にこのシーズンは得点王から僅か1得点差の16得点を記録した。

イスラエル[編集]

2013年1月9日にイスラエルマッカビ・テルアヴィヴFCと合意に達したと報道された[12]

母国復帰[編集]

2016年7月11日にヘルシンボリに復帰することが発表された[13]。翌年1月14日にマッカビ・ペタク・チクヴァFC移籍し再びイスラエルでプレーするが[14]、7月11日にスウェーデン・ディヴィジョン1英語版(実質3部)のランズクルーナBoISに加入[15]。11月11日に同クラブを退団し、スウェーデン・ディヴィジョン2英語版(実質4部)のラムルサ・スードラFFのコーチングスタッフに入閣した[16]

代表[編集]

U-21でプレーしていたものの、クラブでの活躍が認められ、2001年2月に北欧リーグ選抜ながらキングスカップへ向けてのメンバーとしてトミー・セデベリ英語版監督とラーシュ・ラーゲルベック監督率いるA代表に初招集された。同大会開幕戦のタイ戦(4-1)で先発出場で代表デビューを果たし、66分にマーティン・アスランド英語版と交代するまでプレーした。残りの2試合はそれぞれ途中出場だったものの、チームの優勝に貢献した。2007年1月18日のエクアドル(1-2)と同年9月12日のモンテネグロ(2-1)との親善試合で得点を挙げた。

タイトル[編集]

クラブ[編集]

ヘルシンボリ
オールボー
ローゼンボリ
マッカビ・テルアヴィヴ

個人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ "Prica skandinavisk mester"
  2. ^ "Rade Prica"
  3. ^ "Prica schließt die schwedische Akte"
  4. ^ "Rade för dyr för svenska klubbar"
  5. ^ "Abschied der Schweden vom FC Hansa Rostock"
  6. ^ "Sunderland secure Prica signing"
  7. ^ "Sunderland 2-0 Birmingham"
  8. ^ "Trio chasing Prica deal"
  9. ^ "Prica quits Sunderland for Norway"
  10. ^ "- Kjennes veldig bra å bli toppscorer"
  11. ^ "Der alte Schwede lässt es krachen"
  12. ^ "Prica nær Israel-overgang"
  13. ^ Officiellt: Helsingborgs IF värvar Rade Prica”. Fotballtransfer.com (2015年8月11日). 2017年1月26日閲覧。
  14. ^ Officiellt: Rade Prica till Maccabi Petah Tikva”. Fotbolltransfer.com (2016年1月14日). 2017年1月26日閲覧。
  15. ^ Officiellt: Landskrona BoIS värvar Rade Prica och Hanson Boakai”. Fotbolltransfer.com (2016年7月11日). 2017年1月26日閲覧。
  16. ^ Officiellt: Rade Prica får tränarroll i Ramlösa Södra”. Fotbolltransfer.com (2016年11月11日). 2017年1月26日閲覧。

外部リンク[編集]