ヨルダン・レチコフ

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ヨルダン・レチコフ Football pictogram.svg
Yordan Letchkov.JPG
名前
ラテン文字 Yordan Letchkov
キリル文字 Йордан Лечков
基本情報
国籍  ブルガリア
生年月日 (1967-07-09) 1967年7月9日(50歳)
出身地 スリヴェン
身長 186cm
体重 74kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1984-1991 ブルガリアの旗 スリヴェン 155 (55)
1991-1992 ブルガリアの旗 CSKAソフィア 29 (17)
1992-1996 ドイツの旗 ハンブルガーSV 121 (14)
1996-1997 フランスの旗 マルセイユ 28 (2)
1997-1998 トルコの旗 ベシクタシュ 27 (4)
2001-2002 ブルガリアの旗 CSKAソフィア 25 (5)
2002-2004 ブルガリアの旗 スリヴェン 21 (4)
代表歴
1989-1998 ブルガリアの旗 ブルガリア 45 (5)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヨルダン・レチコフブルガリア語: Йордан Лечков, ラテン文字転写: Yordan Letchkov, 1967年7月9日- )は、ブルガリアスリヴェン出身の元サッカー選手。元ブルガリア代表。現役時代のポジションはミッドフィルダー

1994 FIFAワールドカップで4位に貢献した主要メンバーの1人だった[1]ことから、フリスト・ストイチコフエミル・コスタディノフクラシミール・バラコフらと共にブルガリアサッカー界の偉大な選手の1人と認識されている[2]

経歴[編集]

クラブ[編集]

17歳の時に地元のOFCスリヴェン2000英語版でキャリアを始めたレチコフは、若手ながらレギュラーを務め、1991-92シーズンに1部で最多優勝記録を有するPFC CSKAソフィアに移籍を果たした。CSKA移籍から程なくしてドイツ1部ハンブルガーSVに引きぬかれ、1992-93シーズンから1995-96シーズンまで在籍した。その後、1996-97シーズンに当時ヨーロッパでトップクラブの1つだったフランス1部オリンピック・マルセイユに移籍するも、首脳陣と折り合いが悪く1シーズンで退団することになった。

1997-98シーズンは、セルゲン・ヤルチン英語版の後釜を探していたトルコ1部ベシクタシュJKと移籍金75万マルク・年俸112万5000マルクで2年契約を締結した[3]。それから半年後にジョン・トシャック監督と論争をおこしたことでクラブから罰金を言い渡されたが、レチコフはこれを拒否し故郷ブルガリアに帰国した。これを受け、ベシクタシュは契約違反の補償として20万マルクを支払うようFIFAに訴え、さらにUEFAとFIFAに対し、クラブの許可なしにレチコフがアルゼンチンとの国際親善試合に出場していたことをアピールした。最終的にFIFAはベシクタシュの許可なしにブルガリア代表を含む他チームでプレーする資格がないと決定を下した。そのため、1998 FIFAワールドカップ出場権獲得に貢献するも、本大会出場を断念せざるを得なかった[4][5]。程なくして現役引退を表明し、ビジネス界に進出した。

それから約3年後の2001-02シーズンにPFC CSKAソフィアと契約しサッカー界に復帰。2002年から2004年まで2部のOFCスリヴェン2000英語版で選手兼監督を務めた。

代表[編集]

ブルガリア代表として45試合5得点を記録。1994 FIFAワールドカップ準々決勝のドイツ戦で決勝点を挙げ、代表史上最高となる準決勝進出に貢献。次のイタリア戦で敗退したため決勝進出は果たせなかった。W杯での活躍もあり、同年のバロンドールの投票で13位にランクインした[6](ちなみに1位は、同胞のフリスト・ストイチコフだった)。次の主要大会であるUEFA EURO '96でチームはグループリーグ敗退に終わったものの、レチコフ自身は好プレーをみせ、特にスペイン戦とルーマニア戦で奮闘した[7][8]

1998 FIFAワールドカップでは本大会出場に貢献するも、ベシクタシュJKとの契約上の論争から本大会でのプレーは叶わなかった[4][5]

引退後[編集]

現役引退後は、ビジネスマン(高級ホテルとサッカーアカデミーを所有)と政治家としてのキャリアを開始した。2003年にレチコフの故郷スリヴェンの市長に選出され、2007年に再選した[9]。また、2005年からブルガリアサッカー連合の副会長を務めていたものの、後に職権濫用で起訴され、2010年4月にスリヴェン地方裁判所の決定で解任された[10]。6月28日にブルガス控訴裁判所の決定で地位を回復させた[11][12]かに思われたが、2011年9月20日に再び上記の件で起訴され3年の禁固刑を言い渡された[13]

1998年に"ゴールデンブーツ"[14]、2012年に"ストイチコフ"[15]と呼ばれるTVのスポーツドキュメンタリー番組に他の様々なサッカー選手と共に出演していた。

人物[編集]

選手時代から禿げ上がった頭が特徴であり、自身は「故郷のスリヴェンソビエト連邦チェルノブイリ原子力発電所から300キロメートルほどの距離にあり、1986年4月に発生した原発事故の2から3か月後、街の若者の多くが頭髪を失った」と、その理由を語っていた[16]。ただし、チェルノブイリ原発とスリヴェンとの距離は300キロメートル以上離れていることから、地理学者からは創作の可能性が指摘されている[16]

タイトル[編集]

クラブ
OFCスリヴェン2000英語版
CSKAソフィア
ベシクタシュJK

脚注[編集]

外部リンク[編集]