ヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ

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ヨハン・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ
Johann Salvator von Österreich-Toskana
ハプスブルク=ロートリンゲン家
ヨハン・ザルヴァトール大公(1878年)

称号 トスカーナ大公子、オーストリア大公、ハンガリー王子、ボヘミア王子、クロアチア王子など(のち皇籍離脱)
敬称 殿下(のち皇籍離脱)
出生 (1852-11-25) 1852年11月25日
トスカーナ大公国フィレンツェ
死去 1890年
父親 トスカーナ大公レオポルド2世
母親 マリア・アントニア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
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ヨハン・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナドイツ語: Johann Salvator von Österreich-Toskana1852年11月25日 - 1890年?)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家の一員。のち皇籍離脱してヨハン・オルトJohann Orth)と名乗った。航海の旅に出て、南アメリカホーン岬で遭難し、行方不明になった[1]

生涯[編集]

トスカーナ大公レオポルド2世とその妻である両シチリア王女マリア・アントニアとの間に、第十子(五男)として生まれた。

オーストリア皇太子ルドルフと親しく、プロイセン嫌いで、親ロシアの立場こそがハプスブルク君主国にとって望ましいとの考えを持っていた[2]オーストリア=ハンガリー帝国の軍隊制度や教育制度、外交方針、さらには旧時代的な社会全般にも反発し、(才能豊かながらも)しばしば叱責を受けるハプスブルク家の問題児であった[2][1]

出典[編集]

  1. ^ a b 江村(2013) p.277
  2. ^ a b 江村(2013) p.197

参考文献[編集]

  • 江村洋フランツ・ヨーゼフ:ハプスブルク「最後」の皇帝』河出書房新社河出文庫〉、2013年12月。ISBN 978-4-309-41266-5 

関連書籍[編集]

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