ヨハネによる福音書1章

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ヨハネによる福音書1章(よはねによるふくいんしょ1しょう)は新約聖書ヨハネによる福音書の中の一章。1-18節がロゴス讃歌、19-28節が洗礼者ヨハネの証し、29節より、ヨハネとイエスが出会い、また弟子達を招くという内容である。ロゴス讃歌はそれ以降の箇所から独立しているように見られることもあるが、ロゴス讃歌はヨハネによる福音書全体の序曲であり、その解釈がこの後に続くヨハネによる福音書の解釈にも関わるのである。

[1]

日本語訳[編集]

ヨハネによる福音書1章は51節からなる。

1節 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2節 この言は、初めに神と共にあった。
3節 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4節 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5節 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6節 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7節 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8節 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9節 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10節 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11節 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12節 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13節 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14節 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15節 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16節 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17節 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18節 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
19節 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
20節 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
21節 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
22節 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
23節 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24節 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
25節 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
26節 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
27節 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
28節 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
29節 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30節 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31節 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
32節 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33節 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
34節 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
35節 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
36節 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
37節 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
38節 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ— — 『先生』という意味— — どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
39節 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
40節 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41節 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア— — 『油を注がれた者』という意味— — に出会った」と言った。
42節 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ— — 『岩』という意味— — と呼ぶことにする」と言われた。
43節 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
44節 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
45節 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46節 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
47節 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
48節 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
49節 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50節 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
51節 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

— 日本聖書協会新共同訳聖書

1節 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2節 この言は、初めに神と共にあった。
3-4節 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
5節 光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
6節 一人のが現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。
7節 この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。
8節 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9節 まことの光りがあった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。
10節 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11節 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。
12節 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
13節 この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。
14節 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15節 ヨハネは、この方について証しをし、大声で言った。「『私の後から来られる方は、私にまさっている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」
16節 私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを与えられた。
17節 律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18節 いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
19節 さて、ヨハネの証はこうである。ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせたとき、
20節 彼は公言してはばからず、「私はメシアではない」と言った。
21節 彼らがまた、「では、何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「そうではない」と言った。さらに、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「違う」と答えた。
22節 そこで、彼らは言った。「誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事ができるようにしてください。あなたは自分を何者だと言うのですか。」
23節 ヨハネは言った。
「私は、預言者イザヤが言ったように
『主の道をまっすぐにせよ』と
荒れ野で叫ぶ者の声である。」
24節 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
25節 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアではなく、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
26節 ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。
27節 その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」
28節 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
29節 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30節 『私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさっている。私よりも先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことである。
31節 私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た。」
32節 またヨハネは証しして言った。「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33節 私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』
34節 私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
35節 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と共に立っていた。
36節 イエスが歩いておられるのに目を留めて言った。「見よ、神の小羊だ。」
37節 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
38節 イエスは振り返り、二人が従ってくるのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
39節 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らは付いて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
40節 ヨハネから聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41節 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った」と言った。
42節 そして、シモンをイエスのもとに連れて行った。イエスは彼に目を留めて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする』と言われた。
43節 その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。
44節 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
45節 フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46節 ナタナエルが、「ナザレから何の良いものが出ようか」と言うと、フィリポは「来て、見なさい」と言った。
47節 イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
48節 ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。
49節 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50節 イエスは答えて言われた。いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。それよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう。」
51節 さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

— 日本聖書協会共同訳聖書

解釈[編集]

1-18節はロゴス讃歌である。1節の初めに言があったという書き方は創世記の冒頭を意識したものであり、ロゴス讃歌もそれを意識して読まれるべきである。

初めに、神は天地を造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 — 創世記1章1-5節、新共同訳聖書

2-3節では言が神と共にあり、その言によって世界のすべてのものが創造された。新共同訳や共同訳はこの創造論的解釈を取る。岩波訳では「すべてのことは、彼を介して生じた」としており、言によって歴史が生じたという歴史的解釈を取る。4節では新共同訳では言の内に命があったとしているが、共同訳や岩波訳では言によって成ったもの(こと)が命であるとしている。[2]

はじめに、ことばがいた。/ことばは、神のもとにいた。/ことばは、神であった。/この方は、はじめに神のもとにいた。すべてのことは、彼を介して生じた。/彼をさしおいては、なに一つ生じなかった。/彼において生じたことは、命であり、その命は人々の光であった。 — ヨハネによる福音書1章1-4節、岩波訳聖書

5節の「理解しなかった」のギリシア語はκατέλαβεν(katelaben)であり、直訳すると捕えるとかつかむという意味である。これを新共同訳では「理解しなかった」とし、共同訳では暗闇の勢力がイエスを捕え、つかみ、抑えようとしたがそれができなかったとして「勝たなかった」と訳している。

6-8節では証言者としての洗礼者ヨハネについて書かれている。

マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書における洗礼者ヨハネはいずれも伝記的な紹介があり、イエスの先駆者として描かれているが、ここでは先駆者というより証言者としての側面が強調されている。

9-13節ではイエスの生涯がコンパクトに表されている。イエスがもたらす啓示が真の光であり、その光によってすべての人が照らされるのである。しかし、すべての人がそれによって見えるようになるわけではない。光のないところではすべての人が見えない者であるが、光のあるところでは言を認めない者と受け入れる者に分かれ、それにより見えない者と見えない者に分かれるのである。

9章24-41節では目の見えるファリサイ派たちが見えない者であることが宣告され、目の見えなかった者が見える者とされることが書かれている。

さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」 — ヨハネによる福音書24-41節、新共同訳聖書

14-18節は受肉した言がイエス・キリストであることを証している。14節のἐσκήνωσεν (eskēnōsen)は宿られたと訳されるが、「幕屋」の動詞形であり、共同訳では別訳として「幕屋を張った」としている。出エジプト記40章33-34節では臨在の幕屋に主の栄光が満ちたことが書かれているが、ヨハネは父の独り子の栄光が人々の間に満ちると語っているのである。

主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。 — 出エジプト記40章33-34節、新共同訳聖書

他にもフィリピの信徒への手紙2章6-8節でイエス・キリストが人々の間におられるということが示されている。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 — フィリピの信徒への手紙2章6-8節、新共同訳聖書

15-16節はマルコによる福音書1章7節と同様ヨハネがモーセを通して与えられた恵みに加えてイエスによる満ち溢れる恵み、豊かさについて証しているが、マルコによる福音書とは異なりキリストの先在についても語られている。

17節ではイエス・キリストが旧約聖書の枠を超えた存在であるとしている。18節で「いまだかつて、神を見た者はいない」とあるが、人々が直接神に、恵みと真理に到達できるわけではなくイエス・キリストをとおして神とつながり、恵みと真理をいただくことができるということである。

19-28節ではバプテスマのヨハネがイエスについて証言している。ファリサイ派(分離するという意味があり、ヘレニズム化された世界においてモーセの律法を保つ防波堤としての役割を果たした)から遣わされた祭司やレビ人がヨハネを詰問する。ヨハネはメシアでもエリヤでも申命記18章15節にあるモーセのような預言者でもないと語り、イザヤ書40章3節の言葉を用いて答える。また、奴隷の仕事である履物のひもを解く資格もないと語ることで奴隷以上にへりくだっている。

あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。 — 申命記18章15節、新共同訳聖書
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 — イザヤ書40章3節、新共同訳聖書

29-34節では共観福音書に見られるようなイエスがヨハネから洗礼を受ける描写はなく、6-8節と同様に先駆者というより証言者としての側面が強調されている。29節の世の罪を取り除く神の子羊とは、過越祭の子羊が念頭に置かれているとの読みとイザヤ書53章7節からの引用であるとの読みがある。

苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 — イザヤ書53章7節、新共同訳聖書

30節では15節で言われていたことを再び明らかにしている。31-33節ではヨハネは水でバプテスマを授けるが、イエスは聖霊によってバプテスマを授けると言い表すことでイエスの優越性を重ねて強調する。

35-42節ではイエスが最初の弟子をとる。ヨハネは2人の弟子に「見よ、神の子羊だ。」と語りかける。この見るということは単にイエスを目で見るということではなく、イエスをメシアであると認め、イエスに従うことである。2人の弟子はイエスが泊まるところを聞き、ついていく。これはただ単にイエスと同じところに宿泊したということにとどまらず、神の救いの計画について知り、またイエスがどこに行こうとしているのかを知ろうとしていることをも示している。イエスの弟子になったアンデレはシモンにイエスが来たことを知らせ、シモンはケファと名付けられる。

43-51節ではフィリポとナタナエルが弟子となる。イエスはガリラヤに行こうとしたときにフィリポに出会って弟子とし、フィリポはナタナエルに出会ってイエスのことを知らせる。ナタナエルの返答にあるナザレから何か良いものが出るかというのはヨハネによる福音書7章41-42節及びミカ書5章1節にあるようにメシアはベツレヘムから出ると言われていることを指している。他にもナザレは小さな村に過ぎないためであるとも考えられる。

この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」 — ヨハネによる福音書7章40-42節、新共同訳聖書
エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 — ミカ書5章1節、新共同訳聖書

47節でイエスがナタナエルのことをまことのイスラエル人と言う。ナタナエルが弟子として理想化されているとの読みもあるが、45節でナザレの人ということで疑いを抱いていること、49節でイエスをイスラエルの王と呼んでいることからナタナエルがイエスの救いをイスラエルの枠内でしか捉えておらず、異邦人の救いが視野に入っていないことを表現しているとの読みもある。聖書が証ししているイエス・キリストはユダヤ人にとどまらずすべての人間の救いのため地上に遣わされたのである。[3][4][5][6] 

脚注[編集]

  1. ^ 松永希久夫, 眞山光彌,三好迪, 山岡健 著、Bシュナイダー, 高橋虔,川島貞雄, 橋本滋男,堀田雄康 編『新共同訳新約聖書注解1マタイによる福音書-使徒言行録』日本基督教団出版局、1991年、392-404頁。ISBN 978-4818400818http://bp-uccj.jp/publications/book/4818400815/ 
  2. ^ 新約聖書翻訳委員会『聖書を読む 新約篇』岩波書店、2005年、23-51頁。ISBN 978-4000236607https://www.iwanami.co.jp/book/b261247.html 
  3. ^ 田川建三『新約聖書 訳と註 第五巻 ヨハネ福音書』作品社、2013年、7-10,75-145頁。ISBN 978-4-86182-139-4http://www.sakuhinsha.com/bible/21394.html 
  4. ^ G.S.スローヤン 著、鈴木脩平 訳『現代聖書注解ヨハネによる福音書』日本基督教団出版局、1992年、29-75頁。ISBN 978-4-8184-0103-7http://bp-uccj.jp/publications/book/481840103X/ 
  5. ^ 和田 幹男、木田 献一『新共同訳 聖書辞典』キリスト新聞社、1997年、351,406,408-409頁。ISBN 978-4873952901 
  6. ^ Rudolf Bultmann 著、杉原助 訳『ヨハネの福音書』日本基督教団出版局、2005年、55-116頁。ISBN 978-4818405400