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ユリウス・コンスタンティウス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユリウス・コンスタンティウス
Julius Constantius

出生 293年以降
死亡 337年
父親 コンスタンティウス1世
母親 テオドラ
配偶者 ガッラ英語版
バシリナ
子女
息子[1]
英語版
ガッルス
ユリアヌス
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フラウィウス・ユリウス・コンスタンティウスラテン語: Flavius Julius Constantius, 337年9月没)はコンスタンティヌス朝の一族で、コンスタンティウス1世と皇后フラウィア・マクシミアナ・テオドラの息子であり、コンスタンティヌス大帝の異母弟、ユリアヌス帝の父である。

生涯

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ユリウス・コンスタンティウスの異母兄コンスタンティヌス大帝

ユリウス・コンスタンティウスはコンスタンティウス1世と皇后フラウィア・マクシミアナ・テオドラの息子として生まれた。彼には2人の兄弟(ダルマティウス英語版ハンニバリアヌス)および3人の姉妹(コンスタンティア英語版アナスタシア英語版エウトロピア英語版)がいた[2]。コンスタンティウス帝とヘレナの間に生まれた皇帝コンスタンティヌス1世は異母兄にあたる。

ユリウス・コンスタンティウスは2回結婚している。最初の妻ガッラ英語版は後に執政官を務めるウゥルカキウス・ルフィヌス英語版およびネラティウス・ケレアリス英語版の姉または妹であり[3]、彼女との間に2人の息子と1人の娘を設けた。名前の知られていない長男は337年、父と共に殺害される[1]。次男ガッルスは後に従兄コンスタンティウス2世によって副帝に任命される[4]英語版はコンスタンティウス2世の最初の妻となった[5]。ユリウスとガッラにはもう1人娘がいたのではないかと考えられており、皇后ユスティナ英語版の母だったかもしれない[6]

ガッラの死後、ユリウス・コンスタンティウスはエジプト知事ユリウス・ユリアヌス英語版の娘であるギリシア人女性バシリナと結婚する[7][8][9]。バシリアとの間には後にユリアヌス帝となる息子が生まれたが、バシリナは夫より早く332年または333年に亡くなっている[10]

コンスタンティヌスの母ヘレナの意向に従い[11]、ユリウス・コンスタンティウスは異母兄の宮廷には住まわず、ダルマティウスおよびハンニバリアヌスと共にトロサエトルリア(息子ガッルスの生地)、コリントスを転々とした[12] 。ヘレナの死後ようやくコンスタンティノポリスに呼ばれ[12]、同地でコンスタンティヌスと良好な関係を築いた[13]

コンスタンティヌスは異母弟を気に入り、彼にパトリキの称号を与え、335年にはケヨニウス・ルフィウス・アルビヌス英語版と共に執政官へと任じている[1]。しかし、337年にコンスタンティヌスが亡くなった後、コンスタンティウス2世は一族の男性を粛清するよう命じた[14]。ユリウス・コンスタンティウスは長男と共に殺害され、財産は没収された[15]。より幼い2人の息子は助命された。彼らはその後副帝および正帝の座に昇ることになる。

脚注

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  1. ^ a b c Jones, Martindale & Morris, p. 226.
  2. ^ Jones, Martindale & Morris, p. 895.
  3. ^ Jones, Martindale & Morris, p. 382.
  4. ^ Jones, Martindale & Morris, pp. 224–225.
  5. ^ Jones, Martindale & Morris, p. 1037.
  6. ^ Noel Emmanuel Lenski (2006). The Cambridge companion to the Age of Constantine, Volume 13. ISBN 0-521-52157-2, p. 97.
  7. ^ Bradbury, Jim (2004). The Routledge companion to medieval warfare. Routledge. p. 54. ISBN 0-415-22126-9. https://archive.org/details/routledgecompani00brad_406. "JULIAN THE APOSTATE, FLAVIUS CLAUDIUS JULIANUS, ROMAN EMPEROR (332–63) Emperor from 361, son of Julius Constantius and a Greek mother Basilina, grandson of Constantius Chlorus, the only pagan Roman Emperor after 313." 
  8. ^ Norwich, John Julius (1989). Byzantium: the early centuries. Knopf. p. 83. ISBN 0-394-53778-5. https://archive.org/details/byzantiumearlyce0000norw. "Julius Constantius…Constantine had invited him, with his second wife and his young family, to take up residence in his new capital; and it was in Constantinople that his third son Julian was born, in May or June of the year 332. The baby's mother, Basilina, a Greek from Asia Minor, died a few weeks later…" 
  9. ^ Julian, Letters 60.
  10. ^ Jones, Martindale & Morris, p. 148.
  11. ^ Burgess 2008, p. 8.
  12. ^ a b Crawford 2016, p. 86.
  13. ^ Libanius, Orations 1, 524.
  14. ^ Burgess 2008, pp. 25–27.
  15. ^ Julian, Letter to the Athenians 273B.

文献

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公職
先代
フラウィウス・オプタトゥス英語版
アムニウス・アニキウス・パウリヌス英語版
執政官
335年
共同統治者 ケヨニウス・ルフィウス・アルビヌス英語版
次代
ウィリウス・ネポティアヌス英語版
テッティウス・ファクンドゥス英語版