ユベール・マガ
ユベール・マガ Hubert Maga | |
ユベール・マガ(1961年撮影)
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任期 | 1970年5月7日 – 1972年5月7日 |
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任期 | 1960年12月11日 – 1963年10月28日 |
任期 | 1959年5月22日 – 1960年12月11日 |
任期 | 1951年7月5日 – 1959年7月15日 |
出生 | 1916年8月10日 フランス領ダホメ パラクー |
死去 | 2000年5月8日(83歳没) ベナン コトヌー |
政党 | (ダホメ進歩同盟→) (北部民族グループ→) (ダホメ民主運動→) ダホメ民主集会 |
受賞 | |
出身校 | ウィリアム・ポンティ高等師範学校 |
配偶者 | マリー・ド・レゴ |
宗教 | イスラム教→キリスト教カトリック |
署名 |
クトゥク・ユベール・マガ(フランス語: Coutoucou Hubert Maga, 1916年8月10日 - 2000年5月8日)は、ダホメ共和国(現在のベナン)の政治家。ダホメ共和国初代大統領となり、以後も数度大統領職に就いた。
マガは1916年8月、フランス領西アフリカのダオメー植民地北部の中心都市パラクーにて、バリバ人として生まれた。パラクーの学校を卒業後、フランス領セネガルにあったウィリアム・ポンティ高等師範学校を卒業した。ここでのちにニジェールの大統領となるアマニ・ディオリと友人となった。ウィリアム・ポンティ高等師範学校は植民地エリートの養成校であり、ここでの人脈がのちの独立期のマガの政治的財産の一つとなった。
卒業後、1935年にダオメー北部のナティティングーにおいて教師の職に就いた。1951年には北部を代表する政党としてダオメー民主連合(Dahomey Democratic Rally、DDR)を結成した。同時期に、南部ではヨルバ人のスル・ミガン・アピティがダオメー共和党(PDD)を結成し、同じくフォン人のジャスティン・アホマデグベがダオメー民主同盟(Dahomey Democratic Union、UDD)を結成して三党鼎立の状態となった。1960年の独立前におこなわれた選挙でダオメー民主連合は20議席を獲得して第2党となり、同じく20議席を得て第2党となったダオメー民主連合と連立を組み、マガが独立後の首班に推されて、1960年8月1日の独立時には初代大統領に就任した。[1]
しかし、独立はしたものの経済は低迷し、また主要三党間では政争が絶えず、マガ政権は安定しなかった。混乱が続く中、1963年10月27日にはクリストファ・ソグロ将軍によるクーデターが起き、マガ政権は転覆した。その後は短命な政権が次々と交代したが政局は安定せず、1970年には再びマガ、アピティ、アホマデグベによる三頭政治が復活した。三者は大統領評議会を設けて政権の2年ごとの交代をおこなうことで合意し、マガが最初に議長の座について、1970年5月7日から1972年5月7日までの2年間の任期を全うし、政権をアホマデグベに引き渡した。しかし、この状況下では経済の向上も政治の改革も望めず、再び1972年10月26日にはマチュー・ケレクによるクーデターが勃発して、マガは失脚し、1981年までの9年間、アホマデグベ及びアピティとともに投獄されていた。2000年5月8日、マガは83歳でコトヌーにて死去した。
脚注
[編集]- ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 115ページ