ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカUnited Productions of AmericaUPA)は、1940年代から1970年代にかけて活動したアメリカ合衆国アニメーションスタジオ。1970年代以降のUPAは、東宝株式会社からの日本映画の配信を行っている。

アニメーションの歴史は、専らディズニーワーナー・ブラザースの手になる無数のカートゥーン作品の商業的成功によって覆い尽くされている。それにもかかわらず、UPAがアニメーションの手法と技術に与えた衝撃は重要なものであり、UPAの改革は他の大手アニメーションスタジオの認識し採用するところとなった。UPAはリミテッド・アニメーション技術の開拓者であり、この手法は1960年代から1970年代にかけて制作費削減の手段として濫用されるようになっていったものの、本来はアニメーション映画上で実写映画のリアリズムを再現しようとするディズニーに代表される業界の主流に対して、別の手法による選択肢として導入されたものであった。

歴史[編集]

発祥[編集]

UPAは1941年ディズニーアニメーターのストライキから生まれた。このストライキの結果として、多数のウォルト・ディズニーの専属スタッフらが彼のスタジオを離れた。それらの一人であるレイアウト・アーティストのジョン・ハブリー英語版は、ディズニーの唱える極めて写実的なアニメーションスタイルに不満を抱いていた。多くの同僚と共に、ハブリーはアニメーションが現実を苦心して模倣する必要はないと考えており、アニメーションという媒体が映画的リアリズムを描写しようとする努力で抑圧されているのを感じていた。チャック・ジョーンズによる1942年の短編アニメーション『The Dover Boys』は、アニメーションがその主題に適する様式化された芸術形式を創造するための、キャラクターデザインや立体感、パースペクティブを自由に実験できるかもしれない事を示していた。ハブリーは既存のアニメーションスタジオにとっては先鋭的な表現手法を実践するに足る自由度を備えたアニメーション映画の制作を模索していた。

ハブリーはアニメーターのザック・シュワルツ、デイブ・ヒルバーマン、スティーブン・ボスストウらと組んで、ユナイテッド・フィルム・プロダクション、後のインダストリアル・フィルムズ・アンド・ポスター・サービスを設立し、そこで彼らの求める手法の応用に着手した。戦時下に勃興した分野である政府のための広報に仕事と収入を見出した彼らは、1944年全米自動車労働組合(UAW)の出資によるアニメーション作品を制作した。『Hell-Bent for Election』と題されたチャック・ジョーンズ監督によるこの短編は、フランクリン・ルーズベルトの再選キャンペーンのために制作された作品であった。この映画は商業的成功を収め、同じくUAWの出資による『Brotherhood of Man』(1946年)の制作につながった。ボビー・キャノンにより監督された『Brotherhood of Man』では、人種に関わらず人類は共通の部分を持っているとの主張が為されていた。この短編はそのメッセージ性にとどまらず、ディズニーのアプローチとはまったく異なるその非常に平面的かつ様式化されたデザインにおいても画期的であった。新たに見出した名声の中で、このスタジオは社名をユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ(UPA)に改めた。

初期のUPAは合衆国政府の委託によりアニメーション映画を制作していたが、1940年代後半に共産主義者の活動が疑われたハリウッドFBIの調査の手が伸びるにつれ、政府との契約は解消されていった。第二次赤狩り初期に、UPAからはいかなる社員も起訴されなかったが、ワシントンがハリウッドとの繋がりを断ち切ったことにより、政府との契約は失われた。

コロンビア傘下での成功[編集]

UPAはスタジオを維持するために競争相手に満ちた劇場用アニメーション映画の分野に乗り出し、コロンビア ピクチャーズとの契約を結んだ。当時のコロンビアはアニメーション短編映画の分野における敗北者であり、傘下にあるスクリーン ジェムズ・カートゥーンスタジオの作品に失望させられていた。UPAのアニメーター達は短編『Robin Hoodlum』(1948年)と『Tha Magic Fluke』(1949年)で、その様式化という手法をコロンビアのキャラクターであるフォックス・アンド・クロウに適用した。この2作の監督はハブリーが手掛けた。この両作品はアカデミー賞にノミネートされ、コロンビアはUPAに新キャラクターの創造を許可した。UPAはこれを受けて動物キャラクターではなく、頑固で近視の老人という人間キャラクターを生み出した。近眼のマグーの初登場作品である『The Ragtime Bear』(1949年)は大ヒットし、1950年代に入るとUPAの守護星は俄然輝きを増し始めた。

喋るネズミやウサギやクマがひしめきあう中にあって人間のキャラクターという目新しさは言うに及ばず、当時の他のアニメーション映画とは一線を画するその独特にして簡素なスタイルにより、近眼のマグーシリーズはUPAへの賞賛を集めた。1953年の『When Magoo Flew』と1955年の『Magoo's Puddle Jumper』の2本のマグーシリーズは、アカデミー賞の短編アニメ賞部門を受賞した。

1951年に、UPAはドクター・スースの原作に基づく『ジェラルド・マクボイン・ボイン』で次のヒットを飛ばした。『ジェラルド・マクボイン・ボイン』でUPAは新たなアカデミー賞を獲得し、幾つかのUPAのアニメーション作品は続く数年間においてオスカー賞にノミネートされた。同じく1951年に、UPAは漫画家にしてユーモア作家のジェームズ・サーバー原作の『Men, Women and Dogs』と題された長編アニメーションの企画をアナウンスした[1] (この長編に用いられる予定であったサーバーの短編の一本『庭の一角獣』のみが、最終的に短編アニメーションとして配給された[2])。『The Tell-Tale Heart』や『Rooty Toot Toot』等の短編は、競合会社のいかなる作品とも異なる際立って洗練されたデザインを特徴としていた。「UPAスタイル」の影響は他の大手アニメーションスタジオに著しい変化を与えた。これらの大手スタジオにはワーナー・ブラザースMGM、そしてディズニーすらも含まれていた。UPAのスタイルは、実験アニメーションの新時代の到来を告げていた。

衰退[編集]

UPAに打撃を与えたのは下院非米活動委員会の公聴会であった。調査結果に危機感を覚えたコロンビアは、共産主義活動に対する僅かな兆候を見せる者は、誰であろうと解雇するようにUPAに圧力を加えた。その中には脚本家のフィル・イーストマンやビル・スコット(スコット自身に嫌疑は掛けられていなかったが、イーストマンのパートナーとして共産主義への汚染を委員会から疑われていた)も含まれていた。実際に共産主義者との関わりを持っていた政治活動家であるハブリーは、1952年5月に解雇された。ハブリーが去ると、UPAの創意工夫の大部分も彼と共に去った。スタジオはボスストウを社長に頂き存続したが、UPAのアニメーションの活発で革新的な品質は回復不能な損害を蒙った。1959年にUPAは劇場用アニメーション短編の制作を中止した。

テレビへの転換[編集]

1960年代前半にハリウッドの大手スタジオらはそのアニメーション部門の縮小や廃止を始め、UPAもまた財政困難に陥り、ボスストウはスタジオを新たなプロデューサーであるヘンリー・G・サパースタインに売却した。スタジオを維持すべく、サパースタインはUPAの活動をテレビ中心に転換した。UPAは『近眼のマグー』シリーズを拡張し、コミック・ストリップディック・トレイシー』のアニメ化を含む他のアニメーションシリーズと共にテレビで放映した。スタジオは運営を続けたものの、過密な制作スケジュールと予算削減が作品の品質低下を招いた。UPAはかつて映画館で公開した数よりも遥かに多量の作品の粗製濫造を強いられ、作品の質、特にマグーシリーズの質は悲惨な水準にまで落ち込んでいった。

UPAのリミテッド・アニメーションは他のアニメーションスタジオ、特にハンナ・バーベラ・プロダクション等のテレビ向けアニメーションスタジオの採用するところとなった。しかしながら、それは表現上の選択としてではなく、むしろ予算削減の手段として行われていた。アニメーションの枠を広げ新たな芸術形式を生み出そうというUPA本来の志とは裏腹に、次の20年間には安上がりな大量生産される低品質アニメーションがテレビアニメーションを消耗品の地位に貶めていた。

テレビ期におけるUPAの唯一の栄光は、『がんばれマグー』(原題:The Famous Adventures of Mr. Magoo)シリーズの第1話となった『Mr. Magoo's Christmas Carol』(1963年)によって齎された。この作品はチャールズ・ディケンズの物語の精神をそれまでの再話が成しえなかった手段により捉えた作品であり、『スヌーピーのメリークリスマス』(原題:A Charlie Brown Christmas)や『グリンチ』(原題:How the Grinch Stole Christmas!)と並ぶ、1960年代のクリスマスアニメの古典であると考えられている。[3][4]

UPAはその活動期間に2本の長編映画を制作している。ジャック・キニー監督による『近眼のマグー 千一夜物語』(1959年、原題:1001 Arabian Nights)と、エイブ・レヴィトウ監督による『Gay Purr-ee』(1962年)である。

アニメーション部門廃止と東宝との提携[編集]

1964年にアニメーション部門を永久に閉鎖し、UPAのアニメーション作品の版権を売却した後に、アニメーション制作を完全に放棄することで、サパースタインは1960年代のUPAの負債を清算した(ただしマグーやジェラルド・マクボイン・ボイン、その他のUPAキャラクターのライセンスと著作権はUPAが保有した)。これにより、1970年代にデパティエ・フレレング・エンタープライズスタジオは新作アニメーションシリーズ『What's New Mr. Magoo?』を制作する際に、UPAと契約を結んだ。コロンビア映画はUPAの劇場用アニメーションの権利を保有した。テレビ用アニメーションの版権は、現時点(2012年)ではドリームワークス・クラシックの下にある。

その後に、サパースタインは日本の特撮怪獣映画をアメリカで配信するために、東宝株式会社と契約を交わした。アメリカで劇場公開あるいは主にテレビ放映された東宝怪獣映画は新たなカルト映画市場を開拓し、『Creature Double Feature』等の連続テレビシリーズとして纏められてアメリカの若い視聴者に浸透した。それらのシリーズを受け入れた視聴者により、怪獣映画は1970年代から1980年代を通じて人気を博した。1980年代後半に、東宝が『ゴジラ』(1984年版)から始まる怪獣映画の新シリーズ制作を開始すると、UPAは東宝との契約を利用して新作怪獣映画を欧米に広めた。

UPAは今日もなおアメリカにおけるゴジラ映画の版権を所有し続けている。またUPAと東宝との契約は、サパースタインにウディ・アレンの初監督作品『What's Up, Tiger Lily?』を製作させることとなった。現在はドリームワークス・クラシックがほとんどのUPA作品の版権に関する付属権利を所有しているが、近眼のマグーのライセンス権利はUPA自体が保有しており、サパースタインはディズニーの不成功に終わった1997年の実写映画『Mr.マグー』のエグゼクティブ・プロデューサーであった。

クラシック・メディア(現:ドリームワークス・クラシック)とソニー・ワンダーは『Mr. Magoo's Christmas Carol』から始まるマグーのDVDシリーズを2001年から発売している。

参考文献[編集]

  1. ^ Priceless Gift of Laughter. Time Archive: 1923 to the Present. Time Inc. (1951-07-09). 2008-01-29参照
  2. ^ The Unicorn In The Garden. The Big Cartoon Database. 2008-01-29参照
  3. ^ Hill, Jim (November 28, 2006). [jimhillmedia.com/editor_in_chief1/b/jim_hill/archive/2006/11/27/christmas-carol-vi.aspx Scrooge U: Part VI -- Magoo's a musical miser]. JimHillMedia.com. 2008-1-29参照
  4. ^ Conan, Neil (host) (2006-12-25). Choose Your Favorite Scrooge (audio). Talk of the Nation. National Public Radio. 2008-01-29参照
  • Barrier, Michael (1999): Hollywood Cartoons. Oxford University Press.
  • Maltin, Leonard (1987): Of Mice and Magic: A History of American Animated Cartoons. Penguin Books.
  • Solomon, Charles (1994): The History of Animation: Enchanted Drawings. Outlet Books Company.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]