ヤーコフ・ゼヴィン

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ヤーコフ・ダヴィドヴィチ・ゼヴィン
Яков Давидович Зевин
Художественные маркированные конверты 1984 года. Зевин Яков Давидович.jpg
1984年発行のソ連の絵葉書より
通称: パヴェル
生年: 1888年6月21日
生地: ロシア帝国の旗 ロシア帝国モギリョフ県ロシア語版チェリコフ郡クラスノポーリェベラルーシ語(タラシケヴィツァ)版
没年: 1918年9月20日(満30歳没)
没地: ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ザカスピ州クラスノヴォツク郡、カスピ海横断鉄道ペレヴァル駅=アフチャ・クイマ駅間[1]
思想: マルクス・レーニン主義
活動: バクー・コミューンの指導
所属: メンシェヴィキ→)
ボリシェヴィキ
母校: ロンジュモー党学校

ヤーコフ(パヴェル[2])・ダヴィドヴィチ・ゼヴィンロシア語: Яков (Павел) Давидович Зевин1888年6月21日 - 1918年9月20日)は、ロシア革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。

生涯[編集]

1888年6月21日(ユリウス暦6月9日)、ロシア帝国モギリョフ県ロシア語版クラスノポーリェベラルーシ語(タラシケヴィツァ)版ユダヤ人[3]商人の家庭に生まれた[4]1904年からロシア社会民主労働党に入党し、メンシェヴィキとしてカメンスク、エカテリノスラフバクーなどの地下組織で活動[4]1908年にはバクーで船員のストライキを主導して逮捕され[4]、その後もヴォログダ県アルハンゲリスク県東シベリアロシア語版への追放を繰り返された[5](1907年、1908年、1912年、1916年[3])。

1911年にはフランスへ留学し、ロンジュモーウラジーミル・レーニンが主催していた党学校 (ru) で学んだ[4]。翌1912年プラハで開催されたロシア社会民主労働党第6回全ロシア会議英語版にはメンシェヴィキ派の代表として出席したが、この会議から後はボリシェヴィキに転向した[4]1915年からボリシェヴィキのバクー委員会メンバーとなり、1917年2月革命後はモスクワ地区委員会で、8月からはバクーの石油労働者連合で働いた[4]。翌1918年3月にミュサヴァト党の反乱が起こるとその鎮圧に関わり、翌4月にバクー・コミューンが発足すると、その労働委員に就任した[4]

しかし、7月末にコミューンが崩壊すると逮捕され、9月20日に社会革命党によって[4]、他のコミューン成員らとともに銃殺された[5]

脚注[編集]

  1. ^ Джапаридзе Прокопий Апрасионович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年4月3日閲覧。
  2. ^ БАКИНСКИЕ КОМИССАРЫ / М. Лифтиц // АЭРОДРОМНАЯ СЛУЖБА — ВАРТА. — М. : Советская энциклопедия, 1933. — С. 100. — (Советская военная энциклопедия : [в 12 т.] / гл. ред. Р. П. Эйдеманドイツ語版 ; 1932—1933, т. 2).
  3. ^ a b Зевин Яков Давидович”. Еврейский портал: всё об еврееях. 2016年4月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h ЗЕВИН // ДВИНСК — ИНДОНЕЗИЯ. — М. : Советская энциклопедия, 1964. — (Советская историческая энциклопедия : [в 16 т.] / гл. ред. Е. М. Жуков ; 1961—1976, т. 5).
  5. ^ a b Зевин Яков Давидович // Евклид — Ибсен. — М. : Советская энциклопедия, 1972. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 9).