ヤガン・テギン

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ヤガン・テギンモンゴル語: Yaγan Tegin、? - 1291年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、カルルク部の出身。『元史』では也罕的斤(yĕhǎndejīn)と漢字表記される。

概要[編集]

ヤガン・テギンの祖父のカダル・ミール(匣答児密立)は3000のカルルク兵、1万を越える羊・牛・馬を携えてモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カン帰参した人物であった。カダル・ミールはホラズム遠征にも従軍したが、後に第二次金朝遠征において臨洮の戦いで戦死した。カダル・ミールの息子はミール・ホージャ(密立火者)は、父の後を継いで金朝の征服に貢献し、第4代皇帝モンケの治世では雲南・大理遠征に従軍して万戸府ダルガチの地位を授けられたが、父同様に陣没した[1]

ミール・ホージャの息子のヤガン・テギンは1261年(中統2年)に始めて千人隊長とされ、五花・石城・白馬等の城寨を攻略する功績を挙げた。1270年(至元7年)には成都攻めに加わり、僅か400の兵で南宋の軍を破った功績により蒙古匣剌魯(モンゴル・カルルク)河西漢軍万戸の地位を授かった。1275年(至元12年)には重慶1277年には瀘州の攻囲戦に加わって功績を挙げ、昭毅大将軍とされた。第5代皇帝クビライは新たに投降した兵の中から優秀な者を選抜してヤガン・テギンに与え、嘉定軍民・西川諸蛮夷部宣撫司ダルガチに任じた。また同時に奉国上将軍・四川宣慰使・都元帥の地位も与えられている[2]

1284年からはビルマ遠征に従軍し、200もの軍船を建設して江頭城を攻略する軍功を挙げた。その後もビルマ侵攻に活躍したが、1291年に亡くなった。コニチ(火你赤)とイェレンシャー(也連沙)という息子がおり、前者は雲南都元帥の地位を授かり、後者はヤガン・テギンの蒙古軍万戸職を受け継いだ[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻133列伝20也罕的斤伝,「也罕的斤、匣剌魯人。祖匣答児密立、以斡思堅国哈剌魯軍三千来帰於太祖、又献羊牛馬以万計。以千戸従征回回諸国、又従睿宗及折別児諭降河西諸城、後従攻臨洮死焉。父密立火者、従太宗滅金、又従憲宗攻蜀、為万戸府達魯花赤、没于軍」
  2. ^ 『元史』巻133列伝20也罕的斤伝,「中統二年、也罕的斤為千戸、数有戦功、下五花・石城・白馬等寨。至元七年、宋兵入成都、也罕的斤以兵四百人与之相拒四日、宋兵退、追撃於眉州、大破之、授蒙古匣剌魯河西漢軍万戸、戍眉州。従囲嘉定、築懐遠寨以守其要害、宋兵出戦、輒敗。十二年、入朝、賜對衣・玉束帯・白金百両、加昭勇大将軍・上万戸、益兵万人。会囲重慶、尽督馬湖江両岸水陸軍馬。十四年、従囲瀘州、攻神臂門、先登抜之。従行枢密副使卜花攻重慶、屯仏図関、屡戦有功、移屯堡子頭、宋守将趙安開門降。重慶既平、復将其衆、略地思州、得降将百餘人、加昭毅大将軍。帝以西川新附、選能鎮撫之者、授嘉定軍民・西川諸蛮夷部宣撫司達魯花赤、増戸万餘。進奉国上将軍・四川宣慰使・都元帥」
  3. ^ 『元史』巻133列伝20也罕的斤伝,「十七年、征斡端、拝雲南行省参知政事。二十一年、与右丞太卜・諸王相吾答児分道征緬、造舟于阿昔・阿禾両江、得二百艘、進攻江頭城、抜之、獲其鋭卒万人、命都元帥袁世安守之。且図其地形勢、遣使詣闕、具陳所以攻守之方。先是、既破江頭城、遣黒的児・楊林等諭緬使降、不報、而諸叛蛮據建都太公城以拒大軍、復遣僧諭以禍福、反為所害、遂督其軍水陸並進、撃破之、建都・金歯等十二城皆降、命都元帥合帯・万戸不都蛮等以兵五千戍之。二十八年、改四川行枢密副使、卒。子二人、火你赤的斤、雲南都元帥。也連沙、襲蒙古軍万戸」

参考文献[編集]

  • 櫻井智美「元代カルルクの仕官と科挙 慶元路を中心に」『明大アジア史論集』第13号、2009年
  • 元史』巻133列伝20