メーソン・ロック・ウィームズ

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メーソン L. ウィームズの肖像

メーソン・ロック・ウィームズ(Mason Locke Weems, 1759年10月11日 - 1825年5月23日)は、アメリカ合衆国の書籍販売業者、作家。通例「ウィームズ牧師」(Parson Weems) とよばれる。ジョージ・ワシントンの死の直後に最初の伝記を著した。

ワシントンにかんする真偽の不確かな物語のいくつかは彼の著作が出典である。サクラの樹の話(「ぼくはうそをつけないよ。ぼくが自分の手斧(ておの)でやりました。」)[† 1]は、『ワシントン伝』(The Life of Washington)(1809年刊。初版1800年)の第5版にふくまれた。同書はワシントンの徳行を描き、若い国家の若者を倫理的に教化するような話を提供する意図で書かれたもので、ベストセラーとなった。[1]

伝記[編集]

Bel Air (Woodbridge, Virginia)
ベル・エア農場 (Bel Air Plantation)。1805年に、ウィームズとその一家は、義父ジェシー・イーウェル大佐 (Col. Jesse Ewell) の死にさいしてここに移った。

メーソン・ウィームズは、1759年10月11日にメリーランド州アナランデル郡にうまれた。 彼は、ロンドンで神学をまなび、1784年に米国聖公会の聖職者に任命された。 彼は1784年から1792年まで、メリーランド州で聖職者として様々な役職に就いた。 ウィームズは金銭的困窮のために副業を求めざるをえず、巡回書籍販売業者として働きはじめた。 ウィームズは、1795年にフランシス・イーウェル (Frances Ewell) と結婚し、ヴァージニア州ダンフリーズに一家をかまえた。 彼は、ダンフリーズに小さな本屋をもっていたが、本を売ったり説教したりしながら広く旅行をつづけた。この建物には現在ウィームズ=ボッツ博物館英語版がはいっている。[2]

ダンフリーズから遠くないところには、ヴァージニア州ロートン英語版のトゥルーロ教区 (Truro Parish) に属するポヒック教会 (Pohick Church) があり、革命前の時代にそこでジョージ・ワシントンとその父オーガスティン・ワシントンの両者が礼拝していた。 ウィームズはのちに、このワシントンとのつながりをふくらまし、自分を「(ワシントンの地所があった)マウント=ヴァーノン教区の牧師だった」[† 2]として売り込んだ。

ウィームズのほかの有名な作品には、『将官フランシス・マリオン伝』(1805年)(Life of General Francis Marion)、『ベンジャミン・フランクリン伝 付論文』(1817年)(Life of Benjamin Franklin, with Essays)、『ウィリアム・ペン伝』(1819年)(Life of William Penn)がある。 彼は、熟達したヴァイオリン奏者であった。[要出典]

義父ジェシー・イーウェル大佐(1743年 - 1805年)の死後、ウィームズは、ヴァージニア州プリンス・ウィリアム郡にあるイーウェル家の地所ベル・エア (Bel Air) を横取りし、自分の債務を一部、返済した。 1808年に、ウィームズとその一家はベル・エアに移り、そこに彼は死ぬまで住んだ。 サウスカロライナ州ビューフォートを旅行中、1825年5月23日にウィームズは死亡したが、死因は不詳である。 彼はベル・エアに埋葬されている。[3]

影響と歴史的信頼性[編集]

ニュー・ヨーク・タイムズは、ウィームズをアメリカ文学の「初期の聖人伝作者」[† 3]のひとりと呼び、「沼のキツネ (Swamp Fox) ことフランシス・マリオンをアメリカのパンテオンにまつらせ、またそこにジョージ・ワシントンのための場所を確保した」[† 4]と評した。[4]

もし彼の生彩に富んだ語りと、信憑性への疑惑の間の緊張がなかったならば、こんにちウィームズの名前は十中八九、忘れられていたであろう。『アップルトンのアメリカ人名事典』(1889年)は疑惑について「ウィームズのすべての著作に対して訴えられる真実性の欠如」[† 5]と述べ「彼が、伝記の主人公たちの名誉になるならばどんな話を載せても許されると考えていたことは確実である」[† 6]と記した。 サクラの樹の逸話は、この点を例証する。 ウィームズの伝記にみつかるもうひとつの疑わしい逸話は、冬のあいだの、バレーフォージでのワシントンの祈りのそれである。[5][6]

ワシントンの賞揚[編集]

アメリカ合衆国建国の父ら、そしてとくにジョージ・ワシントンにたいして、19世紀のアメリカ人によってはらわれた尊敬は、21世紀のアメリカ人にとっては、奇妙に誇張されたように思われるかもしれないが、しかしワシントンがそのように見なされて「いた」ことは、争われていない。 この尊敬の絶頂は、アメリカ合衆国議会議事堂の天井に、ブルミディ英語版フレスコワシントンの神格化英語版』というかたちで、見ることができる。

ウィームズの『将官ジョージ・ワシントンの生と死、徳行と偉業の歴史』(A History of the Life and Death, Virtues and Exploits of General George Washington)[7]は、この精神で書かれた伝記で、ウィームズのトレードマークである、けばけばしい、陽気にはしゃいだ文体で増幅されている。 この記述によれば、彼の主題は「...ワシントン、『英雄』、半神...」[† 7]であったし、それどころか「...真に彼は、人類の友にして恩恵者なる、保護者ジュピター[であった]...」[† 8]でさえあった。 この誇張法で、ウィームズは、ワシントンをローマ皇帝のごとき神格化の対象としてジュピター [† 9]になぞらえ、「ジュピター、帝国の保護者」[† 10]、のちには「ジュピター、世界の救い主」[† 11]と呼んだ。

サクラの樹の逸話[編集]

誇張されたあるいは捏造された逸話のなかに、サクラの樹のそれがあり、ウィームズによって以下の人物に帰せられている、すなわち「...年をとった女性、彼女はワシントン一家のとおい親戚で、少女のとき、一家とおおくの時間をすごした...」[† 12]、そして彼女は、わかきジョージを「いとこ」("cousin") とよんだ。[8]

以下の逸話が、適切な事例である。 これはあまりに貴重なので失うことはできず、あまりに真実なので疑うことはできない。 というのも、これは、先ほどの逸話を語ってくれたのと同じ素晴らしい女性がわたしに伝えてくれた話である。

彼女は言った「ジョージが6歳くらいだったとき、手斧の裕福な主人となった! 彼は、おおくの少年とおなじく、それが好きすぎて、じゃまになるものはなんでもぶち切りながら、いつも歩き回っていた。 ある日、よく母のエンドウの支柱をめった切りにして楽しんでいた庭で、彼は運悪く、手斧の刃を、美しいイングランドのサクラの若木の幹で試したが、あまりに深く切り込んだので、樹はそのままだめになってしまった。 翌朝、老ワシントンは、自分の樹にふりかかったことを見て取った。ところで、その樹は彼のお気に入りだった。 気色ばんで、家のなかにはいってくると、いたずらの張本人に会いたいといい、同時に罰金を5ギニー払っても許すつもりはないぞと宣言した。 答えるひとはだれもいなかった。 やがてジョージとその手斧が姿を現した。 「ジョージ」と父親はいった「だれが庭のあそこに立っていた美しいサクラの樹を枯らしたか知っているか?」 きびしい問いであった。 ジョージはそのためにちょっとのあいだぐらついた。 しかしすぐにたちなおった。 そして父親をみて、ゆるぎない真実を語る者の言いようのない魅力で若い可愛い顔をかがやかせ、勇気をふるってさけんだ「ぼくは[うそを]つけないよ、とうちゃん。 ぼくはうそをつけないよ 手斧できったんだ」 「この腕に走ってこい、かわいいぼうや」父親は我を忘れて叫んだ「うでに走ってこい。 うれしいぞ、とうさんは、ジョージ、おまえがとうさんの樹をからしたことが。 おまえは、ひきかえに、とうさんに1000倍、支払ってくれたんだからな。 わたしの息子のこのような英雄的な行為は、1000本の樹をこえる価値がある。銀の花が咲き、純金の実を結ぶ樹であったとしても」 [† 13]

この逸話は、広く用いられていた教科書『マガフィー・リーダー英語版』に載せられて教養の一部をなし、ワシントンの2月22日の誕生日をサクランボ料理でいわう習慣を生み、しばしばサクランボが彼のおきにいりと主張される原因となった。

1896年に刊行されたウッドロウ・ウィルソンによる伝記『ジョージ・ワシントン』(George Washington) はこの逸話を作り話と呼び、そののち、当時の歴史家はほとんどすべてそれに追随した。とはいえ、ワシントンの親族が作り話だと認めたことはない。中でもエレノア・パーク・カスティス・ルイス英語版(1779年 - 1852年)がこれを否定していないのは特筆に値する。ルイスはワシントンによって実の娘として育てられ、ワシントンの記念を残したり、不正確な逸話を訂正することに人生を捧げた人物である。

数人の歴史家が作り話だと推測しているにもかかわらず、この物語は、まことしやかなままで、真実とも虚偽とも証明されていない。[9]

関連作品[編集]

1911年に、ローレンス・C・ロス英語版は、『Parson Weems: A Biographical and Critical Study』を刊行した。[10] このなかで、彼は、ウィームズはサクラの樹の物語で最もよく知られているという事実にたちむかい (p. 6)、その蓋然性の証拠を調べている (pp. 65ff)。

『ウィームズ牧師の寓話』1939年 グラント・ウッド ウィームズとそのサクラの樹の物語の両者をえがく

1939年に、グラント・ウッドは、『ウィームズ牧師の寓話』(Parson Weems' Fable) という題で問題の場面をえがいた。 アメリカの文物をやさしくもアイロニックな筆致で描いたウッド作品の一つで、ウィームズがサクランボで縁取りされた幕をめくって物語を見せているところを描いたものである。

脚注[編集]

原文[編集]

  1. ^ "I cannot tell a lie, I did it with my little hatchet"
  2. ^ "rector of Mount-Vernon parish"
  3. ^ "early hagiographers"
  4. ^ "who elevated the Swamp Fox, Francis Marion, into the American pantheon and helped secure a place there for George Washington"
  5. ^ "this charge of a want of veracity [that] is brought against all Weems's writings"
  6. ^ "it is probable he would have accounted it excusable to tell any good story to the credit of his heroes"
  7. ^ "... Washington, the hero, and the Demigod ..."
  8. ^ "... what he really was, [was] 'the Jupiter Conservator,' the friend and benefactor of men"
  9. ^ "Jupiter Conservator [Orbis]"
  10. ^ "Jupiter, Conservator of the Empire"
  11. ^ "Jupiter, Savior of the World"
  12. ^ "... an aged lady, who was a distant relative, and, when a girl, spent much of her time in the family ..."
  13. ^ The following anecdote is a case in point. It is too valuable to be lost, and too true to be doubted; for it was communicated to me by the same excellent lady to whom I am indebted for the last. "When George," said she, "was about six years old, he was made the wealthy master of a hatchet! Of which, like most little boys, he was immoderately fond, and was constantly going about chopping everything that came in his way. One day, in the garden, where he often amused himself hacking his mother's pea-sticks, he unluckily tried the edge of his hatchet on the body of a beautiful young English cherry-tree, which he barked so terribly, that I don't believe the tree ever got the better of it. The next morning the old gentleman, finding out what had befallen his tree, which, by the by, was a great favourite, came into the house; and with much warmth asked for the mischievous author, declaring at the same time, that he would not have taken five guineas for his tree. Nobody could tell him anything about it. Presently George and his hatchet made their appearance. "George," said his father, "do you know who killed that beautiful little cherry tree yonder in the garden? " This was a tough question; and George staggered under it for a moment; but quickly recovered himself: and looking at his father, with the sweet face of youth brightened with the inexpressible charm of all-conquering truth, he bravely cried out, "I can't tell a lie, Pa; you know I can't tell a lie. I did cut it with my hatchet." "Run to my arms, you dearest boy," cried his father in transports, "run to my arms; glad am I, George, that you killed my tree; for you have paid me for it a thousand fold. Such an act of heroism in my son is more worth than a thousand trees, though blossomed with silver, and their fruits of purest gold."

注釈[編集]

  1. ^ Buescher, John. "[Is the Story of George Washington and the Colt a True Story?]" Teachinghistory.org, accessed September 23, 2011.
  2. ^ Howard, R. W. "Mason Locke Weems" in American Historians, 1607–1865. Ed. Clyde Norman Wilson. Dictionary of Literary Biography Vol. 30. Detroit: Gale Research, 1984. From Literature Resource Center.
  3. ^ Architectural Description of Bel Air Plantation”. Historic Prince William. 2015年1月1日閲覧。
  4. ^ Delbanco, Andrew (1999年7月4日). “Bookend; Life, Literature and the Pursuit of Happiness”. The New York Times. https://www.nytimes.com/1999/07/04/books/bookend-life-literature-and-the-pursuit-of-happiness.html 
  5. ^ Mason Locke Weems (1918). “13: Character of Washington”. A History of the Life and Death, Virtues and Exploits of General George Washington. Philadelphia: J. B. Lippincott. http://xroads.virginia.edu/~cap/gw/chap13.html#potts 2015年1月1日閲覧。. 
  6. ^ フェリー・ファーム (Ferry Farm) のワシントン農場 (Washington plantation) の近くで、スペイン・ドル硬貨 (Spanish dollar)(あるいはその寸法の石)をラッパハノック川 (Rappahannock River) をこえて、90 m投げたという物語は、ウィームズの伝記のなかで起こっていないようにおもわれ、そのかわりに、ワシントンの、血縁のない孫ジョージ・ワシントン・パーク・カスティス (George Washington Parke Custis)(1781 - 1857年)に帰せられている。この離れ業とされているものは、1936年に、有名なプロ野球のピッチャーウォルター・ジョンソンによって再現されている。Article 22: Throwing Your Money Away”. The E-Sylum: Volume 8, Number 11 (2005年3月13日). 2015年1月1日閲覧。
  7. ^ Mason Locke Weems (1918). “1: Introduction”. A History of the Life and Death, Virtues and Exploits of General George Washington. Philadelphia: J. B. Lippincott. http://xroads.virginia.edu/~cap/gw/chap1.html 2015年1月1日閲覧。. 
  8. ^ Mason Locke Weems (1918). “2: Birth and Education”. A History of the Life and Death, Virtues and Exploits of General George Washington. Philadelphia: J. B. Lippincott. http://xroads.virginia.edu/~cap/gw/chap2.html 2015年1月1日閲覧。. 
  9. ^ Mount Vernon Ladies Association
  10. ^ Archived online

出典[編集]

読書案内[編集]

  • Wroth, L. C. (1911). Parson Weems; a biographical and critical study. Baltimore, Md: The Eichelberger Book Company. OCLC 3340752. 
  • Wikisource-logo.svg "Weems, Mason Locke" . Appletons' Cyclopædia of American Biography. 1900.

外部リンク[編集]