メル (ドゥー=セーヴル県)

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Melle
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏
(département) ドゥー=セーヴル県
(arrondissement) ニオール郡
小郡 (canton) メル小郡
INSEEコード 79174
郵便番号 79500
市長任期 イヴ・ドゥビアン
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes du Mellois
人口動態
人口 3656人
2013年
人口密度 375人/km2
住民の呼称 Mellois
地理
座標 北緯46度13分22秒 西経0度08分38秒 / 北緯46.2228度 西経0.1439度 / 46.2228; -0.1439座標: 北緯46度13分22秒 西経0度08分38秒 / 北緯46.2228度 西経0.1439度 / 46.2228; -0.1439
標高 平均:m
最低:87m
最高:174 m
面積 km2
Melleの位置(フランス内)
Melle
Melle
公式サイト www.ville-melle.fr
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メルMelle)は、フランスヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ドゥー=セーヴル県コミューン

地理[編集]

メルを取り巻く地方は、牧草地、クリやクルミ、マツが植えられた森林があり、緩やかな起伏となっている。地質は、石灰岩質の断片が点在する粘土状の土壌で構成されている。土地は肥えており、ウマゴヤシツメクサイワオウギ、コムギの栽培を可能にしている。

メルの町は、メロワ台地の中心にある岩の露頭の上に築かれている。ニオールの南東27km、ポワティエから60km、サン=ジャン=ダンジェリから45km離れている。メルは1926年まで準県都であり、以後は小郡が置かれている。メルはフランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路、トゥールの道(fr:Via Turonensis)の途上にある。

歴史[編集]

人の定住は古代からあった。シャン・ペルセでの考古学的発掘では、2世紀と4世紀の未発掘の墓が発見されている[1]

古い町の名称Metullumの起源は不確かである。一部の人々は、ラテン語 metallum(鉱物や金属を意味する)の破壊された形態か、metula(小さな境界石)から派生したとみなしている。名称はケルト語起源をもつmetlから派生した可能性が高い。地名においてよく証言される名称であるが、正確な意味は議論されている。高さ、または囲い地か[2]

銀鉱山での鋳造の実演

中世最盛期のメルは、硬貨鋳造の活発な地であった。町の中や周辺に重要な銀鉱山があったからである[3]。鉱山は少なくとも602年から995年まで利用されていた。鉱物から方鉛鉱が取り出された。銀を含む鉛である。鉛は最初、フランク族の王に忠誠を示すため用いられた。ダゴベルト1世の時代、毎年8000リーヴルがパリに送られ、鉛はサン・ドニ大聖堂の防備に使われた。

硬貨鋳造は768年から1189年まで盛んであった。硬貨の製造は、特に864年にシャルル2世の勅令のおかげで活動維持を認可された10軒の工房で盛んだった[4] 。そこは広大なアキテーヌの中で唯一合法に行われていた。2種類の硬貨が鋳造されていた。オボルスデナリウスである。

工房での活動は以下のように記述されている。『望むように地金が複数のポンドごと切り分けられた。金の厚さを薄くして金塊を打ち出し、金づちで叩いてそれらを丸くして、定められた目方にした。硬貨の原盤は彫って作られ、両面に王家のモノグラムである刻印を打った。それは皇帝の名か、工房の名称だった。メルで鋳型が発見されており、CARLUS REX FRの銘が刻まれたものがニオールの歴史博物館に収められている。ルイ敬虔王の金塊の背面には、2本の金づちが表されており、2つの鋳型には、METALLVM(メル)の名が鋳造工房の名の代わりに取り巻くように刻まれている。鋳造がここで行われていた。』[5]

今日、古い銀鉱山の一部を訪れることができる。この銀鉱山は訪問できるものの中で最古の鉱山である。この銀鉱山はボヘミアの銀鉱山より何世紀も先んじていた。

848年、首領ハスティング(fr)に率いられたヴァイキングたちがメルを探して略奪をはたらいた[6][7]。1000年の少し前には、工房はニオール、サン=ジャン=ダンジェリ、ポワティエに移っていった。この時代の鉱山の不満は、鉱脈の枯渇、または政治的・経済的変化に起因する可能性がある。少なくとも彼らは地震に持ちこたえられなかった。

町は3年前に調印されたブレティニーの和議により1363年、エドワード3世の王子トマス・オブ・ウッドストックに与えられた[8]

第5次ユグノー戦争中、1575年にモンパンシエ公ルイ3世は、3日間の包囲の後に知事を拘束し、メルを攻略した。カトリーヌ・ド・メディシスも、1586年に娘婿のアンリ・ド・ナヴァール(のちのアンリ4世)とメルで面会している。

1790年から1795年まで、メルは地区の中心地であり、1800年から1926年まで郡庁が置かれていた。

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2008年 2013年
3762 4257 4402 4119 4003 3851 3623 3656

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[9]、2004年以降INSEE[10][11]

史跡[編集]

サンティレール教会ファサード
サン=ピエール教会
サン・サヴィニアン教会内部

中世の要塞の遺構のほか、メルには興味深い3つのロマネスク様式の教会がある。

サンティレール教会[編集]

聖イレールとは、367年に死んだ初代ポワティエ司教の名前である。この教会は3つの中で最大で、今も唯一、礼拝の場所として使われている。10世紀の憲章によれば、教会はサン=ジャン=ダンジェリのベネディクト会派修道院の傘下にあった。おそらく961年にポワトゥー伯ギヨーム・テト・デトゥープによって修道院に与えられたのである。教会の原型は木造であった。12世紀に現在の建物に置き換えられている。現在の教会は2段階に分けて建設された。1090年代に内陣と翼廊が、1150年代にはファサードと身廊が建設された。

サンティレール教会は1887年3月30日以来、フランス歴史的記念物となっている。また、フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の1つとして、1998年にUNESCO世界遺産に登録されている[12]

サン=ピエール教会[編集]

サン=ピエール教会は、950年以降に礼拝堂のあった位置に、12世紀初頭、黄土色の石灰岩を用いて建てられた。サン=メクサン修道院の傘下にあった。最古の教会建物は、カロリング朝時代の墓地に囲まれていた[13]

教会建物は1965年から1966年の間に修復され、新たなステンドグラスと新たな屋根に取り換えられた。1862年以降、フランス歴史文化財指定されている。

教会の設計は非常に簡素である。広い本堂が、平らな翼廊につながり、翼廊の先には礼拝堂がある。翼廊はシュヴェ中央の後陣をそれぞれ支える。翼廊の交差地点が、4つの狭い開口部を持つ角型の塔となっており、1466年からピラミッド状の屋根で覆われている。

サン=サヴィニアン教会[編集]

おそらく3つの教会のうち最も古くに建設されている。封建時代に築かれたメル市街の中に建てられた唯一の教会である。そのファサードは簡素だが調和がとれている。その姿は12世紀のものであることを暗示させる。教会は2つの目隠しアーケードに囲まれた入り口を持つ。入り口のティンパヌムは馬の鞍を形どっている。この装飾はオーヴェルニュ一帯では広くみられるが、ポワトゥーではまれである。メダリオンに囲まれたキリスト磔刑像を示す弱弱しい彫刻は、2頭のライオン像の間に立っている。扉の上、軒蛇腹(コーニスとも)のカラス像の間には、平たい動物彫刻が見られる。四足動物、鳥、鹿、魚のみならず、苦しむ人々、騎士、そしてエロティックな光景が描かれている。

南側の翼廊はロマネスク様式の入り口を備えている。

内部は、その身廊が反転したボートの形のようなフレームで覆われている。そこでは、役人フランソワ・ウリエとピエール・サテュルヌ・ウリエの墓を鑑賞することが可能である。後者はビュシェット(buchettes)と呼ばれた裁判の張本人で、ラ・フォンテーヌはこの話に触発されて『メルの判事』(le Juge de Melle)を書いた。

内陣の柱、柱頭は聖サヴィニアンの殉教を表している。翼廊の交差地点は、トロンプのドームが載せられている。

1801年から1927年まで、この教会は刑務所にされていた。現在では音楽祭や展示会が行われる会場となっている。1914年より歴史的記念物指定されている[14]

ゆかりの人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Melle Deux-Sèvres, Inventaire Général du Patrimoine Culturel, Geste Éditions, coll. « Images du Patrimoine », La Crèche, 1993-2006 ISSN 0299-1020
  2. ^ Le Robert encyclopédique des noms propres 2008, Le Robert-Sejer, Paris, 2007 ISBN 978-2-84902-228-3
  3. ^ Les mines d'argent des Rois Francs, en ligne.
  4. ^ Edit de Pîtres du 25 juin 864, promulgué par Charles II le Chauve.
  5. ^ Pierre Riche, La vie quotidienne dans l'empire carolingien, Paris, Hachette, 1973.
  6. ^ Robert Favreau, in Jean Combes (dir.), Histoire du Poitou et des Pays charentais : Deux-Sèvres, Vienne, Charente, Charente-Maritime, Clermont-Ferrand, éditions Gérard Tisserand, 2001, 334 p.
  7. ^ Michel Dillange, Les comtes de Poitou, ducs d'Aquitaine : 778-1204, Mougon, Geste éd., coll. « Histoire », 1995, 303 p., ill., couv. ill. en coul. ; 24 cm (ISBN 2-910919-09-9, ISSN 1269-9454, notice BnF no FRBNF35804152), p. 56
  8. ^ Robert Favreau, op. cit., p. 196
  9. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=21894
  10. ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
  11. ^ http://www.insee.fr
  12. ^ Site Unesco
  13. ^ Une société de pierre : Les épitaphes carolingiennes de Melle. Société archéologique et spéléologique du Mellois et le Centre d’études supérieures de civilisation médiévale (Université de Poitiers/CNRS). Présentation d'une exposition.
  14. ^ http://www.culture.gouv.fr/public/mistral/merimee_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=PA00101266