メディア・リテラシー

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メディア・リテラシー: media literacy)とは、情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、そのを見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言え、カナダ・イギリスおよびオーストラリアでは、カリキュラムに取り入れるよう国の政府が指定している。アメリカ合衆国での扱いは、州によって異なる。アメリカ合衆国以外では、メディア・リテラシーが単に「メディア教育」と呼ばれることも多い。

「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もあるがこの項では主に、「情報を評価識別する能力」「情報をクリティカル(批判的)に読み取る」という意味でのメディア・リテラシーについて記述する。

メディア・リテラシーで取り扱われるメディアには、公的機関やマスメディア新聞テレビラジオ等)を始め、映画音楽書籍雑誌等の出版物インターネット広告等、様々なものがあり、口コミ(口頭やブログ等)や各種の芸術等も含まれることがある。

メディア・リテラシーとして学ぶこと[編集]

受信者として[編集]

メディアを通して情報を受け取るもの(受信者)としては、発信された情報には、程度の差こそあれ、何かしらの偏り・嘘や誇張、間違った情報などが含まれていることを知り、メディア情報の話者、目的、内容、背景等を的確に読み取る必要があることを学ぶ。すなわち、「情報を評価・識別する能力」を身につけることで、情報を正しく利用することを学んでいく。

一方に偏った情報をそのまま鵜呑みにしていたのでは、その物事に関する正しい知識を身に付けることが難しくなる。また、今日の社会では情報への依存度が非常に大きく、場合によっては、偏った・間違った情報をそのまま信じてしまい、様々な局面で何かしらの不利益を被ってしまう可能性も十分予想される。

そのため、受信者の側に立つ人間には、発信された情報を受け取る際、「その情報は信頼できるかどうか」を判断することは無論のこと、どのような偏りがあるか、さらに一歩進めて、その情報を発信した側にはどのような意図・目的で情報を流したり、編集をしたか考え、各種の背景を読み取り、情報の取捨選択を行う能力が求められる。

また、情報は文字だけでなく、映像や音声や音楽とともに伝えられている。学校では、文字中心の教育がなされているが、情報は映像や音声、音楽を組み合わせて作られていることを教えたり、読み取り方を教える必要がある。現代の識字、読み書き(literacy)という意味でメディア・リテラシーと呼ばれる。

なお、メディアが発する情報に、嘘や誇張、間違った情報などが含まれていた例としては、大本営発表イラク戦争でのアメリカ政府発表などもがある。

発信者として[編集]

一つの物事について様々な捉え方がある事、また自分なりの捉え方に基づき情報を発信出来るという事自体は、思想表現の自由上、望ましいことである。しかし、マスメディアは、様々な視点をもとに情報を発信し、ひとつの意見に偏らないように、最大限心がける必要があり、メディア・リテラシーとして、このことも学んでいく。

マスメディアは極めて多数の人間が利用しており、それだけ社会に及ぼす影響力が大きい[1]。逆に言えば、マスメディアが虚偽報道をしたり、ある意図(例えば特定の人物、勢力を有利、あるいは不利な状況に導く等)に基づいた報道を行えば、その影響も大変強いものとなる。そのため、マスメディアには信頼性・中立性が求められており、各報道機関も、自主的に指針を立てて、様々な視点から報道するようにしている[2]。マスメディアがしばしば「第四の権力」と呼ばれる理由も、ここにある。

歴史[編集]

諸外国の状況[編集]

イギリスでのメディア・リテラシーの萌芽として、1933年に、F・R・リーヴィスとデニス・トンプソン(トムソン)が、マスメディアを批判的に読み解くことについて言及している。ただし、リーヴィスらは、現在のメディア・リテラシーの意味とは違い、大衆文化の影響を避け、正統なものを見分けることを求めていた。他方、アドルフ・ヒトラーの情報操作が他国でも問題になっており、BBCでプロパガンダを見分ける放送が行われたり、1936年にローマ教皇によりメディア教育を授業に組み入れるよう呼びかけが行われた。その後、1960年代には、メディアの中からより高級なものに興味を持てるようにする教育がよく取り入れられた。

しかし、1970年代にかけて、メディアが大衆に受け入れられ表現も多様化されていった中で、イギリス・ノッティンガム大学のレン・マスターマンが、1985年に『メディアを教える』(Teaching the Media[3]を出版した。マスターマンは、「メディア・リテラシーは単にクリティカルな知力を養うだけでなく、クリティカルな主体性を養うことを目的する」と述べ、後に、「メディア・リテラシーの18の基本原則」をまとめている。

一方、カナダでは1960年代、マーシャル・マクルーハンのメディア分析と時を同じくして、社会問題を考えるための映画分析が学校教育で行われていた。1966年には、トロントで、映画教育教会が設立されている。

その後、1970年代に教育の保守化・予算削減などが原因で映画教育の動きは下火になったが、バリー・ダンカンにより、メディア・リテラシー教会(AML)が作られ、草の根ベースのメディア・リテラシー活動を行っていた。このメディア・リテラシー教会の政府への働きかけなどにより、1987年、メディア・リテラシーがカナダのオンタリオ州のカリキュラムとして導入され、1989年、オンタリオ州教育省からメディア・リテラシーの教育者向けガイド[4]が発行された。

このように、1980年代後半からは、カナダ・イギリスなどでメディア・リテラシーを学校教育に取り入れることも盛んになってきた。

日本[編集]

日本におけるメディア・リテラシー以前の状況[編集]

江戸時代、日本では情報規制が厳しく行われていた。特に幕末では、倒幕派攘夷派の起こした事件は、瓦版などで大きく報道できなかった。そのため、隠語などを用いて瓦版を発行し、知識がある者がそれを読み取っていた。

昭和初期には、大陸での陸軍の暴走(満州事変など一連の大陸での事件)がメディアによって支持され、世論により政府の不拡大政策は崩れた。さらに、第二次世界大戦勃発後、ドイツの快進撃が報道されるに及び、ドイツとの同盟論が復活(ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだことにより、同盟論は沈静化していた)し、その上英米に歩み寄る政府の姿勢をメディアが批判的に報道し、世論は対英米協調に反対を示し、それに乗じた陸軍の工作により、協調路線をとる米内光政内閣は崩壊した。一つの見方では、メディア・リテラシーの欠如が日中戦争の拡大を促し、太平洋戦争を勃発させたとも言える。

太平洋戦争下では露骨な情報操作が行われていた。報道や軍事などに詳しいものであれば疑うこともあった内容ではあるが、軍部による言論の弾圧もあったため、疑念を表に出すことがあれば非国民とされ、生きていくこともままならなかった状況でもあった。もしメディア・リテラシー教育が行き届いていたとしても、開戦自体を止められなければ無力であるとも言え、常日頃のメディア・リテラシーが重要であることを示唆している。

戦後(1957年)、テレビというマスコミの悪影響を一億総白痴化などと言われたことがあった。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう。」といったもので、現代におけるインターネット批判と同様の事が50年も前から起こっていた。しかし、メディア・リテラシー教育は無かったため、そういったメディアを読み、聞き、見ていく訓練は自主的に行わなければならなかった。

日本のメディア・リテラシーの発展[編集]

日本では、メディア・リテラシーが3つの領域から発展している。ひとつは、前述の諸外国によるメディアリテラシーの輸入、もうひとつは、視聴覚教育やコンピュータ・情報教育からの発展、そして専門学校・大学・企業などで職業訓練の一環として行われるものである[5]

メディア・リテラシー導入以降の状況[編集]

物心ついたころからテレビがどこかにあった世代(団塊の世代後期〜)においては、テレビや新聞は絶対であり、テレビや新聞など大手の情報源以外の情報は取るに足らないとする風潮が強かった[要出典]読売新聞(2006年10月20日)のアンケートによって、50歳代で最も高い92%、最も低い20歳代でさえ83%が新聞を「大いに信頼できる」「だいたい信頼できる」と返答したが、各新聞社による虚偽報道や誤報は後を絶たない。

また、テレビでも2007年1月に起こった情報バラエティー番組「発掘!あるある大事典II」(フジテレビ)における「納豆ダイエットデータ捏造問題や、2011年1月に起こったニュース番組「news every.サタデー」(日本テレビ)における取材対象の企業の社員を一般客に装ったやらせ演出など虚偽情報を放送する事件が度々起きており、メディア・リテラシー教育の必要性は全年代にあると言える。 Wikipediaの情報も、出典の明記など、より確かな情報を得られるようにする方策が採られているが、それでも、虚偽の内容や誤った情報、そして古い情報が紛れ込んでいる可能性は大いにある。他の文献などを参照し、より精確な理解を深めることが必要である。

メディア・リテラシー教育[編集]

日本におけるメディア・リテラシー教育[編集]

2012年現在、日本の学習指導要領に「メディア・リテラシー」の文言は、まだない。しかしながら、例えば、「総合的な学習の時間」で「情報」を扱い、中学校の美術の表現活動として「映像メディアの積極的な活用」がなされ、技術・家庭科の技術分野では「多様なメディアを複合し、表現や発信ができること」が目標とされており、実質的なメディア・リテラシー教育も、さまざまなところで行われている。

しかしながら、子どものみならず、教師に対するメディア・リテラシー教育も必要であるとの指摘もある[6]。情報メディア研究家の保岡裕之は、メディア・リテラシーの言葉・概念を知っている学生は7割以上いるが、具体的に情報を適切に評価・活用できておらず、むしろ退化している人がふえているのではとも指摘している[7]

日本のメディア・リテラシー教育の実例としては、

  • NIE」による教育での、メディアに対する読解力の向上。
  • 英語の教科書でメディア・リテラシーの概念についての読解。
  • 東京大学大学院情報学環教育部が、東京大学をはじめとする学部学生や大学院生、社会人を対象にしたメディア・リテラシー専門教育の実施。

などがある。

「情報を発信する力」を育成する意義[編集]

メディア・リテラシーは、市民のエンパワーメントを目的としている。かつて、文字の読み書きが貴族、それも主に男性だけに認められた時代から、教育によってすべての国民が読み書きする時代になった。映像制作や放送も、放送局だけが行うことでなく、すべての国民が自己表現、自己主張することを目指さなければないのである。リテラシーが識字、つまり読み書きなのであるから、「書き」の部分の教育方法の開発や作品を公表するために地域との協力体制作りが必要である。福井県では県内の小・中・高等学校がNHK福井放送局と協力して、児童・生徒が制作した番組を「発信マイスクール」という5分間のコーナーで放送してきた。2000年から5年間で135校、県内の学校の35%が番組を制作し、放送した。普段の子ども姿が映るため、保護者に安心感を与え、学校のイメージアップにつながった。マスコミで流される学校のイメージは悪いため、ギャップに気づかされることになるのである。子どもの作品が大人のメディア・リテラシー教材となるのである。また、学校によってはケーブルテスト(Cable Test)を行ったり、学校評価に使うところもあった。メディアを使う立場になれば、単なる視聴者からすぐに脱却できることがわかる。[8]

教科書の変化[編集]

2000年から小・中学校の国語教科書に「ニュース番組を作ろう」などの内容が入った。自分たちのニュース番組を作るために構成表を書き、調査に行くことが示されている。ビデオカメラで撮影する姿や、「校内放送してみんなで見るのも楽しいでしょう」と制作、放送を勧めている。

大学におけるメディア・リテラシー教育[編集]

大学では、学生が映像制作し、地方局・CATVやインターネットで放送するところが増えている。茨城県では茨城大学・筑波大学・東京藝術大学がNHK水戸放送局と協力して「熱血スタジアム」という15分番組を月3回放送した。[9]。 信州大学は、CATVに「信州大学チャンネル」を1チャンネル持ち、講演会・研究会・市民講座を放送するだけでなく、学生が制作した作品も放送している。東京情報大学では、学生が毎週地元のCATVに番組を供給しているだけでなく、千葉県内の高等学校の放送部を支援して番組を作り、千葉テレビから放送している。中央大学・白鴎大学・愛知淑徳大学なども学生が制作した番組をCATVから放送している。このように、大学ではメディア・リテラシーを制作・放送のレベルで行っている。

現代の動向[編集]

現代では各種メディアが大きく発達したのに合わせ、以前よりも情報の必要性・重要性が増しており、同じく情報のもたらす影響も以前より遥かに大きくなっていると言える。また、情報をテレビのみに依存しがちになることが増えているほか、インターネットの普及により、未成年の段階から大量の情報に触れる機会も多くなっている。そのため、早い段階からのリテラシー教育の必要性が指摘されている。


メディア・リテラシーの提案者[編集]

学校カリキュラムにおけるメディア教育に関する資料については、EUソクラテス・プロジェクトを参照のこと。

要因別に見た情報の偏りの例[編集]

以下に、情報の偏りが生じる要因を挙げ、それぞれについて各種メディアにおける具体例を挙げる。

物理的な制約[編集]

情報を伝えようとする場合、どのような性質をもつメディアを使うかによって伝え方や表現の仕方、伝えられる情報に差が生じる。各メディアにはそれぞれ長所と短所が存在する。またその情報容量や時間の制限、編集規定等により情報の取材や編集の過程にも影響を与える。何か一つの物事(物、人物、集団、出来事等)に関する情報を伝える際、その物事の「全て」を伝えることは物理的に不可能であり、この点は情報を伝える媒体を問わない。このような物理的な理由から、情報を伝える際には、その情報を発信する表現者(情報を伝える個人あるいは組織)は情報の取捨選択をしなければならない。つまり情報を伝えるには、表現者が必ず何かしらの編集を行わざるを得ず、そうして伝えられる情報は必ず「実際の物事の姿」とは異なるものとならざるを得ない。

新聞・雑誌の例[編集]

新聞や雑誌などでは紙面が足りない場合見出しや記述を小さくしたり取り上げないこともある。継続中の企画や連載に紙面を割く一方で突発的な出来事や重大事故、重要な行事のために紙面を変える事も多い。また、印刷や配達の時間を取らなければならないため予め数パターンの記事を書いておく。原稿落ちや広告の都合で紙面に穴が開いたり余白がでる場合は埋め草としての記事を書くといったこともある。

Webページの例[編集]

インターネット上の情報についても掲載者に時間的余裕がなくなったりプロバイダに掲載料金を払えなくなったりした場合更新が停止されたり規模が縮小されることもあり、最終的にはページやサイト自体が消えたりする。それ以外のリスクとしてはクラッキングによる改変、記憶装置の劣化により情報が消える、プロバイダーによる削除やプロバイダーの閉鎖もあり得る。またアクセス制御をする方法としては、ロボット型検索エンジンの検索ロボットに回収されたくないファイルがある場合それを指定する手段として、HTMLファイル内に検索を拒否することを明記したメタタグを記入したり、Webサーバの公開ディレクトリ最上層にロボットの挙動を指定するファイルを配置して行動を制御するという方法がある。しかし、検索ロボットによってはこのような指定を無視するものもある。荒らし行為に対してはアクセス解析を元にした特定サイトからの移動履歴(リファラ)のある利用者、NGワード使用者、に対するアクセス禁止、ページの削除やサイト閉鎖がある。それ以外の要因では、法律の改正による違法化やネットブラウザの管理者によるフィルタリング、行政によるネット検閲等情報への規制によって接触できる情報の構成が変わってくることもある。

表現者の立場による情報の偏り[編集]

一般に、同じ事物に関する情報であっても、その事物に関する見方は情報ごとに(程度の差こそあれども)偏りが生じている。これは、その事物に関する捉え方あるいは評価が表現者(情報を発信する個人あるいは組織)ごとによって異なり、このことが表現者が発信する情報にも影響を与えるためである。捉え方の違いを生む要因として重要なものの一つとして、表現者ごとに種々の立場が違っている点が挙げられる。この違いがもたらす情報への偏りの影響は程度の差はあるが、一般に大きなものとなりがちである。なお、この偏りは、あくまでも情報を発信する側の要因によって発生するものであるため、情報を発信するメディア(テレビラジオ新聞雑誌書籍インターネット・口頭・音楽映画等)を問わず発生する。

球団と新聞社の関係の例[編集]

プロ野球リーグにおいて、A球団とそのライバルであるB球団が存在したとする。この場合、A球団のオーナーである企業系列の新聞であるC紙では、自社と関係の深いA球団を日頃から応援・激励する傾向となるが、B球団のオーナーである企業系列の新聞であるD紙は、自社と関係のあるB球団に敵対するA球団をけなしたりこき下ろしたりする傾向となる。更に、「今日のゲームは7対5でA球団が勝利」という一つの情報を報道するにしても、C紙ではA球団の勝利を評価する内容の報道を行い、D紙ではA球団の勝利を悔しがる内容の報道を行う傾向にある。

各種著作物の例[編集]

雑誌書籍等の印刷物、インターネットサイト電子掲示板(BBS)・ブログ等においても、特定の人物や企業、国家やその政策方針等の事物に関する執筆をする際、著者の事物に対する感情、著者と事物との間にある関係、更には著者の主義思想等により、文章・内容が事物に対して肯定的あるいは否定的と分かれることが多い。例えば、掲示板に、ある人物を批判する書き込みがあったとしても、普段からその人物をよく思っていない人の意見や、その人のせいで不利益を受けている人の意見は、批判側に傾きがちであり、逆に、その人物に好印象を抱いていたり、その存在が自分にとって利益になる場合には擁護する意見となるのが普通である。また、書籍やブログを執筆する際、著者は、自身と似た価値観・主義・思想の人物や政策、あるいは利害関係の一致する人物や自身にメリットのある政策等に対して支持、肯定的な著述を行い、反対に自身と異なる価値観・主義・思想の人物や政策、または自身にとって不都合な人物や政策等に対して反対、否定的な著述を行いがちである。

広告等の故意による例[編集]

著述の偏りは、表現者の捉え方の違いから発生するものであるため、仮に表現者が情報の中立性を極力保とうと意識していたとしても、無意識の内に発信する情報に影響が現れることが少なくない。しかしその一方で、表現者が自身の立場に起因する特定の目的(一例として商品の販売促進、特定の主義・思想の敷衍等)を実現するために、故意に偏った見方の情報を発信するケースも多い(身近なものとしてはCM等、ケースによってはプロパガンダ等が挙げられる)。既存メディアに加え、口コミやインターネットといった個人発信型メディアも発達している現代では、そのようなケースも日常的に見られるようになっている。

無意識の内に偏った情報にしても、故意に偏らせた情報にしても、その情報は受け手に偏った影響を与えやすい。それを少しでも防ぐ為には、メディアから発信される情報が、表現者の立場によって違う見方となることをあらかじめ理解し、情報を受け取る際には、表現者である人物や組織の立場(例えば価値観・主義・思想・信仰・主張・役職・利害関係等)を念頭に置いた上で情報を受け取る必要がある。

なお、表現者の立場による偏りについて、情報を受ける側は十分に注意を払わなければならないが、先に記した通り、各々の表現者が自身の立場・捉え方に基づいた、自由な情報発信・意見交換が行えること自体は望ましいことであり、社会の健全さを表す一つの指標となる。

情報操作[編集]

表現者の編集次第では、情報を意図的に改変・誇張して発信する(情報操作)ことにより受信者(聞き手、読者、視聴者、世論等)の考えを一定の方向に誘導することができる。

表現手法による情報・印象操作の可能性[編集]

例えばテレビニュースの一コマにおいて、その構成や編集によって、事実から大きくかけ離れた印象を受ける可能性がある。

  • まず、「何を撮るか」に取捨選択が働いている
  • その場面を肯定的に伝えるか、否定的に伝えるかは、編集次第である。
  • 明るいBGMを流し、キャスターナレーターコメンテーターが肯定的なコメントをすれば支持宣伝に、逆に不安を掻き立てるようなBGMを流し、批判的なコメントをつければ告発
  • 印象操作の為の表現方法は非常に多種多様であるが、テレビ・ニュースを視聴する際は、キャスターやナレーターの言葉はもちろんの事、同時に流される映像や効果音等に対しても注意して視聴するのが望ましい。なお、新聞や雑誌でも同じく情報・印象操作がある。(新聞であれば、記事の見出しや内容、社説コラム中のコメントを工夫する。また、同じ出来事の報道でも、A紙では一面に大きな見出しを立てて報じているにもかかわらず、B紙では三面の隅のほうに小さなスペースで報じている場合も少なくない)

2012年1月、インターネット上で店の評判を書き込む「食べログ」を舞台にサクラ的な口コミを投稿するなど、「ステマ」と呼ばれる行為が話題になった[10]。「ステマ」とはステルスマーケティングの略で、関係者が一般人を装って商品やサービスを褒める口コミを広げるなどのマーケティング手法を指し、「食べログ」読者を装って、高い評価を得ることによって店の評判を上げたいと思っている店舗に対し、金を使って情報操作を請け負う業者の暗躍が表面化した。このような悪意に満ちた情報操作も横行している。表面に現れている文言に惑わされないような裏読み、深読みなど少し疑って読むことも必要である。特にインターネット上の情報に関しては鵜呑みにせず、他のサイトや、他の情報も参照するなどの注意が必要である。

「語られない情報」の存在[編集]

テレビや新聞のニュースで触れられない情報の存在も常に念頭においておく必要がある。特に、広告主(スポンサー)から広告収入を得ているマスメディアでは、自身の広告主を批判することは、極めて難しい。これは、仮に広告主に対して批判的な報道を行えば、その広告主が降板してしまい広告収入が減ってしまう、あるいは広告主から何かしらの圧力を受けるといった事態を招く事は必至だからであり、基本的に営利追求を目的とするマスメディア企業としては、そのような事態を招きたくないためである。そのため、自身の広告主への批判を自主規制してしまうことが多い。

米国でも意図的に政権批判を避けることがある。大富豪婦人の謎の死と戦争を比べ、報道の加熱は社会への影響を考えるとどちらがより重大であろうか?[2]

また、2006年4月29日にホワイトハウス記者クラブにてブッシュ大統領をねぎらう晩餐会(これを行ったと言う事実は日本で報道されている)において、スティーヴン・コルベアというコメディアンがブッシュ大統領の目前で徹底的にほめ殺し、正面切って政策、そして当時政府の広報機関と化していた各マスメディアの批判をした事はほとんどのメディアが報じなかった。報じたのはCNN(一部のみ)とC-SPANだけである。その後事実隠蔽に対してインターネットで騒ぎになり、ワシントンポスト紙が釈明するという事態になった。接するメディアの数によって知る事実が変わってくると言う一つの例である。

また2006年夏にもトヨタ自動車リコール隠蔽を行い、幹部3人が書類送検されたにもかかわらず、同様な事件であった三菱自動車問題に比べて明らかにマスコミ内での扱いが小さかったという事例もあった。これもトヨタ自動車がマスコミに日本一の巨額な広告費を払っているために、マスコミが報じることを自粛してしまう一例である。その他、マスメディアが自分たちの企業自身の不祥事・問題について報道することはゼロに等しい。逆に、自社のライバルとなる企業の不祥事に対しては鬼の首を取ったような執拗な報道をするメディア企業もある。

このあたりの背景は、マスメディアが報道自体を控えてしまうため、そのマスメディアしか利用していない人の場合、気付く事が難しいという面がある。しかし、それでも、複数のメディアを利用する(例えば一局だけでなく他の局のテレビ・ニュースも見る、他の新聞社の新聞も読む、書籍やインターネット上の情報も参照する、等)事によりある程度理解する事は可能であるが、その捏造や意図的な隠蔽などを指摘する他メディアを無条件で信用してしまうこともまた、大規模なマスメディアを疑わないのと同程度に危険であることを意識しておく必要がある。また逆に言えば、マスメディアの情報を全て疑ってかかり、嘘であると信じ込むのも、同じく危険と言える。起こった事実は一つしかないし変化のさせようがないが、どういう形でどのくらい伝えるか、誰が知り、誰が伝え、誰に伝わるかによって、知る事実の全体や真実は変わってくる、ということである。

肝要なのはある事象についてなるべく多くのメディアから情報を入手し、メディアを保有する媒体社も営利を目的とする企業であり(これはNHKなどの公共媒体団体も大きな変化はなく、団体が解散すれば失業者が出る)利害が存在し、なおかつ媒体、行政機関、またはメディアに関わってくる各種団体などの組織に関わる人々には個々に思想があり、個々人ごとの社会や人間との様々なつながりがある事を前提にし、自分自身で時に自己批判をし、時に受諾しながらその都度考えていくことである。リテラシーの根本は、情報を与えられるその度に自ら考えることである。

ただし、先にも言ったように「事実は一つしかないが、真実は人の数だけある」ということを知っておくべきである。いかに客観的であろうとしても、自分の中で作り上げられた事実のイメージ(または真実と解釈しているもの)はその時点で既に偏っているのである。客観とは「どの程度主観から距離を置けるか」という問題であり、生を全うするために判断行動するという生物の根源的な動きがある限り、本当の意味で客観的な立場をとることは永遠に不可能なのである。

また、広告主を始め、自分が利用しているマスメディアと何かしらの繋がりがある存在(人物、企業、団体、政党、国家等)をあらかじめ知っておく、といった事も役に立つ。

多少特殊な事例として、太平洋戦争中の日本では天気予報が規制されたことがあった。これはスパイなどに予報を入手され空襲等に利用できる情報として応用されるなどの懸念からである。上記の例に合わせれば、これは日本という国家が当時敵対していたソ連、イギリス、アメリカなどの諜報員を警戒した規制であるといえる。

その他の要因によるもの[編集]

一つ一つの情報は正しくても、それらが集合することによって異なった意味を持つことがある。

脚注[編集]

  1. ^ 当然、公的機関にも同じ事が言える
  2. ^ 民間放送連盟の放送基準など。
  3. ^ 日本語版が発行されている。『メディアを教える』宮崎寿子訳、世界思想社、2010年。
  4. ^ 『メディア・リテラシー−マスメディアを読み解く』カナダ・オンタリオ州教育省編(FCT訳)リベルタ出版、1992年。
  5. ^ 水越伸『21世紀メディア論』放送大学教育振興会,2011年
  6. ^ 原克彦・中橋雄「学校教育で育む「メディアリテラシー」」『学校とICT』Sky株式会社,2013年5月30日閲覧。
  7. ^ 保岡裕之『デジタル・メディアの活用技術』長崎出版,2009年,pp.117~118
  8. ^ 福井大学教育地域科学部附属教育実践総合センター,福井県視聴覚教育研究会,福井県教育工学研究会,NHK福井放送局『みんなテレビディレクター -「発信マイスクール」放送100校記念報告書-』(2005)。
  9. ^ 村野井均,岩佐淳一『NHK水戸放送局と協力して大学生の映像作品を放送する試み』茨城大学教育学部紀要(人文、社会科学、芸術)vol.57,99-109.(2007)
  10. ^ http://www.nikkei.com/tech/business/article/g=96958A9C93819499E2E4E2E6978DE2E4E2E3E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E3EAE3E0E0E2E2EBE0E4E2E0

参考文献[編集]

  • 『メディア・リテラシー−マスメディアを読み解く』カナダ・オンタリオ州教育省編(FCT訳)リベルタ出版、1992年
  • 『メディア・リテラシー』菅谷明子、岩波新書、2000年
  • 『新版Study Guideメディア・リテラシー【入門編】』鈴木みどり編、リベルタ出版、2004年 [3]
  • 『子どもの発達とテレビ』村野井均、ひとなる書房、2002年

関連書[編集]

  • 『多くの声、一つの世界』マクブライド委員会(永井道雄監訳)日本放送出版、1980年
  • 『メディア・リテラシーを学ぶ人のために』鈴木みどり編、世界思想社、1997年 [4]
  • 『メディア・リテラシーの現在と未来』鈴木みどり編、世界思想社、2001年 [5]
  • 『メディア・リテラシーの方法』A・シルバーブラット他(安田尚監訳)リベルタ出版、2001年 [6]
  • 『子どもの発達とテレビ』村野井均、かもがわ出版、2002年 [7]
  • 『Study Guideメディア・リテラシー【ジェンダー編】』鈴木みどり編、リベルタ出版、2003年 [8]
  • 『ポピュラー文化論を学ぶ人のために』D・ストリナチ(渡辺潤+伊藤明己訳)世界思想社、2003年 [9]
  • 『なぜメディア研究か−経験・テクスト・他者』R・シルバーストーン(吉見俊哉+伊藤守+土橋臣吾訳)せりか書房、2003年 [10]
  • 『メディアとのつきあい方学習』堀田龍也著、ジャストシステム、2004年 [11]
  • 『情報 books plus! メディアリテラシー 情報を読み解き、発信する』実教出版、2004年 ISBN 978-4-407-30625-5
  • 『新版メディア・コミュニケーション論』竹内郁郎他編、北樹出版、2005年
  • 『世界を信じるためのメソッド ぼくらの時代のメディア・リテラシー』 森達也著 理論社、2006年
  • 『オトナのメディア・リテラシー』渡辺真由子著、リベルタ出版、2007年 (ISBN 9784903724072)
  • 『メディア・リテラシーは子どもを伸ばす』清水克彦、岸尾祐二著、東洋館出版社、2008年
  • 『メディア・リテラシー』芸術メディア研究会編、静岡学術出版、2008年[12]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]