ムーレイ・イスマーイール

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ムーレイ・イスマーイール
مولاي إسماعيل
アラウィー朝スルターン
Mulay Ismail.jpg
ムーレイ・イスマーイール。1726年、ハノーファーJohn Windusによって描かれた「Reise nach Mequinetz, der Residentz des heutigen Käysers von Fetz und Marocco」より。
在位 1672年4月14日 - 1727年3月22日
戴冠 1672年4月14日フェズ
全名 ムーレイ・イスマーイール・イヴン・シャリーフ
出生 1645年
シジルマサ
死去 1727年3月22日
メクネス
子女 ムーレイ・アフマドフランス語版英語版Red crown.png
ムーレイ・アブドゥルマリクフランス語版英語版Red crown.png
ムーレイ・アブドゥッラーフランス語版英語版Red crown.png
ムーレイ・アリーフランス語版Red crown.png
ムハンマド2世フランス語版Red crown.png
ムーレイ・ムスタディーフランス語版Red crown.png
ムーレイ・ザイン・アル=アービディーンフランス語版Red crown.png
王家 アラウィー家
王朝 アラウィー朝
父親 ムーレイ・シャリーフフランス語版英語版
宗教 イスラム教
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ムーレイ・イスマーイール[N 1](アラビア語:「مولاي إسماعيل」、ムーレイ・イスマーイール・イヴン・シャリーフ )、1645年[1] - 1727年3月22日)とは、アラウィー朝モロッコの第2代スルターン(在位1672年 - 1727年)である。 ムーレイ・シャリーフフランス語版英語版の七男であり、継兄であるムーレイ・アル=ラシードフランス語版英語版が1672年に死去した時点で、フェズの王国の知事として、1667年からモロッコ北部を統治した。その後、1687年まで甥のムーレイ・アフメドフランス語版と王座争いをし、これに勝利した。

イスマーイールの統治時代はモロッコの最盛期と一致する。モロッコの軍の強さは、ギッシュフランス語版(主にウダイから)や、黒人軍隊フランス語版などの強い軍事力によって、彼に専従している黒人奴隷や中央政府がしばしば反逆させなくした。また、イスマーイールはオスマン帝国領アルジェフランス語版と戦い、占有する港(アライシュアシラーマーディア (モロッコの都市)フランス語版、そしてタンジェ)からヨーロッパ人を払いのけた。彼らは、セウタを割譲させるために、キリスト教の囚人数千人弱を引き渡させた。

イスマーイールはサレラバトに拠点を置く海賊船の艦隊を支配し、そしてキリスト教徒の奴隷(地中海や北海で武装して襲撃させた)を使役した。彼は、外国勢力、特にフランス、イングランド、スペインと外交関係を確立した。彼は、当時のルイ14世と比較してしばしば彼は、その残酷さとカリスマ性から、ヨーロッパ人から「血に飢えた王」と呼ばれ、恐れられた。

彼はから40km以上に広がる、庭園、記念碑や多くのモスクを兼ね備えた巨大な都、メクネスの建設に着手した。しかし、その完成を見ることなく、彼は病気で薨去した。死後、再び国内は混乱し,分裂状態になった。

彼が弱冠26歳で就任した時から、統治期間は55年であり、これはモロッコの専制君主としては最長の在位記録である。

生涯[編集]

前史~スルターン就任まで[編集]

dans des tons ocres, sur trois plans, un sol de pierre, un village de terre de même couleur, et des arbres verts éparses
アラウィー派のカリフは、13世紀頃からタフィラルト英語版に定住した。

彼は1645年にシジルマサで生まれた。[alN 1]ムーレイ・イスマーイール・ベン・シェリフは、ムーレイ・シャリーフフランス語版英語版の息子であり、タフィラルト英語版の王子でアラウィー朝の独立初期だった。また、彼の母は、黒人の奴隷だった[L 1]彼は、アル=ハッサン=アダヒル英語版ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ[2]から21代目、そしてムハンマド・アン=ナフス・アッ=ザキーヤ英語版から17代目の子孫であり、1266年からシジルマサに定住していた[L 2]

サアド朝のスルターン、アフメド・アル・マンスール英語版の死去後、モロッコでは波乱の期間に入り、国は数多くの軍事指導者や宗教的権力によって争われ、その間に彼の息子は王位奪取のために争った[Arc 1][L 3]ジダン・アル・ナシル英語版の治世の始め、 サアド朝は急速に弱まり、ザオイア・デ・ディアフランス語版によってモロッコの中央部を, ザオイア・ディラグフランス語版ドラア川沿いのスースに、 マラブーディラグ は、ターザ英語版への大西洋海岸に続く北西の平野を占領し、サレ共和国フランス語版テトゥアンの街を奪取し、ルグルグ川フランス語版の河口でナクシス家によって占領された。[3]。 タフィラルトに、 アラウィー朝は、Filaliensによって称された[N 2] アラウィー朝はゾイア・ディラグの影響を押しのけ、 1631年に独立を樹立した[L 3]

portrait en noir et blanc d'un homme portant barbe et turban tenant un sceptre.
1667年に即位したアラウィー朝最初のスルターンであるアル=ラシード英語版

イスマーイールの父親である、ムーレイ・シャリーフフランス語版英語版、及び2人の異母兄弟は、1631年にイスマーイールに先立ってアラウィー朝の初代支配者となり、シャリーフは強力なザオイアから逃れるために、タフィラルトから逃げた[L 4]。シャリーフは1636年に退位し、彼の息子(イスマーイールから見て異母兄)のムハンマド=イヴン=シャリーフ英語版フランス語版が後を継いだ。ムハンマドの統治期には、アラウィー朝の勢力は北東のタフナフランス語版[alN 2]に、またドラア[alN 2]にまで伸びた。イスマーイールの継兄弟である アル=ラシード英語版は野心的であり、また反骨的な反逆者であったため1664年8月にウジダ近郊のアンガド (モロッコ)平野の戦いでイスマーイールは彼を殺すことに成功した [Arc 2]。ムーレイ・イスマーイールはそれに対して報われ、メクネスの知事となり、資金を増やすつもりでイスマーイールはムーレイ=ラシード英語版1667年5月27日にタフィラルトの王子として、またフェズ取得後のモロッコのスルターンとして統治する間、農業や取引に専念した[L 1]。そして、兄のラシードの信頼を受けて、ラシードがモロッコの南部で戦う間、イスマーイールはモロッコ北部の統帥権を得て、1667年からフェズの軍司令官、および総督となった。ムーレイ・ラシードフランス語版英語版はザオイアを占領し、それから、反乱軍を鎮圧するために、1669年にマラケシュに軍を置いた。[4]

1670年4月6日、イスマーイールはフェズでラシードの初婚を祝った。[alN 3]7月25日、彼はオーラドジャーマにてBorj el-Jadidら60人の山賊を磔刑に処した[alN 4]。ラシードがハイ・アトラスで抵抗する部族を征伐する中、彼は1672年4月9日マラケシュで落馬によって死亡した。4月13日[alN 5]、 ラシードの死を知ったフェズ総督のイスマーイールは、4月14日、スルターンとなった。[L 1]、イスマーイール26歳のときの出来事である[alN 5] · [L 5]。即位式は、午後2時ごろの話だった。[alN 5]フェズでは、すべての名士や学者、部族や都市が代表を送り、フェズ王国(fr:royaume de Fès)新任の支配者に対する忠誠の誓いを行った。[alN 6]。しかし、マラケシュだけは代表を送らなかった。イスマーイールはメクネスに首都を建設し、水と気候で人々を誘い込んだ。

支配初期[編集]

portrait en noir et blanc d'un homme portant barbe et turban tenant une épée.
Le Grand Cherif Mouley Sémein ou Ismael,ニコラス・ラルメッシンフランス語版の作品。

スルターンとなった直後、イスマーイールはいくつかの反乱と戦わなければならなかった。まず最初は、彼の甥であるムーレイ・アフメドフランス語版(ムーラド・マフレズ(Mourad Mehrez Ben Chérif)の息子)が反乱を起こした。また、彼の兄弟であったムーレイ・ハラーンフランス語版タフィラルト英語版にて王位を僭称した。また、部族や宗教グループだけでなく、テトゥアンでもカディア・ガイダンフランス語版も反旗を翻した[L 6]。ムーレイ・ラシードの死がシジルマサにまで達した時、スルターンを宣言するつもりで、アフメドはマラケシュまで急いだ。ハオウズ英語版フランス語版の部族やスースのアラブ族、そしてマラケシュの住民も、それに加勢して、アフメドが全ての地域を引き継ぐのを許した。 1672年4月27日、ムーレイ・イスマーイールは、マラケシュの戦いフランス語版でアフメドを破った。そして、イスマーイールは南部の部族を集結させ、自身をマラケシュのスルタンであると宣言した][alN 7]。イスマーイールは、大砲によって、マラケシュ市に勝ち[L 6]1672年6月4日スルターンを入城させることに成功した[alN 7] · [Arc 3]. Ahmed, blessé par une balle, s'enfuit dans les montagnes[L 1]。 イスマーイールはマラケシュの住民を許し、そして都市の防御を再構築した[L 7]7月25日メクネスに戻るとき、彼は兄ムーレイ・ラシードフランス語版英語版の棺を戻し、彼をアリー廟に埋葬するために、フェズに戻った[alN 7]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

Document utilisé pour la rédaction de l’article : document utilisé comme source pour la rédaction de cet article.

ムーレイ・イスマーイールの作品または章[編集]

  • Mission scientifique au Maroc, Archives marocaines, vol. XVIII, Paris, Ernest Leroux, coll. « Publication de la Mission scientifique au Maroc »,‎ , 451 p. (lire en ligne [PDF]) Document utilisé pour la rédaction de l’article
  • Aboulqâsem ben Ahmed Ezziâni (trad. de l'arabe par Octave Victor Houdas), Le Maroc de 1631 à 1812 : Extrait de l'ouvrage intitulé Ettordjemân elmo ʻarib ʻan douel Elmachriq ou ʼLmaghrib, Paris, Ernest Leroux,‎ , 216 p. (lire en ligne) Document utilisé pour la rédaction de l’article
  • H. Audiffret, « Muley-Ismael », dans Louis-Gabriel Michaud, Biographie universelle, ancienne et moderne, ou, Histoire par ordre alphabétique de la vie publique et privée de tous les hommes qui se sont fait remarquer par leurs écrits, leurs actions, leurs talents, leurs vertus ou leurs crimes, vol. XXX, Paris, Louis-Gabriel Michaud,‎ , 616 p. ([%5B%5B:Template:Google%20livres%5D%5D lire en ligne]), p. 376-379 Document utilisé pour la rédaction de l’article
  • John Braithwaite, Histoire des révolutions de l'empire de Maroc, depuis la mort du dernier empereur Muley Ismaël..., P. Mortier,‎ , 473 p. ([%5B%5B:Template:Google%20livres%5D%5D lire en ligne]) Document utilisé pour la rédaction de l’article
  • Dominique Busnot (préf. Xavier Girard), Histoire du règne de Moulay Ismaïl [« Histoire du règne de Moulay Ismael, roi de Maroc, Fez, Tafilet, Souz, etc., de la cruelle persécution que souffrent les esclaves chrétiens dans ses états avec le récit de trois voyages à Niquenez et Ceuta pour leur rédemption et plusieurs entretiens sur la tradition de l'Église pour leur soulagement »], Paris, Mercure de France (1re éd. 1714), 139 p. (OCLC 457198331)
  • Germain Moüette, Relation de la captivité du S. Moüette dans les royaumes de Fez et de Maroc,‎ , 375 p. ([%5B%5B:Template:Google%20livres%5D%5D lire en ligne]) Document utilisé pour la rédaction de l’article
  • Henry de Castries, Moulay Ismail et Jacques II : Une apologie de l'Islam par un sultan du Maroc, E. Leroux,‎ , 128 p. (lire en ligne) Document utilisé pour la rédaction de l’article
  • Collectif, Les Alaouites, Mohammed VI : Une dynastie, un règne, Casablanca, L'Économiste, coll. « Les documents de L'Économiste »,‎ , 96 p. (lire en ligne [PDF]), p. 5, 7, 9, 11, 16-17 (« Les conceptions militaires de Moulay Ismaïl »), 18, 21, 26, 28, 30, 32, 34 (« Les terribles prisons de Moulay Ismaïl »), 38, 40, 46 et 56 Document utilisé pour la rédaction de l’article

他の作品[編集]

関連記事[編集]

注釈と脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ムーレイ・イスマイル、ムーレイ・イスマーイルとも表記される。
  2. ^ Les habitants du タフィラルト sont appelés les Filaliens

参考文献[編集]

Ouvrage d'Henry de Castries (1903)[編集]

Ouvrage d'Al-Nasiri (1906)[編集]

  1. ^
  2. ^ a b (al-Nasiri 1906, p. 36).
  3. ^ (al-Nasiri 1906, p. 53).
  4. ^ (al-Nasiri 1906, p. 54).
  5. ^ a b c (al-Nasiri 1906, p. 60)。
  6. ^ (al-Nasiri 1906, p. 59).
  7. ^ a b c (al-Nasiri 1906, p. 61).

Ouvrage d'Hamet (1923)[編集]

Ouvrage d'Henry de Castries (1927)[編集]

Archives marocaines (1931)[編集]

Autres ouvrages[編集]

  1. ^ a b c d (Audiffret 1821, p. 376)。
  2. ^ (Bensoussan 2012, p. 67)。
  3. ^ a b (L'Économiste, p. 4)。
  4. ^ (Marchat 2013, p. 49)。
  5. ^ ([[#CITEREF|]], p. 233)。
  6. ^ a b (Ogot 1998, p. 174).
  7. ^ (Ben Ahmed Ezziâni 1886, p. 24).

脚注[編集]

  1. ^ 1634年とも。
  2. ^ Mohamed Tozy, Monarchie et islam politique au Maroc, Paris, Presses de Sciences Poフランス語版,‎ (ISBN 2724607589 および 9782724607581, OCLC 467914421), p. 83.
  3. ^ . http://www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/remmm_0035-1474_1973_num_15_1_1226. .
  4. ^ « Les Alaouites (1636 à nos jours) », sur Mémoart.com (consulté le 6 septembre 2014).