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ムハンマド・シャイバーニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムハンマド・シャイバーニー
Муҳаммад Шайбоний
ウズベク・ハン国ハン
在位 1500年 - 1510年

出生 1451年
死去 1510年12月2日
メルヴ郊外
子女 フッラム・シャー
テムル
家名 シバン家
王朝 シャイバーニー朝
父親 シャー・ブダグ
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ムハンマド・シャイバーニーウズベク語: Muhammad Shayboniy / Муҳаммад Шайбонийペルシア語: محمد شیبانی, ラテン文字転写: Muḥammad Shaybānī1451年 - 1510年12月2日)は、ウズベク・ハン国シャイバーニー朝の初代ハン[注釈 1]アブル=ハイル・ハンの孫。ウズベク語風の発音ではムハンマド・シャイバニМуҳаммад Шайбоний)。ペルシア語風の発音だとムハンマド・シャイバーニー(غازان)。

生涯

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シャー・イスマーイールとの戦い。

1451年、シャー・ブダグの子として生まれる。

1468年にアブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベクウルスは分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハンジャニベク・ハンの支配するカザフ・ハン国に流れた。アブル=ハイル・ハンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、亡命生活を送る。

1496年/1497年、ムハンマド・シャイバーニーはティムール朝の内部抗争に乗じてシル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した[3]

1500年、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはサマルカンドを占領し、マー・ワラー・アンナフルの支配権を得た[3]。一時はティムール家のバーブルにサマルカンドを奪われるが3カ月余りで奪還した[3]

1503年アム川上流域のクンドゥーズからフェルガナ盆地タシュケントを占領。1505年にはホラズム地方を、1507年にはヘラートを占領してティムール朝を滅ぼし、ホラーサーンに進出した[3]

しかし、その後のカザフ遠征(1508年 - 1509年)や、ハザーラ族遠征に失敗し、諸王族に対する分封政策が失敗したため、彼らからの支持を得られなくなった[3]。折しもサファヴィー朝シャー・イスマーイール(在位:1501年 - 1524年)の侵攻に遭い、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはメルヴ郊外で敗死した(1510年[3]。ムハンマド・シャイバーニー・ハンの頭蓋骨はシャー・イスマーイールによって金箔を貼られ、にされた(髑髏杯)。

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  • フッラム・シャー
  • テムル

脚注

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注釈

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  1. ^ ペルシア語発音だと「ハーン Khān」と長母音発音だが、日本語(モンゴル語)表記では「ハン Khan」と短母音にするのが正しい。カアン(ハーン)はモンゴル本国の皇帝ただ一人の称号であり、それ以外はすべてカン(ハン)である。[1][2]

出典

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  1. ^ 杉山 2016, p. 276.
  2. ^ 白石 2024, p. 257.
  3. ^ a b c d e f 小松 2000, p. 227,231,232.

参考資料

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  • 小松久男編『中央ユーラシア史』山川出版社〈世界各国史4〉、2000年10月30日。ISBN 978-4634413405 
  • 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』講談社〈講談社学術文庫 2352 興亡の世界史〉、2016年4月12日。ISBN 978-4062923521 
  • 白石典之『元朝秘史 : チンギス・カンの一級史料』中央公論新社〈中公新書 2804〉、2024年5月。ISBN 978-4121028044 
  • 永田雄三編『世界各国史9 西アジア史』山川出版社、2002年。ISBN 4634413906 


先代
アブル=ハイル・ハン
シャイバーニー朝の君主
1500年 - 1510年
次代
クチュクンジ・ハン