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ミロのヴィーナス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『ミロのヴィーナス』
古代ギリシア語: Ἀφροδίτη τῆς Μήλου
ルーヴル美術館で展示されるミロのヴィーナス
作者アンティオキアのアレクサンドロス(異論あり)
製作年紀元前2世紀
主題アプロディーテー(ウェヌス)
寸法高さ204 cm
状態両腕を欠くが、その他はおおむね残存
所蔵ルーヴル美術館、パリ

ミロのヴィーナス(フランス語: Vénus de Milo、英語: Venus de Milo)、またはメーロスのアプロディーテー(古希: Ἀφροδίτη τῆς Μήλου)は、ヘレニズム期に制作された古代ギリシアの大理石彫刻である。ギリシア神話の女神アプロディーテー、すなわちローマ神話におけるウェヌスを表した像と考えられている。1820年4月8日にエーゲ海のミロス島で発見され、1821年以来、パリのルーヴル美術館に所蔵・展示されている[1]。

ミロのヴィーナスは、古代ギリシアを代表するヴィーナス像、またはアプロディーテー像として知られる[2][3][1]。制作年代は確定していないが、現在では一般に紀元前2世紀の作とみなされる。日本語百科事典類では、紀元前130年から紀元前120年ごろの作とする説明もある[2][1]。

像はパロス島産の大理石で作られ、実物大を上回る高さをもつ[4][5][1]。現在は両腕を欠いているため、本来の姿勢については複数の復元説がある[6][7][1]。発見時にはリンゴを持つ大理石製の手がともに見つかっており、このことから、像はパリスの審判に由来する「不和のリンゴ」を持つアプロディーテーとして早くから解釈された[8][9]。近年の科学的分析も、この手が像の一部であった可能性を支持している[10]。像の近くで発見されたが現在は失われた銘文に基づき、作者はアンティオキアのアレクサンドロスであるとされることがある[11][12][13]。ただし、銘文に記された名の復元や、銘文と像との関係には異論もある[14][15]。

発見後、ミロのヴィーナスはナポレオン戦争後のルーヴル美術館において古代美術コレクションの中核的作品となった[5][16]。写真、石膏型、青銅複製などの流通により名声を広げ[17]、文学、美術、シュルレアリスム、映画、広告など多様な領域で引用されてきた[5][18][19]。一方で、学術的評価は一貫して高かったわけではない。発見当初は古典期ギリシアの傑作とみなされたが、のちにヘレニズム期の作と位置づけられるようになると、古代文献に言及される古典期彫刻やその後代模刻がより重視される傾向も生じた[20][21][22][23]。

形態

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正面
斜め前方
背面

ミロのヴィーナスは、高さ2メートルを超えるパロス島産大理石の女神像である[4]。高さについては資料により若干の差があり、ルーヴル美術館のオンライン目録は204センチメートル、ポーリー百科事典(英語版)は203センチメートルとする一方、クリストフィリス・マギディス(英語版)は211センチメートルとする[4][5][13]。アラン・パスキエ(英語版)は台座を除いて204センチメートル、台座を含めて211センチメートルとしており[24]、日本大百科全書も高さを204センチメートルとする[1]。

ルーヴル美術館の目録によれば、像は腰の位置で接合された二つの大理石部材から成り、左腕は別材として取り付けられていた。また、頭部や右腕には、冠や腕輪などの青銅製付属品が取り付けられていたことを示す痕跡がある[4]。日本大百科全書も、この像を腰部で切断され、上下二つの大理石からなる像として説明している[1]。

像はおそらくアプロディーテーを表している。上半身は裸で、下半身には衣をまとっている[5]。右脚に体重をかけ、左脚をやや上げ、頭部を左へ向ける姿勢をとる[25][26]。

現在は両腕、左足、耳たぶを欠く[6]。右乳房の下には埋められた穴があり、本来は右腕を支える金属製の枘が差し込まれていたと考えられる[27]。発見後、当初は石膏製の左足も補われていたが、これは1883年に取り外された[28]。現在確認できる修復は比較的少なく、鼻先、下唇、右足の親指、衣文の一部などに限られる[29]。

肌の部分は滑らかに磨かれているが、その他の面には鑿の痕跡が残っている[30]。衣文は像の右側でより精緻に彫られており、左側は本来、鑑賞者から見えにくかった可能性がある[31]。同様に、背面の仕上げは前面より簡略であり、像は主として正面から鑑賞されることを想定していたと考えられている[32]。身体表現は写実的である一方、頭部はより理想化されている。唇はわずかに開き、歯が見え、目と口は小さく造形されている[33]。

様式的には、古典期美術とヘレニズム美術の要素が組み合わされている[26]。小さく整った目と口、強い眉と鼻などは古典的な特徴を示す一方、胴体の形態や深く刻まれた衣文はヘレニズム的要素の典型とされる[34]。

ケネス・クラークは、この像を「古代ギリシア最後の偉大な作品」とし、古代作品のなかでも「最も複雑で、最も技巧的なもののひとつ」と評した。クラークによれば、作者は意識的に紀元前5世紀の作品の効果を与えようとしながら、自らの時代の発明も用いており、その身体の面は大きく静かであるため、一見するとそれらがいかに多くの角度を通って構成されているかに気づきにくいという。クラークはこれらの傾向を建築にたとえ、「古典的効果をもつバロック的構成」と評している[35]。

発見と取得

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ミロのヴィーナスの発見地
発見直後にオリヴィエ・ヴーティエ(英語版)が描いたミロのヴィーナスと2体のヘルメース柱(英語版)の素描

ミロのヴィーナスは、1820年4月8日、当時オスマン帝国領であったミロス島で、ギリシア人農民のイヨルゴによって発見された[1]。考古学に関心をもっていたフランス海軍士官オリヴィエ・ヴーティエ(英語版)は発見に立ち会い、イヨルゴに掘削を続けるよう促した[36]。ヴーティエとイヨルゴは、像の大きな2片と小さな1片を掘り出した。像のそばからは、腕の断片、リンゴを持つ手、2体のヘルメース柱(英語版)も発見された[8]。

像とともに、2つの銘文も発見されたという。ひとつは、発見直後にミロス島へ到着したフランス海軍士官ジュール・デュモン・デュルヴィルが写し取ったもので、ギュムナシアルケス(英語版)であったサティオスの子バッキオスによる奉納を記念するものだった[37]。サティオスという名は他に知られておらず、サットスまたは S. アティオスと読むべきであるとの説もある[38]。もうひとつは、彫刻家の署名の一部を残していた[12][11]。これらの銘文はいずれも現存しない[38]。同じころに発見された他の彫刻断片として、第3のヘルメース柱、さらに2本の腕、サンダルを履いた足がある[38]。

デュモン・デュルヴィルは、この発見について詳細な記録を残している[36]。その証言によれば、ヴィーナス像は四角形のエクセドラ状の壁龕から見つかった[13]。この発見地点が本来の設置場所であったならば、壁龕とギュムナシアルケスの銘文は、ミロのヴィーナスがメロスのギュムナシオンに設置されていたことを示唆する[39]。一方、サロモン・レナック(英語版)は、発見地はむしろ石灰窯の跡であり、周囲の断片はヴィーナス像とは無関係であったとする説を唱えた[40]。しかし、クリストフィリス・マギディス(英語版)は、この説には根拠がないとして退けている[41]。

デュモン・デュルヴィルの艦はミロス島を離れてコンスタンティノープルへ向かい、そこで彼はフランス大使リヴィエールの補佐官であったマルセルス伯に発見を報告した。リヴィエール侯爵は、マルセルスがミロス島へ赴き、像を購入することを許可した[42][1]。マルセルスがミロス島に到着した時点で、像はすでに別の買い手のため船に積み込まれていたが、フランス側が介入し、マルセルスはヴィーナスを購入することができた[43]。

像はフランスへ運ばれ、ルイ18世によってルーヴル美術館に収められた[43]。ルーヴルによる取得の具体的経緯については資料に差がある。リヴィエールが像を国王に贈ったとする資料もあれば、ルイ18世が購入したとする資料もある。グレゴリー・カーティス(英語版)によれば、リヴィエールはルーヴルのため国王にヴィーナスを「提供」し、ルーヴルの館長フォルバン伯がリヴィエールに購入費を弁済したという[44][43][45]。ルーヴル美術館の解説では、リヴィエールが像を取得し、ルイ18世へ献上し、国王が1821年3月にルーヴルへ寄贈したと説明されている[46]。

像はカトルメール・ド・カンシーの勧告により、当時の通例に反して大幅な復元を受けず、発見時の状態のまま展示されることとなった[47][48]。カトルメールは、ヴィーナスが本来はマルス像と組み合わされた群像の一部であったと考え、マルス像が完全に失われている以上、像を復元することは不可能であると論じた[49]。

ヴィーナス像とともに発見された大理石片。リンゴを持つ手と左足。

展示史

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ルーヴル美術館で展示されるミロのヴィーナス。1824年から1830年ごろ、ジョゼフ・ワルランクール作とされる。

ミロのヴィーナスは1821年、ルーヴル美術館に設置された。その後まもなく2度移動され、長期的な展示場所としてティーブルの間に置かれ、1848年までそこにとどまった[50]。その後、イシスの間へ移され、1870年にパリ・コミューンの際に保護のため館外へ避難するまで同所で展示された[51]。1880年代にイシスの間が改修されると、ヴィーナスには鑑賞者が像の周囲を回って見ることができる新しい台座が与えられた。同時に、像へ至る動線には他の古代のヴィーナス像が置かれた[52]。

第一次世界大戦中、ヴィーナスはパリからトゥールーズのジャコバン教会へ避難した作品のひとつであった[53][52]。戦後、学芸員ポール・ジャモ(英語版)は、ヴィーナスをレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』およびミケランジェロの『瀕死の奴隷(英語版)』『抵抗する奴隷(英語版)』と並べて展示する案を提案したが、実現しなかった[54][55]。

1936年、ルーヴルを訪れる観客数の増加に対応するため、像は「ミロのヴィーナスの間」へ再び移された。このとき、他のヴィーナス像は取り除かれ、鑑賞者の注意がミロのヴィーナスに集中するようにされた[52]。同時期、ルーヴル館内の見学順路も改められ、アルカイック期・古典期の彫刻展示室を経て、ヘレニズム期に捧げられた展示室へ至る、より年代順に沿った流れが整えられた。ミロのヴィーナスは、古典期とヘレニズム期の展示室の間に置かれた[56]。

第二次世界大戦中にも、像は保護のためルーヴルから移送され[52]、ヴァランセ城(英語版)に保管された[57]。この間、ルーヴルでは石膏複製が代わりに展示された[58]。

1964年には、東京と京都で特別公開された[1]。これは、ルーヴル取得後に像がフランス国外へ出た唯一の機会である[59]。1972年には新たな展示場所を試す実験が行われ[60]、1980年代から1990年代の改修時にも一時的に移動された。1999年までには、ヴィーナスを訪れる観客の多さが問題となり、ルーヴル当局は像を以前の展示場所へ戻すことを検討していた[61]。2010年には新しい展示環境に設置され、発見時にともに出土した彫刻断片も同じ展示室で公開されるようになった[62]。

解釈

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同定と制作年代

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オーギュスト・デベ(英語版)によるミロのヴィーナスの素描。銘文のある台座断片が本来ヴィーナス像の一部であったならば、作者をアンティオキアのアレクサンドロスとし、作品をヘレニズム期に位置づける根拠となる。

ミロのヴィーナスは、おそらく女神アプロディーテーを表す像である。ただし、像が断片的な状態で発見されたため、確実な同定は難しい[63]。発見直後のフランス人士官とメロス駐在フランス副領事による最初期の記録は、いずれも像をアプロディーテーとし、発見時にリンゴを持つ手がともに見つかったことを根拠に、像が「不和のリンゴ」を持っていたと考えたらしい[9]。

これに対して、サロモン・レナック(英語版)は、像は海の女神アンピトリーテーを表し、1878年にメロス島で発見されたポセイドーン像と本来組み合わされていたとする別説を唱えた[64]。ほかにも、ムーサ、ネメシス、サッポーなどとする説がある[65]。

作者と制作年代も、発見当初から議論の対象であった。ルーヴルによる取得から1か月以内に、3人のフランス人学者が像について論文を発表したが、その解釈は一致しなかった。トゥーサン・ベルナール・エメリック・デイビット(英語版)は、像をペイディアスとプラクシテレスの間、紀元前420年から紀元前380年ごろの作と考えた。カトルメール・ド・カンシーは紀元前4世紀中ごろ、プラクシテレス周辺の作とし、クララック伯はプラクシテレス作品の後代模刻であると考えた[66]。19世紀の学界では、この像を紀元前4世紀の作品とする見方が通説であった。

1893年、アドルフ・フルトヴェングラーは初めて、この像を古典期ではなく後期ヘレニズム期の作品であり、紀元前150年から紀元前50年ごろの作であると論じた[20][67]。この年代観は現在も広く受け入れられている[22]。一方、日本語の辞典・百科事典類では、制作年代を紀元前130年から紀元前120年ごろとする説明も見られる[2][1]。

銘文と作者

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像とともに発見された銘文のひとつは、デベの素描では像の台座の欠損部にはめ込まれるものとして描かれており、彫刻家をアンティオキア・オン・ザ・メアンダー(英語版)出身の「メニデスの子であるアンドロス」としている[11][12]。この名はハゲサンドロスまたはアレクサンドロスと読まれてきた[13]。1901年、フリードリヒ・ヒラー・フォン・ゲルトリンゲン(英語版)はこれをアレクサンドロスと解読し、テスピアイのムーサイの谷(英語版)の銘文に記される、同じメアンドロス地方出身の詩人アレクサンドロスと関連づけた[68][69]。

この銘文は、アンティオキア・オン・ザ・メアンダーが建設された紀元前280年以降のものでなければならず、文字の形態は紀元前150年から紀元前50年ごろを示す[70]。クリストフィリス・マギディス(英語版)は、この銘文に加え、像の様式、およびこの時期にローマとの関係によってメロス島が繁栄していたことを踏まえ、像の制作年代をおそらく紀元前150年から紀元前110年ごろとする[71]。レイチェル・メレディス・クーサー(英語版)もフルトヴェングラーの年代観を支持している[72]。マリアンヌ・アミオ(フランス語版)は、紀元前160年から紀元前140年ごろとする[73]。

ただし、この断片的な署名を像と結びつけ、作者をアンティオキアのアレクサンドロスとすることは、必ずしも広く合意されているわけではない。クーサー[14]とジャン=リュック・マルティネス(英語版)はいずれも、この結びつきに疑問を呈している[15]。クーサーは、デベの素描では銘板がヴィーナスの欠けた台座に合うよう描かれている一方、そこに載るはずの失われた左足の痕跡が示されていないこと、またヴーティエの発見時素描では、その銘板がヴィーナスではなく、ともに発見されたヘルメース柱の台座として描かれていることを指摘する[39]。銘文は失われているため、それがヴィーナス像と関係していたかどうかを証明することも否定することもできない[39]。

マギディスは、ミロのヴィーナスとメロスのポセイドーン(英語版)が同じ彫刻家によって制作された可能性を示唆した[74]。また、イスメニ・トリアンティは、メロス島で発見されたさらに3体の彫像、すなわち2体の女性像と1体の巨大な神像も、同じ作者に帰せる可能性を指摘している[75]。

復元説

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ミロのヴィーナスの本来の姿勢については多くの復元案が提案されてきた。アドルフ・フルトヴェングラーによる、リンゴを持つヴィーナスとする復元案(左)は広く受け入れられている。マリアンヌ・アミオ(フランス語版)は、ペルゲ出土のアプロディーテー像(右)のように、像が本来盾を持っていたと論じている。

両腕が失われているため、像が本来どのような姿であったかは明らかではない。ミロのヴィーナスの本来の姿については、1821年以来議論が続いている。クララック伯は、ヴィーナスをリンゴを持つ単独像であったと考えた一方、カトルメールは、像が別の人物像に腕を回す群像の一部であったと考えた[7]。ほかにも、花冠、鳩、槍を持っていたとする復元案が提案された[76]。日本大百科全書(ニッポニカ)も、両腕を欠くため原形についてさまざまな解釈が行われてきたが、定説はないと説明している[1]。

ヴィルヘルム・フレーナー(英語版)は1876年、ミロのヴィーナスの右手は腰から滑り落ちる衣を押さえ、左手はリンゴを持っていたと提案した。この説はフルトヴェングラーによって発展させられた[77]。クーサーは、この復元を「最ももっともらしい」ものとする[78]。2010年の修復時に行われた科学的分析は、発見時にともに見つかった腕の断片とリンゴを持つ手が、もともとヴィーナス像の一部であったとする説を支持した。マルティネスはこれに基づき、像がリンゴを持つヴィーナスであったことは決定的に証明されたと論じている[10]。

マリアンヌ・アミオ(フランス語版)は、ミロのヴィーナスがカプアのヴィーナス(英語版)およびペルゲ出土のアプロディーテー像と同じ彫像型に属するとする。彼女によれば、これらはいずれも、アクロコリントスのアプロディーテー神殿の崇拝像、すなわち盾を見つめるアプロディーテー像に由来する[79]。これに対し、カプアのヴィーナスはミロのヴィーナスに基づくと考えるクリスティーン・ミッチェル・ハヴロック(英語版)は、メロスの像をヘレニズム期における「新しい創案」とみなしている[80]。

受容

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オノレ・ドーミエ『鑑定家』(1860年から1865年ごろ)

ミロのヴィーナスについて、確実にこの像を扱った古代文献は知られていない。また、現存する古代彫像や、古代ギリシア人が芸術的価値をどのように判断したかを示す証拠も十分ではないため、この像が古代にどのように受容されたかを判断することは難しい[21]。

一方で、ケネス・クラークは1949年、1820年の発見から数年以内に、ミロのヴィーナスはそれまでメディチのヴィーナスが占めていた中心的かつ揺るぎない地位を獲得し、鑑定家や考古学者の間で人気を失った後でさえ、美の象徴、あるいは商標として大衆的イメージのなかにその地位を保っていると述べた[20]。

今日、ミロのヴィーナスは世界で最も有名な古代ギリシア彫刻であるとされ、毎年700万人を超える観覧者が目にしている[81]。発見後まもなく、像はルーヴル美術館の古代美術コレクションにおける重要作品となった[5]。当時のルーヴルは、ナポレオンが獲得した作品が各国へ返還されたため、ナポレオン戦争後にいくつもの主要作品を失っていた[16]。ヴィーナスはすぐにヨーロッパで最も有名な古代作品のひとつとなり、19世紀には石膏型、写真、青銅複製によって広く流通した。石膏型はルーヴル取得の翌年である1822年にベルリン芸術アカデミーへ送られ、また水晶宮にも型が展示された[17]。

ミロのヴィーナスは発見以来、文学と視覚芸術の双方で主題とされてきた。ヴィーナスを扱った詩は70篇以上刊行されている[5]。19世紀のエクフラシス詩、たとえば複数の高踏派詩人によるヴィーナス詩は、この像を美術史的正典の重要作品として位置づけることに寄与した[82]。20世紀初頭のヴィーナス詩では、像のエロティックな魅力により焦点が当てられるようになった[83]。19世紀の絵画においても、たとえばオノレ・ドーミエの『鑑定家』のように、ヴィーナス像の小像が描かれることがあった。19世紀の美術家たちはまた、ミロのヴィーナスを造形上のモデルとして用いた。マックス・クリンガーは『パリスの審判』のミネルヴァにミロのヴィーナスを反映させ、ウジェーヌ・ドラクロワも『民衆を導く自由の女神』に同像を用いた可能性がある[5]。

1928年、『フォトプレイ』誌の記事のためにミロのヴィーナスに扮したジョーン・クロフォード

20世紀初頭には、ミロのヴィーナスはシュルレアリスム運動の関心を引いた。アーウィン・ブルーメンフェルドとクラレンス・シンクレア・ブル(英語版)はいずれもヴィーナスをもとにしたフォトモンタージュを制作した。マックス・エルンストはヴィーナスを「使用説明書」に用い、ルネ・マグリットはヴィーナスの石膏複製に彩色し、身体を桃色、衣を青色、頭部を白のままにした。サルバドール・ダリは絵画『幻覚剤的闘牛士(英語版)』を含む複数の絵画・彫刻でヴィーナスを参照した[5]。現代美術では、ニキ・ド・サンファルがパフォーマンスでヴィーナスの複製を用い、イヴ・クラインはインターナショナル・クライン・ブルーによる複製を制作した[84]。また、アルマン、クライヴ・バーカー、ジム・ダインらもヴィーナスに触発された彫刻を制作している[5]。

ミロのヴィーナスの象徴的地位により、20世紀には映画や広告にも用いられた。1932年の映画『ブロンド・ヴィナス』のポスターでは、マレーネ・ディートリヒがミロのヴィーナスに扮した[5]。2003年の映画『ドリーマーズ』では、エヴァ・グリーンが白いシーツと黒い長手袋のみをまとい、ミロのヴィーナスを再現した[85]。女優たちはしばしばヴィーナスと比較され、1928年の『フォトプレイ』誌の記事は、ジョーン・クロフォードがハリウッド女優のなかで最もミロのヴィーナスに近い身体比率をもつと結論づけた[86]。クララ・ボウとジーン・ハーロウも、雑誌のためにヴィーナスに扮して撮影された[87]。広告では、ケロッグのコーンフレーク、General Telephone & Electronics製の初期スピーカーフォン、リーバイスのジーンズ、メルセデス・ベンツの自動車などにヴィーナスが用いられた[88][5]。

このような大衆的・芸術的評価とは対照的に、フルトヴェングラーによって像がヘレニズム期に再年代決定されて以降、一部の研究者は像に対して肯定的な姿勢を控えるようになった。マーティン・ロバートソン(英語版)は『ギリシア美術史』において、この像の名声は作品自体の芸術的価値よりも宣伝によるものだと論じた[23]。研究者たちは、たとえそれらの後代模刻が技術的にはミロのヴィーナスより劣ると一般に考えられる場合であっても、クニドスのアプロディーテーのような古代文献に言及される古典彫刻の模刻の研究に集中してきた。エリザベス・プレットジョン(英語版)は、これは古典古代研究者が視覚資料よりも文字資料を重視してきた傾向に由来すると論じている[89]。

関連項目

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脚注

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出典

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 前田 1994.
  2. 1 2 3 小学館『大辞泉』 2012.
  3. ↑ 小学館『日本国語大辞典』「ミロのビーナス」 2001.
  4. 1 2 3 4 Louvre Collections.
  5. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 Hinz 2006.
  6. 1 2 Curtis 2003, p. xii.
  7. 1 2 Martinez 2022, p. 46.
  8. 1 2 Curtis 2003, pp. 6–7.
  9. 1 2 Curtis 2003, pp. 14–15.
  10. 1 2 Martinez 2022, pp. 85–87.
  11. 1 2 3 Kousser 2005, p. 231, with fig. 5.
  12. 1 2 3 IG XII.3 1241.
  13. 1 2 3 4 Maggidis 1998, p. 177.
  14. 1 2 Kousser 2005, pp. 235–236.
  15. 1 2 Martinez 2022, p. 49.
  16. 1 2 Prettejohn 2006, p. 232.
  17. 1 2 Prettejohn 2006, p. 235.
  18. ↑ Milián 2024, pp. 142–146.
  19. ↑ Winkler 2018, pp. 244–249.
  20. 1 2 3 Clark 1960, p. 83.
  21. 1 2 Prettejohn 2006, pp. 230–231.
  22. 1 2 Prettejohn 2006, p. 240.
  23. 1 2 Havelock 1995, pp. 95–96.
  24. ↑ Pasquier 1985, p. 23.
  25. ↑ Havelock 1995, p. 94.
  26. 1 2 Kousser 2005, p. 238.
  27. ↑ Curtis 2003, p. 189.
  28. ↑ Curtis 2003, p. 106.
  29. ↑ Pasquier 1985, p. 35.
  30. ↑ Kousser 2005, p. 234.
  31. ↑ Kousser 2005, p. 239, n. 68.
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  34. ↑ Kousser 2005, p. 239.
  35. ↑ Clark 1960, pp. 83–84.
  36. 1 2 Kousser 2005, p. 230.
  37. ↑ Curtis 2003, p. 16.
  38. 1 2 3 Kousser 2005, p. 231.
  39. 1 2 3 Kousser 2005, p. 236.
  40. ↑ Kousser 2005, p. 233.
  41. ↑ Maggidis 1998, p. 176.
  42. ↑ Curtis 2003, pp. 23–25.
  43. 1 2 3 Kousser 2005, p. 232.
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  47. ↑ Lathers 2002, p. 180.
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  50. ↑ Lathers 2002, p. 185.
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  55. ↑ Martinez 2022, pp. 69–70.
  56. ↑ Martinez 2022, p. 71.
  57. ↑ Pasquier 1999, p. 39.
  58. ↑ Martinez 2022, p. 72.
  59. ↑ Martinez 2022, p. 74.
  60. ↑ Pasquier 1999, pp. 42–44.
  61. ↑ Pasquier 1999, p. 44.
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参考文献

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外部リンク

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