ミュサヴァト党

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アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン政党
ミュサヴァト党
Müsavat Partiyası
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党首 [[イサ・ガンバルアゼルバイジャン語版]]
成立年月日 1911年
国民議会
1 / 125   (1%)
2010年11月7日
ただしブロック全体での議席数)
政治的思想・立場 旧ミュサヴァト党
汎テュルク主義
古典的自由主義
新ミュサヴァト党
中道政治
社会自由主義
経済的自由主義
自由主義ナショナリズム英語版
機関紙 『アゼルバイジャン』(Azərbaycan)
公式サイト Yeni Müsavat - Onlayn ictimai-siyasi qəzet
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ミュサヴァト党(ミュサヴァトとう、アゼルバイジャン語: Müsavat Partiyası日本語では平等党とも訳される)は、アゼルバイジャン政党である。最初の組織は1911年に結成され、それはアゼルバイジャン史における最初の政党として知られる。

その党史は大きく分けて、1911年の結党からロシア内戦終結までの旧ミュサヴァト党時代、ソビエト連邦成立後の亡命時代、そしてペレストロイカ期から現代に至る新ミュサヴァト党時代の3つに分けられる。

旧ミュサヴァト党時代[編集]

メフメト・エミーン・ラスールザーデ(1918年頃)

最初のミュサヴァト党は1911年にバクーで、元ヒンメトメフメト・エミーン・ラスールザーデ、マンマダリ・ラスールザーデ(az, メフメト・エミーンの従弟)、アッバースグル・カジムザーデ (az)、タギ・ナギエフの4人によって秘密結社として設立された。当初の党名はムスリム民主ミュサヴァト党だった。その他のメンバーにはヴェリ・ミカイログル、セイド・ヒュセイン・サディグ (az)、アブデュッラヒム・ベイ、ユシフ・ジヤ・ベイ、セイド・ムサヴィ・ベイや、後にアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の指導者となるナリマン・ナリマノフロシア語版がいた[1]。党の主導権を握っていたのは、イスタンブールに亡命中のメフメト・エミーン・ラスールザーデであった[2]

党は、国内外のアゼルバイジャン人ムスリムに対するアピールとして次のような目標を掲げた[3]

  1. すべてのムスリムの、国籍や宗派を問わない団結
  2. すべてのイスラーム国家の独立の回復
  3. 独立のために戦うすべてのイスラーム民族に対する物的、道徳的援助の拡大
  4. すべてのムスリム、イスラーム国家に対する攻撃面、防御面での援助
  5. 以上の目標の拡散を妨げる障壁の撤廃
  6. ムスリムの前進のために努力する諸党との関係の構築
  7. 博愛を目的とする国外の諸党との、必要に応じた接触及び意見交換の関係の構築
  8. すべてのムスリムの生存と、彼らの商業、交易、経済活動全般の発展に向けた不断の闘争

第一次世界大戦以前のミュサヴァト党はむしろ、中東全体においてイスラーム世界とテュルク諸語圏の繁栄と政治的統一のために働く存在の、ミニチュア地下組織版とも言うべき存在であり[4]汎イスラーム主義英語版汎テュルク主義的な面も持っていた[5][6][7][8][9]。その汎テュルク主義は、オスマン帝国青年トルコ人が掲げた新奇なイデオロギーを反映したものであり、その始祖はロシア帝国内のアゼルバイジャン人知識人、とりわけアリ・ベイ・ヒュセインザーデ英語版や、その文学作品によるテュルク諸語話者の一体化によって帝国内の様々な民族意識に覚醒をもたらしたアフメト・アーオールトルコ語版のような人物であった。

しかし、そのイデオロギーにもかかわらず党は大戦中に帝政を支持した[10]。一方で党の出現はロシア社会民主主義者から伝統的な調和に反逆する「後れたムスリムの妄執と裏切りと狂信に支えられた、帝国主義的、オリエント主義的な産物」[11]と見なされた。あるソ連の識者の言葉によれば、ラスールザーデとバクーのミュサヴァト党は「ボリシェヴィズムから汎イスラーム主義へと180度転換した」[4]という。帝国内のムスリムは「裏切者のミュサヴァト党」に操られた逸脱者、反逆者として執拗に攻撃された[3]ロシア人労働者やグルジア人アルメニア人ユダヤ人のエリートが中核をなすバクーのメンシェヴィキ社会革命党も、イスラム教徒を「怠惰」で「蒙昧」であると長らく非難し続けた[4]。さらにボリシェヴィキのみならず立憲民主党デニーキン主義者からも、ミュサヴァト党は社会民主主義者の皮を被った封建的な「ベイども、ハーンども」の集まりとして扱われた。このような非難は、社会民主主義の誕生するはるか以前からの評価にも見受けられるものである[4]。しかしそのような中傷は、党の大衆主義的な政策がムスリム労働者から支持され始めると、ロシアの社会民主主義の流れからの大多数のムスリムの離反をもたらす方向にも作用した。

党の指導層の大部分は、アゼルバイジャン人社会とテュルク人社会の上流階級出身で高学歴の専門家だったが、1917年から1919年の間に入党した党員の多くは、教育水準の低いバクーの下層ムスリムだった[4]

レスルザーデ体制下[編集]

テュルク連合ミュサヴァト党時代の党旗

ロマノフ朝300周年記念ロシア語版に際した1913年大赦によって、ラスールザーデはアゼルバイジャンへ戻った。当時の党はまだ公の存在ではなかったにもかかわらず、ラスールザーデは党の目標を自身の解釈によって定義した『公論』(az) 紙を1915年から1918年まで発行させ、それは二月革命直後に党が合法化されてからは正式に党の機関紙となった。

革命直後のミュサヴァト党は、ムスリム社会組織バクー委員会と同様に、極めて先鋭的だった。彼らはムスリムの権利を保障する民主的な共和国を望んだ[12]。ソ連の歴史家であるA・L・ポポフは、「ムスリム社会組織バクー委員会とミュサヴァト党は革命のある時期までは、国家の利益全般を代表するのみならず、アゼルバイジャンの労働者の民主主義を防衛する役割をも果たしていた」として、ミュサヴァト党が民主主義と社会主義の両方の立場を取っていたことを指摘し、ベイとハーンによる反動勢力であるとアプリオリに見なすことはできない、とした[13]

1917年6月17日、ミュサヴァト党は、ナシブ・ベイ・ユシフベイリロシア語版ハサン・ベイ・アガエフ英語版が率いた国内の国家民主主義右翼政党であるテュルク連合党 (az) と合併し、テュルク連合ミュサヴァト党 (Türk Ədəmi-mərkəziyyət firqəsi Müsavat) と改称した[3]。そして党はカフカースのムスリムの一大政治勢力となった。同年10月に召集された第1回党大会において新たな党則が採用され、それは76の記事に掲載された。その党則にはこうある[14]

;第1条:ロシア国家の形態は、民族自決の原則に基づく連邦制民主共和国でなければならない。
第3条
ロシアのどの領域においても小域でも居住地を持っているすべての民族に対して、自決権が適用されるべきである。アゼルバイジャン、キルギスタントルキスタンバシコルトスタンに対しては自決権が与えられるべきであり、ヴォルガクリミア一帯に居住するテュルク人に対しては、領土的な自決権が不可能な場合にも文化的な自決権が与えられるべきである。自決権を求めるすべての非テュルク民族を支援することは、党の神聖な義務である。
第4条
小域でも具体的な居住地を有していない民族に対しても文化的な自決権が与えられるべきである。

1918年の全ロシア憲法制定議会スペイン語版では、ミュサヴァト党は10番目に大きな勢力となった[15]

独立時代[編集]

アゼルバイジャン民主共和国第1回議会(1918年12月7日)

ロシア帝国が崩壊しアゼルバイジャン民主共和国が独立を宣言すると、ミュサヴァト党は国民議会[要リンク修正]の第1回会議とその後の議会で第一党となり、レスールザーデは1918年12月7日まで国家元首を務めた。ミュサヴァト党政権下のアゼルバイジャンは、イスラム世界最初の世俗主義的、民主主義的な国家となった。翌年にはアメリカ欧州の一部に先んじて婦人参政権が認められた[16]

閣僚となった党員は以下の通り。

第1内閣
(1918年5月28日 -
6月17日)
第2内閣
(6月17日 - 12月7日)
第3内閣
(1918年12月12日 -
1919年3月14日)
第4内閣
(3月14日 - 12月22日)
第5内閣
(1919年12月22日 -
1920年4月1日)
首相 ナシブ・ベイ・ユシフベイリロシア語版
防衛大臣 ホスロフ・ベイ・スルタノフ英語版 ホスロフ・ベイ・スルタノフ
(暫定、
カラバフロシア語版・ザンゲズル公使を兼務)
外務大臣 マンメト・ハサン・ハジンスキー英語版 マンマト・ユシフ・ジャファロフロシア語版
内務大臣 ハリル・ベイ・ハスマンマドフ英語版 マンメト・ハサン・ハジンスキー
財務大臣 ナシブ・ベイ・ユシフベイリ
教育大臣 ナシブ・ベイ・ユシフベイリ
通商・産業大臣 マンマト・ユシフ・ジャファロフ
宗教大臣 ナシブ・ベイ・ユシフベイリ
および
ムサ・ベイ・ラフィエフ英語版
ナシブ・ベイ・ユシフベイリ
公安大臣 ムサ・ベイ・ラフィエフ
農務大臣 ホスロフ・ベイ・スルタノフ
司法大臣 ハリル・ベイ・ハスマンマドフ
社会福祉・保健大臣 ムサ・ベイ・ラフィエフ
統制大臣 ナリマン・ベイ・ナリマンベヨフ
ジャファル・ジャッバルリ(1930年頃)

1920年にボリシェヴィキによってアゼルバイジャン民主共和国が倒されると、ミュサヴァト党は再び地下へ潜伏した。この時期の秘密委員会を率いたのは著名な劇作家のジャファル・ジャッバルリアゼルバイジャン語版で、委員会の活動の中でもよく知られているものは、ラスールザーデをロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からフィンランドへ脱出させたものである。その他にも党はギャンジャ、カラバフ、ザガタラロシア語版ランカランなどでいくつかの武装反乱を指導した。しかし、党はボリシェヴィキ政府によって弾圧され、指導層の暗殺や国外逃亡が相次ぎ、1923年までに2千人以上の党員が逮捕されて党は壊滅した。

亡命時代[編集]

国外へ亡命した党組織が活動を開始したのは、1922年末から翌年初めにかけてのことである。レスールザーデは1923年に党の指導のために外務局を設置したが、党と提携関係にない他のアゼルバイジャン人亡命者とも接触するために民族センターも設立した。イスタンブールに置かれたそれらの機関は、1940年代後半にアンカラに移されるまでは党活動の中心となっていた。

党外務局員

  • メフメト・エミーン・ラスールザーデ - 局長
  • ミルザ・バラ・マンマザーデ (az) - 秘書
  • ハリル・ベイ・ハスマンマドフ - 会計
  • シャフィ・ベイ・リュスタンベイリ (az)
  • ムスタファ・ヴァキロフ (en)
  • マンマト・サディグ・アフンドザーデ
  • アッバースグル・カジムザーデ

民族センター職員

亡命時代の党首

  • メフメト・エミーン・ラスールザーデ(1917年 - 1955年)
  • ミルザ・バラ・マンマザーデ(1955年 - 1959年)
  • カリム・オダル(az, 1959年 - 1981年)
  • マハンマト・アゼル・アラン(az, 1981年 - 1992年)

亡命時代の党機関紙・機関誌

  • Yeni Kafkasya,(1923年 - 1928年)- 機関誌、トルコで発行
  • Azəri Türk,(1928年 - 1929年)- 機関誌、トルコで発行
  • Odlu Yurdu,(1929年 - 1930年)- 機関誌、トルコで発行
  • Bildirici,(1930年 - 1931年)- 機関紙、トルコで発行
  • Azərbaycan Yurd Bilgisi,(1932年 - 1934年)- 機関誌、トルコで発行
  • İstiklâl,(1932年 - ?)- 機関紙、ドイツで発行
  • Kurtuluş,(1934年 - 1938年)- 機関誌、ドイツで発行
  • Müsavat Bülleteni,(1936年 - ?)- ポーランド、ドイツで発行
  • Azərbaycan,(1952年 - )- トルコで発行

新ミュサヴァト党時代[編集]

イサ・ガンバル(2013年7月2日)

ソ連崩壊に先立つ1989年、知識人グループによるアゼルバイジャン国家民主新ミュサヴァト党がアゼルバイジャンで結成された。そのグループが設立した党復旧センターを亡命組織も承認し、1992年に国内外の党組織が集まって開かれた「ミュサヴァト党第3回党大会」で正式にミュサヴァト党は復活した。新たな党首には人民戦線出身のイサ・ガンバルアゼルバイジャン語版が選出され、党組織は「党首」(Başqan)、「理事会」(Divan)、「議会」(Məclis) の3つに再編された。

政策面では、1993年から与党新アゼルバイジャン党に反対する立場を取っている。2000年11月5日から翌年1月7日にかけての選挙での得票率は4.9パーセントで、125議席中2議席を獲得した。2003年10月25日の大統領選挙ロシア語版では、ガンバル候補は12.2パーセントの票を得た。2005年11月6日の議会選挙 (en) では「自由」ブロック (az) に参加し5議席を獲得した。ガンバルが議席を失った後の2003年10月16日[17]2011年3月12日[18]には、政府に対して抗議活動を行って注目された。

その他の主張には、アゼルバイジャン政府がクルド人タリシュ人アルメニア人などの非テュルク民族によって支配されているといった民族主義的なものがある[19]

脚注[編集]

  1. ^ van Schendel, Willem; Zürcher, Erik Jan (2001). Identity Politics in Central Asia and the Muslim World. Library of International Relations Vol. 13. I.B.Tauris英語版. ISBN 1-86064-261-6. 
  2. ^ Orujlu, Maryam (2001). Müsavat Partiyası: Ölkədə və Mühacirətdə, 1911-1992. Baku: Azerneshr. 
  3. ^ a b c Гусейнов, Мирза Давуд (1927). “1: Программа и тактика”. Тюркская демократическая партия федералистов "Мусават" в прошлом и настоящем. Baku. 
  4. ^ a b c d e Smith, Michael G. (April 2001). “Anatomy of a Rumour: Murder Scandal, the Musavat Party and Narratives of the Russian Revolution in Baku, 1917-1920”. Journal of Contemporary History 36 (2): 216–218. doi:10.1177/002200940103600202. 
  5. ^ Pan-Turkism: From Irrendentism to Cooperation by Jacob M. Landau P.55
  6. ^ Musavat Party (Azerbaijan)
  7. ^ Ethnic Nationalism and the Fall of Empires by Aviel Roshwald, page 100
  8. ^ Disaster and Development: The politics of Humanitarian Aid by Neil Middleton and Phil O'keefe P. 132
  9. ^ The Armenian-Azerbaijan Conflict: Causes and Implications by Michael P. Croissant P. 14
  10. ^ Mostashari, Firouzeh (2006). On the Religious Frontier: Tsarist Russia and Islam in the Caucasus. I.B.Tauris. p. 144. ISBN 1-85043-771-8. 
  11. ^ Brower, Daniel (1996). “Russian Roads to Mecca: Religious Toleration and Muslim Pilgrimage in the Russian Empire”. Slavic Review 55 (3): 567–584. doi:10.2307/2502001. JSTOR 2502001. 
  12. ^ Kazemzadeh, Firuz (1951). The Struggle for Transcaucasia, 1917-1921. New York: Philosophical Library. p. 51. 
  13. ^ Попов, А. Л. (1924). “Из Истории Революции В Восточном Закавказье, 1917-1918”. Пролетарская Революция 30 (7): 118. 
  14. ^ Балаев, Айдын (1990). Азербайджанское национально-демократическое движение, 1917-1920. Baku. pp. 74–82. 
  15. ^ Lenin and the First Communist Revolutions, IV
  16. ^ "US Suffrage Movement Timeline, 1792 to present" Archived 2013年7月23日, at the Wayback Machine., Susan B. Anthony Center for Women's Leadership (retrieved 19 August 2006)
  17. ^ Müsavat Partiyasinin Tarixi Archived 2007年6月25日, at the Wayback Machine.
  18. ^ Barry, Ellen (2011年3月12日). “Azerbaijani Protesters Are Arrested”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2011/03/13/world/asia/13azerbaijan.html?adxnnl=1&ref=global-home&adxnnlx=1299999663-70iNDRhe9uWn2Fkq4dxGEA 
  19. ^ Svante Cornell, Azerbaijan Since Independence (M.E. Sharpe, 2011), 261.