ミッチー・サッチー騒動

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ミッチー・サッチー騒動(ミッチー・サッチーそうどう)は、1999年浅香光代(ミッチー)と、野村沙知代(サッチー)との間の確執から派生した一連の舌戦、批判合戦である。

当時共に年齢70歳近かった女性2人が繰り広げた口舌鋒は、写真週刊誌や民放各局のワイドショーを中心とするマスメディアにとっての格好のネタとなった。また、報道は沙知代に対するバッシングの様相を呈するようになったことから、単に「サッチー騒動」とも呼ばれる。

概要[編集]

騒動の発端は1999年3月31日、浅香がそれまでレギュラー出演し、その日が最後の出演であったTBSラジオ大沢悠里のゆうゆうワイド』内で、東京都知事選挙に絡んで沙知代が立候補した1996年第41回衆議院議員総選挙の結果に基づき、次点だった沙知代に繰り上げ当選の可能性が出たことに対し、沙知代を「あんな人はもう嫌。引っ叩いてやりたい」「何が代議士よ。挨拶もろくにできないのに何考えてんだ。税金の無駄遣い。笑わせるんじゃないってんだよ!」「テレビの若い人や運転手を『馬鹿野郎』と怒鳴りつけるなど弱い者いじめが過ぎる。あんな女を番組に起用するから増長する」などと痛烈に批判したことに始まる(この時、さらに沙知代の写真を破り捨てるという行動をした)[1][2]。背景には、その1年前まで浅香が沙知代と共演していた舞台で生じた確執があった。放送内で浅香は沙知代が舞台の稽古をさぼったことで不満を持っていたところ、沙知代に「挨拶がしっかりしていない」「横柄な振舞」などと批判されたと主張、受けた批判に対して「馬鹿言ってんじゃないわよ!」「一体何様のつもりだってぇの!?」と一喝した。この発言は多くの聴取者に衝撃を与えた(当初、光代と沙知代の仲睦まじい競演で話題を呼んでいた)。浅香の批判を受けた沙知代が4月6日大阪市内のホテルでの講演会にて「どうせ売名行為でしょ」「金持ち喧嘩せずよ」とやり返したことが火に油を注ぎ、浅香は内縁の夫である世志凡太をかつぎ出して反撃した。

写真週刊誌や民放各局のワイドショーなどがこの騒動を取り上げ始めると、これに乗じるかたちで各芸能人・著名人が沙知代に対してのバッシングを行うようになる。渡部絵美(元フィギュアスケート選手。1999年1月ハワイ滞在中に初対面の沙知代から息子のいる前で「あんた、醜いわね」と言われたことをテレビで告白[3])や十勝花子神田うのデヴィ・スカルノ夫人、美輪明宏(沙知代に舞台チケットを渡すも2回連続ドタキャンされ、絶縁したことを告白)、落合信子落合博満夫人。光代寄り・沙知代批判派の中において、騒動が長引くに連れ、当時の関連主要人物の1人としてテレビ番組にひっぱりだこであり、アクの強いキャラクターの中で、主に正論を発する役割を担った)、美川憲一ミッキー安川(沙知代の夫である野村克也が監督を務めていたヤクルトスワローズが優勝した際、その優勝パーティーの司会を依頼されたものの、その後一切連絡のなかったことを暴露)、瀬川研一(「サッチーに中傷された」と民事訴訟を東京地方裁判所に起こした)、塩月弥栄子(自身の著書で沙知代の実名は出さずとも「Y」というイニシャルを使って、かつて塩月の秘書を務めた沙知代が「印税の一部を自分の口座に振り替えた」などと記述した)、杉浦正胤山東昭子有田芳生などの人物が沙知代に批判を浴びせては浅香寄りの発言をした。一方、沙知代と交友のある細木数子神田川俊郎テリー伊藤などは沙知代を擁護する立場を取った。その後もビートたけし田中眞紀子団鬼六夫人、前田武彦などの芸能人・著名人が続々とこの騒動に参戦、騒動勃発直後の時期に入院(イレウス発症のため)していた病院を退院した鈴木その子も退院会見で2人の騒動に困惑した様子を見せた。世相風刺漫才を得意とする爆笑問題がこの件をそのネタにする場面もあった。沙知代は浅香のことを「女剣劇」と罵っていた。

有田については、沙知代から講演会の場で名指しで非難されたこともある。浅香寄りであり、沙知代の学歴詐称は問題視したものの、「ミッチーは周りに押されてやってるのは腑に落ちない」「渡部絵美や十勝花子が騒ぐのはやな感じ」と浅香並びに浅香派芸能人への苦言も行っていた[4]

マスコミの報道は益々過熱し、連日のようにこの騒動が報道された。1999年春から夏にかけて週刊誌の苛烈な沙知代バッシングが続いた[5][6][7][8][9][10]。沙知代は天下の極悪人扱いを受けたが、大半の疑惑が噂や憶測の域を出ないものや、単なる見解の相違に過ぎないものも少なくなかったが、それらが事実であるかのように連日報じられた。しかし、浅香は沙知代を公職選挙法違反で告発したこと(後述)や最終的には沙知代の実弟である伊東信義や息子であるダン野村(現:団野村)、ケニー野村までが沙知代を批判したこともあり、騒動の方向性は熟女バトルから沙知代バッシングへと徐々に変わっていった。この騒動の中、神田川がデヴィ夫人に対し番組内で侮辱する発言を行いデヴィ夫人が反論、神田川を侮辱罪で告訴すると表明。後日、神田川が謝罪する事態が起きた。神田川は浅香・沙知代双方と親交が深く、騒動参加の経緯とその結果については「2人に仲良くしてもらおうと思って入ったのに、逆に失敗」と述べている。仲裁として2人にフグ鍋セットを送るということもしたが、これを浅香派の人物がワイドショー出演時に「毒を盛った」と発言し、世間から風当たりが悪くなった[11]。なお、神田川は後に沙知代擁護から離反した。

十勝はこの時期、交通事故に遭い重傷を負うという出来事があり、これについて沙知代に「天罰が下ったのよ」と罵倒される一幕があった。

1999年6月1日には当時内閣総理大臣小渕恵三ベストドレッサー賞授賞式後、リポーターにこの騒動について質問される場面もあった。

浅香自身は『大沢悠里のゆうゆうワイド』内での沙知代批判は軽い気持ちで行ったもので、最初に取材を受けた時に「もうそのことには触れないで」と、困惑した様子でレポーターに懇願しており、あくまでも自分の「失言」として捉えていたようだったが、沙知代批判派の芸能人・著名人が多く登場したことに態度を変え、テレビ出演を増やし、沙知代のことを大々的に批判するようになった。

芸能人・著名人だけではなく、テレビ局をも巻き込んだ騒動であった。日本テレビ系列『おしゃれカンケイ』では、沙知代がゲスト出演した1999年7月4日放送分(出演交渉の段階で沙知代より騒動の真相は番組内で一切聞かないという条件を出していた)のみスポンサーの資生堂が「商品イメージにそぐわない」として提供を降板するという事態が発生した[12]。番組は当時放送していた日本テレビのドラマの番宣や公共広告機構(現:ACジャパン)のCMで繋いだ。さらにスポンサーなしだったにも関らず、関東地区25.7%、関西地区22.5%の番組史上最高視聴率(関東・関西双方)を獲得した[13]TBS系列『アッコにおまかせ!』では、1999年5月22日放送分に沙知代をゲスト出演させる予定だったが、出演を無断でキャンセルし、スタジオに最後まで現れずに和田アキ子を困らせ、和田との関係が一時悪化するということもあった。1999年6月10日放送のフジテレビ系列『とんねるずのみなさんのおかげでした』内「新・食わず嫌い王決定戦」に沙知代が出演した回は初頭スポンサーの花王が沙知代出演の理由から提供を1度だけ自粛した。1999年6月24日には関西テレビ(一部ローカル局)『快傑えみちゃんねる』への収録をドタキャンしたこともあった。渡部は沙知代がレギュラー出演していたTBS系列『快傑熟女!心配ご無用』に準レギュラーとして出演していたが沙知代を批判したことから同番組のプロデューサーに「番組を挙げて(レギュラー回答者の)サッチーを守っているのに、どうしてあなたはサッチーを悪く言うのか。今後の番組出演はないと思ってほしい」と言われ僅か2回で降板となったことを1999年4月23日放送の日本テレビ読売テレビ系列『ザ・ワイド』で報道され、これに対して渡部はサンケイスポーツの取材に対し4月20日放送分の収録時も沙知代から「きょうは衣装を着てるから、ましね」と言われたことや、「私は事実を言っただけ。子供の前で『あんた、醜いわね』と言われて、子供が傷ついた。(沙知代は)悩んでいる人の相談に答えられるような人じゃない。彼女こそ番組に出てほしくない」と述べた[3]。これに対して視聴者からTBSに対し「なぜ渡部を降ろすのか」「サッチーは降板させないのか」といった抗議の電話が殺到、その数は19時までに102本(女性88本、男性14本)に達したという[3]

その他、沙知代が借りた骨董品を未返却にしていること[14]や、自身のシワ取り手術にかかった代金を滞納していることを治療を受けた美容整形病院から指摘される(治療費として86万円を要求する病院側に20万円に引き下げるよう要求しているとも同年6月下旬頃に報道された[15])など様々な方面でも問題を生じさせている。沙知代は騒動勃発後も各地で講演会を続けた(浅香や自身への批判派著名人への口撃も行った。またこれを面白がった人々などにより沙知代の講演会やイベントは大盛況となっていた)一方、講演会の一部がこの影響で中止となることもあった。1999年5月に予定されていた埼玉県狭山市での講演会は中止となったほか、さらに狭山市と同日に千葉県木更津市での講演会をダブルブッキングしていたことが発覚して木更津市側が激怒したということもあった。遂には講演会の会場に警察が出動する事態も発生している[16]

しかし、時が経つに連れ学歴詐称問題、脱税問題だけに留まらず沙知代のあらゆるプライバシーに関する内容が放送されるようになった。後期には沙知代の実弟である伊東や息子であるダン、ケニーの証言による前夫との関係や沙知代の性格までが逐一放送され、同年5月頃からは沙知代がオーナーを務めていた少年野球チームリトルシニア)・港東ムース(後に解散)での保護者・少年に対する言動・行動(「保護者に持参金や土産を強要する」「退団した少年への仕打ちとして、他のチームや学校に圧力をかけて、その後野球を続けられなくする」「少年に対し、で背中に「バカ」と書いた姿で走らさせる」[17][18]「沙知代がチーム内エース投手の母親に暴行した」[19]「生徒を殴った」[20]など不適切な行動をしている)についても放送されるようになった(また、この保護者一同も沙知代批判に参加していった)。一方、テレビ局でも局毎に報道への温度差があり、読売グループである日本テレビは特に沙知代批判に徹していた(後述も参照)。

そんな中2001年12月5日、沙知代が脱税容疑で逮捕(後に有罪判決)されたことで沙知代を擁護する芸能人・著名人もいなくなり、世間的には浅香側の勝利という形でこの騒動は収束した。浅香は沙知代の逮捕直後に会見を行い、その場で「正義は勝つ」と述べた[21]。その他、渡部は「放し飼いで全国を走り回っていた噛む犬が、やっと保護されたわね」、十勝は「(先述の罵倒への返しとして)天罰が下ったのは貴方よ」、デヴィ夫人は「アル・カポネを思いだしますね。法の網を上手くすり抜けて逃げ回り、最後は脱税の罪で投獄されました。まさに悪の権化です」とそれぞれ沙知代の逮捕を支持するコメントをした。しかし、浅香に対して「大阪に来たら殺す」「何様のつもりだ」などの物騒な電話が約20件寄せられたという[22]。後に沙知代の夫・克也も浅香に苦言を呈している。一方、克也自身も阪神タイガースの監督を続投することが決まっていたが沙知代の逮捕直後に監督を辞任した[23][24]

2002年3月19日、沙知代の初公判を受け浅香が浅草で会見し「嘘で固めた嘘は最後まで通せない。お天道様はお見通しだよ!」とまず語り、テレビでつぶさにチェックしていた立場として、裁判内容に一応納得の表情を浮かべたが、「私としては脱税だけじゃなく、もっといろいろなことを(法廷に)持ってきてほしかった」と注文をした。さらに、「(拘置所内で)自分を主人公にした本を書いているそうだけど、それではちっとも芸能界を辞めたことにならないじゃないの(沙知代は公判の中で「今後、芸能活動はしない」と語っていた。その後、正式に芸能界復帰を果たしている)」「(5月1日の判決について)どうせ執行猶予が付くでしょうが、結果を楽しみにしてますよ」と述べた。

デヴィ夫人は「昭和の女性史に残る悪女」と切り捨て、裁判で見せた反省には「演出よ。しおらしく別人を演じるのは拷問のように思うけれど、(一般人が)想像するような思考の持ち主ではない」とコメント。渡部は「今日はハイハイと、言っても、いつまで続くんだろう。これを逃れたら、違うところで(悪事を)徐々にやるのでは」と懐疑的に語り、元スポーツ選手として克也にも刃を向け、「ノムさんは脳みそが筋肉。スポーツ選手は結婚相手を考えないとね」と皮肉った。十勝は「宗男(鈴木宗男)さんも野村さんも、苦労に苦労を重ねた人。どうして周りの人がブレーキをかけなかったのか残念」と語った[25]

なお、1999年9月にも浅香に脅迫電話が相次いでいた。この影響で同年10月13日 - 17日に浅香が予定していた大阪府での一座の公演を中止に追い込まれている(浅香は自宅の玄関先と家の中に監視カメラを設置するといった対応をした)。

沙知代バッシング[編集]

沙知代が学歴詐称をしているのではないかという疑惑も取り沙汰された。発端は沙知代が衆議院選挙に立候補の際、外国人記者クラブで記者を前に「私はコロンビア大学聴講生として通っていた」と会見し、選挙公報にも最終学歴はコロンビア大学卒業となっていた。沙知代の実弟・伊東は彼女の学歴について、「中等学校で終了し、終戦後の数年間には、東京新橋第一ホテルで皿洗いのアルバイトなどをしつつ、進駐アメリカ人兵士相手の「パンパン」として身を立てていた」としている[26][27]

騒動が過熱する中、1999年7月、1996年の第41回衆議院議員総選挙に沙知代が新進党から立候補した際、虚偽の経歴(アメリカ合衆国のコロンビア大学卒業、1972年に克也と結婚した等の経歴)で選挙活動を行ったとして浅香は沙知代を公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)で計7件の告発を行った。この時、弁護士若狭勝が沙知代の捜査を行った[28]。浅香は東京地検に沙知代を公職選挙法違反であると告発するも7月14日に不受理(浅香は同日、浅草のホテルで会見を行い、目にうっすら涙を溜めながら、「残念ながら受理されなかった。こんなことがあっていいのかと思います」と悔しさを滲ませていた[29])とされるが直ちに告発状を申し付け、東京地検が再告発を受理した。合わせて、浅香、渡部、十勝を中心に沙知代の学歴詐称疑惑の調査を求める署名活動が行われ[30]、浅香が最終的に集まった7万1611通の署名を当時法務大臣陣内孝雄に提出した。当時与党の自民党議員の中にはこの東京地検の告発不受理について衆院法務委員会で追及しようという声も上がっており、沙知代の学歴詐称・公職選挙法違反が国会登場となる可能性も示唆されていた(また告発を不受理したことで東京地検に前代未聞の1万本近い抗議電話があったという)[31]。告発当時既に新進党は消滅していたが、この騒動を受け小選挙区に立候補予定だった東祥三は立候補を取りやめたため繰り上げ当選する可能性はなくなった(沙知代は繰り上げ当選は辞退する意向を示していた)。

マスコミはコロンビア大学に取材を試みたり、実際にコロンビア大学を卒業した日本人に取材を試みた。中にはロス疑惑で有名になったジミー佐古田に取材を試みたテレビ局まであった。この学歴詐称の疑いについては先に『ザ・ワイド』の制作班が取材し、同大学の同窓会による卒業生名簿に沙知代の名前(出生名:伊東 芳枝、現本名:野村沙知代 双方)がないことが判明していた(検察の捜査員が、現地コロンビア大学で調査したところ、大学の事務当局には当時の留学生の学籍原簿や単位認定記録等自体が残っておらず、経歴詐称の証拠は得られなかった)が、この事実が地検の捜査に影響を及ぼしたかということについては一切報道されておらず、沙知代はこのことに対しコメントをしていない。なお、学歴詐称を指摘された沙知代は「コロンビア大学ではなく、コロラド大学に留学した。間違えたのは編集部のミス」と答えるなど[32]、曖昧で非合理な対応に終始していた。その他、「コロンビア大学への留学を証明できる書類などが金庫ごと盗難に遭い、証拠は提出できない」とも述べていた[33]

また、婚姻歴については、息子・野村克則の誕生日から逆算し、1972年当時には克也と事実婚の状態であったと認定された。同年10月、これらの事実を受け、本件は全件7件の全てが、嫌疑不十分により不起訴とされた。この決定に対し、東京地検に抗議が殺到した。

不起訴の翌日、不起訴決定に納得しなかった十勝は東京地検前にマスコミを呼び「検察の決定にカチンときた。何故、あれだけの証拠がありながら(沙知代が)不起訴なのか分からない。もう検察は死んだと思っている。だから喪服を着て会見します」と怒りを露わにして会見を行った。

沙知代は学歴詐称や脱税疑惑の件でレギュラー出演していた『快傑熟女!心配ご無用』を1999年9月を以って降板した。

沙知代はこれらのバッシングにはほとんど黙認していたが、脱税による逮捕の執行猶予が付いた2002年5月、「もうこれ以上我慢する気はさらさらない」と堪忍袋の緒が切れたか大量提訴に踏み切った。騒動に関連した数多くの週刊誌(『週刊実話』のほかに『週刊ポスト』、『女性セブン』、『女性自身』、『週刊女性』、『FLASH』、『週刊朝日』など)や芸能人・著名人(浅香、渡部、デヴィ夫人、塩月、杉浦など)を相手取り、名誉を毀損されたとして裁判を起こした(名誉棄損件数は計31件、賠償請求額は合計5億円とも伝えられる)[34]。この訴訟が公になった時、浅香は「えっ、私に?デヴィさんの間違いじゃないの!?」「疲れ切っちゃって」「腰と足を痛めちゃいまして」などと述べた[35]

2003年5月15日には「借金が10億円以上ある」「出馬した衆院選で落選後、選挙事務所から1000万円を持ち去った」などの記事を書き立てた『週刊実話』に対し220万円の支払い(発行元の日本ジャーナル出版に対し)を、同年9月2日には塩月に1100万の損害賠償を求めた訴訟の判決で塩月に77万円の支払い(先述の著書でのイニシャルの件であり当時東京地裁の浅香紀久雄裁判長は「『28年前に自分の秘書をしていた人物』と特定しており、Yさんが沙知代を指すと分かる人は相当数に上る」と判断。「印税を横領したかのような記述で社会的評価を低下させた」と名誉棄損を認めた)を、同月22日には「(沙知代は)魔女どころか毒婦以下」と発言したデヴィ夫人に110万円の支払いをそれぞれ東京地裁が命じた[36]

そして2004年1月16日には、浅香に対して名誉毀損で1億1000万円の損害賠償を求めていた訴訟の判決が下り、東京地裁は浅香に110万円の支払いを命じている。翌17日には『日刊スポーツ』が「サッチーがミッチーに辛勝、騒動に終止符」と題しこのことを取り上げた。その後、浅香は東京高等裁判所に控訴するも同年6月28日にはそちらでも沙知代の訴えが認められる格好となった[37] 。ただし、浅香の名誉棄損は認めつつも、「真実相当性が認められるものもある」ということで、1億1000万円から110万円へ減額された。

当時東京高裁の赤塚信雄裁判長は浅香のマスコミへの情報提供について、「雑誌記者に情報を提供した段階で名誉棄損は成立した」と認めた。一方で「学歴詐称」に関しては、「留学経験があるなら、連日の疑惑報道に野村さんが何の反論もしないのは極めて不自然で、学歴を詐称していると信じる相当の理由があった」と、改めて真実相当性を認めている。つまり浅香に不法行為は認められなかった。

また、沙知代は「『舞台での共演を継続したい』という浅香の要望を断った直後に浅香が批判をし始めた」と述べている。

反響と影響[編集]

この騒動の反響の大きさにより、浅香のこれまでの高年齢者にシフトしていた知名度が、若い世代でも認知されるようになったほか、「ミッチー・サッチー」は1999年の新語・流行語大賞トップテン入賞を果たした(受賞者は浅香のみ)。

あまりに過熱する騒動に、マスコミの姿勢に対して批判が上がった。報道被害など人権の観点からの批判もあった。報道と人権やメディア・リテラシーについて学ぶ題材として、この一連の騒動が使われる場合がある。さらに、この騒動の主要人物である浅香、渡部、十勝等のパフォーマンスや批判内容があまりに稚拙であった(「(沙知代が)芝居の稽古に遅刻したが反省する素振りもなくたばこを吸いだした」「プライベートで通りすがりに(沙知代から)『醜い』と言われた」など)ことや騒動後に彼女達のテレビでの露出が一時的に増えたこと、渡部が騒動終盤の時期である2001年に第19回参議院議員通常選挙に出馬(結果は落選)したことなどから、「彼女達は最初から自身の売名行為が目的で騒動に参加したのではないか?」という批判も出ている[38][39]。なお、この批判は1992年(平成4年)の第16回参議院議員通常選挙で同じく学歴詐称をして社会的地位を失っていた新間正次がワイドショーに売り込み出演をして沙知代を批判、騒動に加わったことでさらに大きくなっていった。

1999年の索引ランキングで沙知代は1位、克也は8位、浅香は49位となった[40]

一方で、報道するマスコミ側からは、沙知代が政治家を目指した人物であること、さらに先述の通り沙知代がその時点で衆議院の繰り上げ当選の可能性を残していた(現実に繰り上げ当選の可能性が取り沙汰されたこともあった)ことなどから、沙知代が「(準)公人」であるとして、報道を正当化する意見が述べられた[41]

備考[編集]

沙知代自身は学歴詐称疑惑は「読売(読売ジャイアンツ)の陰謀」と話している。他にもこの騒動自体が読売グループ主導によるネガティブ・キャンペーンであると批判した著名人やメディア(毎日新聞社など)も多くいた。佐々木慎吾は「(バッシングは阪神の監督を務めていた)克也への揺さぶり」 という沙知代の「読売陰謀説」を支持している[42]

浅香に関しても、自身の過去を暴いた怪文書の隠蔽工作を図るなどの行為をしていたとされる。それにもかかわらず沙知代ただ1人が槍玉に上げられたのは、「視聴率を稼ぎたいワイドショー(民放テレビ局)側と、それぞれに思惑のある連中がお互いの利益で結び付いているから」という構図によるものとも言われている[43]。『噂の真相』は「沙知代批判を繰り返している面々も、実はそれ以上にウサン臭かったり、目クソ鼻クソのタグイ」と報じた。

浅香が『大沢悠里のゆうゆうワイド』で沙知代批判を行った翌日が放送初回となったフジテレビ系列『情報プレゼンター とくダネ!』は、4月16日放送分で、沙知代が美容整形の代金を滞納しているとした内容を放送した。しかし翌日、小倉智昭が番組の冒頭で「今後、ミッチー・サッチー騒動や野村沙知代さんに関する報道は特に大きな進展がない限り放送はしません」と挨拶した。理由は明らかにされなかったが、『スポーツ報知』はヤクルトを3度の日本一に導いた沙知代の夫・克也に配慮した、またはフジテレビ(フジテレビを傘下に持つフジサンケイグループは、スワローズの運営会社・ヤクルト球団の大株主)からの圧力があったのではと結んだ[44]

芸能ニュースを扱うワイドショーを放送しないテレビ東京はこの騒動とほぼ無縁状態だった。1999年6月25日に行われた同局の定例会見で当時の一木豊社長が「ウチは(この騒動の報道を)やる気がないから困惑している。こんなことを続けていると政党が出てきて、『けしからん』と言われてしまう」と述べた[45]

長期化した騒動であったが、1999年4月の時点で浅香と沙知代の和解や騒動終戦への動きもあった[46]。実際、4月下旬に沙知代が「終戦宣言」をしたこともあった。

1999年5月にはこの騒動を題材とした楽曲が制作された。同年5月10日放送の日本テレビ系列『ルックルックこんにちは』でこの旨が報じられた[47]

沙知代は1999年6月30日ワーナーミュージックより「SACH A BEAUTIFUL LADY」とのシングルを発売する予定だったが、同社が発売延期を表明、後に発売元をワンダービートに替えて7月20日に発売するという事態も発生した。

エッセイストとして活動していた沙知代は1985年8月、処女作となったエッセイ『きのう雨降り今日は曇りあした晴れるか』(潮出版社)を発表。同著作は同年の第4回「潮賞」ノンフィクション部門特別賞を受賞した。しかし、この騒動が始まると、沙知代の経歴への疑惑からゴーストライターの存在などが取り沙汰される騒ぎとなった。こうした中、潮賞選考委員の本田靖春が『現代』1999年9月号(8月発売、講談社)において、自身の連載「私の同時代ノート」に「野村沙知代に賞を与えた不明を恥じる」を発表。「彼女が世に出るきっかけにつながっているとしたら、私は不明を恥じるばかりでなく、いささかなりとも責任を感じずにはいられない」と自己批判し、選考委員を辞任した。一方、同じく選考委員であった筑紫哲也柳田邦男は沈黙したままであった。沙知代に賞を与えたことについて潮賞選考委員に対する批判はさほどなかったものの、以後潮賞はすっかり権威を失い、第20回(2001年)を最後に中止に追い込まれた。

江本孟紀は克也を師と仰いでいるほか、自身の子息が沙知代所有の港東ムースに所属していたが、この一連の騒動の際には積極的な発言を控えていた。

2008年5月13日インターネット番組『続!恐縮!!梨元のススメ!!』の公開生放送に出演した浅香は、当時宮崎県知事東国原英夫について、東国原知事の当選前にオスマン・サンコンと、ある実業家を東国原へ紹介して選挙戦を応援させたが、当選後に「(応援してくれた人に)お礼の電話も手紙もない」ということで浅香が東国原知事に電話をしたが、東国原知事から「浅香光代?あー、女剣劇のねえ」と返されたため、激怒したと語った後、「女剣劇を下に見やがって、売られた喧嘩は買わなきゃならない。知事になったからって、人への感謝ってもんを忘れちゃならない。思い上がってんじゃないよ!」と述べた。この発言の翌日、『サンケイスポーツ』が「サッチー騒動再びか?」題しこのことを取り上げた。一方、この生放送後、浅香は報道陣に自身が刊行したばかりであったダイエット本を配っていたとされ、この記事を書いた『サンケイスポーツ』は話題作りのための発言だったのではないかとも報じた。この件について、沙知代が「東知事は、彼女(浅香)を相手にしない方がいい」「(浅香は)空振り三振でしょ!」と東国原知事に対し助言を述べた[48]。なお、浅香と東国原知事は数日後に和解している[49]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 日本一くだらない!? ミッチーvsサッチー騒動を振り返ろう,チョベリグニュース,2015年11月19日
  2. ^ ZAKZAK』1999年4月1日更新
  3. ^ a b c 渡部絵美、サッチー批判で番組降板、『サンケイスポーツ』1999年4月24日付
  4. ^ http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4642/sp7-3.htm
  5. ^ 「野村沙知代『サッチーはなってはいけない人間の見本』『売名行為』発言に浅香光代、血圧上昇 元事務所従業員Mさんがあかす悪業の日々」『週刊女性』1999年4月27日号
  6. ^ 「メガトンスクープ!野村沙知代身内3人が次々と怪死!近親者が語る恐るべき事実」『週刊女性』1999年6月8日号
  7. ^ 「サッチーよ!家政婦は見ていた!寝室にバット、牛肉代を払えから夫婦の関係までを全告白」『女性セブン』1999年7月8日号
  8. ^ 「野村沙知代?元恋人″が口ごもる『援助交際!』守銭奴ぶり奔放な男関係...彼女が葬ったすべての過去を知る男性は」『週刊女性』1999年7月6日号
  9. ^ 「学歴詐称だけじゃない!サッチー10大疑惑の真相!」『女性自身』1999年7月6日号
  10. ^ 「『沙知代に殺される!』あの野村監督が悲鳴をあげて逃げ出した夜 国民的疑問!知将はなぜ彼女を妻にしたのか?」『女性セブン』1999年7月8日号
  11. ^ http://blog.yam.com/ddenkabo/article/13136329 Yam天空部落 - 蕃薯藤
  12. ^ 「おしゃれカンケイ」3月終了 古舘「報道ステーション」専念、『スポーツ報知』2005年1月15日付
  13. ^ ビデオリサーチ社調べ
  14. ^ 1999年4月16日放送のテレビ朝日系列『スーパーモーニング』などで報じられた。当日の新聞ラ・テ欄における同番組の項でも確認できる。
  15. ^ 1999年6月24日放送のフジテレビ系列『情報プレゼンター とくダネ!』より。当日の新聞ラ・テ欄における同番組の項でも確認できる。
  16. ^ 1999年7月2日放送のフジテレビ系列『2時のホント』より。当日の新聞ラ・テ欄における同番組の項で確認できる。
  17. ^ 1999年5月12日放送の『ザ・ワイド』より。当日の新聞ラ・テ欄における同番組の項でも確認できる。
  18. ^ 舌戦!沙知代VS光代!落合信子にデヴィ夫人、十勝花子、美輪明宏etcも参戦した一大騒動でした!,ミドルエッジ,2016年4月25日
  19. ^ 1999年6月25日放送の『ザ・ワイド』より。当日の新聞ラ・テ欄における同番組の項でも確認できる。なお、この告白はエース投手だった人物の本人談である。
  20. ^ 経歴詐称の野村沙知代「古田を殺してやりたい」との暴言も,90チョベリー,2016年3月24日
  21. ^ “天敵”浅香光代「正義は勝つ」 ,Sponi Aneex,2001年12月6日
  22. ^ サッチー逮捕直後、浅香に脅迫電話,スポーツニッポン,2002年1月26日
  23. ^ 2014年3月29日、スポーツニッポン「広澤克実の我が道29」より
  24. ^ 野崎勝義著、ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年、朝日新聞出版、2011年、88頁。
  25. ^ 反省サッチーに、「またやるよ」の声 浅香光代、渡部絵美は怒り収まらず,ZAKZAK,2002年3月20日
  26. ^ "芳枝は大学どころか高校も出ていない。コロンビア大学に留学していたと主張している53年から57年の期間に芳枝がやってたのは、当時『パンパン』って呼ばれてた職業だ。皿洗いのアルバイトをしながら、ホテルの回りにいる米兵相手に商売してたんだ" (伊東信義 『姉野村沙知代』 )。
  27. ^ 一方この時期、沙知代の自著によれば、ニューヨーク市にあるコロンビア大学"精神心理学部"を卒業し、同時通訳者になっていたとされている(野村沙知代 『きのう雨降り今日は曇りあした晴れるか』潮出版社、1985年)。
  28. ^ 野村沙知代学歴詐称疑惑に不起訴処分! 捜査指揮した検事は本誌への名誉毀損恣意捜査も担当!” (日本語). 噂の眞相 (1999年10月). 2012年10月31日閲覧。
  29. ^ 『夕刊フジ』1999年7月15日付
  30. ^ 毎日新聞』1999年7月19日付
  31. ^ 『夕刊フジ』1999年7月17日付
  32. ^ フォーカス』の取材
  33. ^ 1999年6月末頃に各メディアでもこの発言が報道された。
  34. ^ 共同通信社』2003年9月2日付
  35. ^ 『サンスポ・コム』2002年7月19日更新
  36. ^ いずれも同じく『共同通信社』の報道
  37. ^ Yahoo!ニュース』2004年6月28日付
  38. ^ 浅香は騒動の最中、マスコミから「売名行為が目的なのか?」との批判・質問を受けた際、「(顔を硬直させながら)自分は昔から有名人だった。売名行為などする必要はない」と答えていた。
  39. ^ 十勝については、ニッポン放送ナインティナインのオールナイトニッポン』において、「十勝は様々な芸能ネタに首を突っ込む(傾向にある)」とネタにされている。
  40. ^ http://www.oya-bunko.or.jp/magazine/ranking_year/tabid/150/Default.aspx
  41. ^ 野村沙知代をめぐる熱き熱女バトル,噂の眞相
  42. ^ 日刊ゲンダイ』1999年5月26日付
  43. ^ 『噂の真相』1999年8月号
  44. ^ 『スポーツ報知』1999年4月18日付「とくダネ!野村前監督に配慮か 番組内でミッチー・サッチー騒動放送せずを明言」
  45. ^ 毎日新聞』1999年7月2日付
  46. ^ 当時の新聞ラ・テ欄の各ワイドショー番組の項で確認できる。
  47. ^ 当日のラ・テ欄における同番組の項目で確認できる。
  48. ^ サッチー、東知事に助言「浅香光代は相手にするな!」 処女小説サイン会で,ORICON STYLE,2008年5月31日
  49. ^ 「大人の対応」東国原宮崎県知事と浅香光代が和解,ORICON STYLE,2008年5月23日