ミスタートウジン

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ミスタートウジン
欧字表記 Mr.Tojin
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1986年4月25日
死没 2013年12月17日(27歳没)
ジュニアス
ナオユキ
母の父 ジルドレ
生国 日本の旗 日本北海道門別町
生産者 白井牧場
馬主 藤立啓一
調教師 田中康三栗東
福島信晴(栗東)
厩務員 西谷憲
競走成績
生涯成績 99戦11勝
うち地方競馬5戦0勝
獲得賞金 3億9446万3000円
+地方競馬2375万円
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ミスタートウジン日本競走馬。主に中央競馬ダート戦線で出走し、オープン特別競走で5勝を挙げる。中央競馬の最高齢出走記録となる15歳[注 1]まで現役を続け、通算100戦を目前にしながら故障のため引退。通算成績は99戦11勝。競走馬引退後は種牡馬となった。

半兄ミスターシクレノン鳴尾記念ダイヤモンドステークス勝ち)がいる。

※戦績部分の馬齢2000年以前に使用された旧表記(数え年)で表示する。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1986年北海道門別町白井牧場に生まれる。父ジュニアスはイギリスのミドルパークステークスの優勝馬。母ナオユキは中央競馬のクイーンカップ牝馬東京タイムズ杯でそれぞれ2着の実績を持つ。幼駒の頃より筋肉が発達した大柄な馬で、白井牧場々長の市川康範によれば「サラブレッドとも道産子とも違うし、ばん馬の子が一頭交じってるみたいだった」という[1]

戦績[編集]

初出走となったのは1988年10月9日新馬戦(7着)で、2戦目に初勝利を挙げた。4歳時は1勝を挙げたあとクラシック競走皐月賞に出走するも13着に敗れ、その後はしばらく条件馬として過ごした。

5歳になり、初戦のダート競走・稲荷特別を勝利し、一戦をはさみ同じくダート競走のストークステークスにも勝利。この時点でダート戦は4戦4勝となり、このあたりからダート路線を主軸に活躍し始める。6歳になりオープンクラスに昇格し、1991年には武蔵野ステークス(当時はオープン特別競走)を勝つほか、天皇賞(秋)では兄のミスターシクレノンとともに兄弟出走を果たしている(シクレノン11着、トウジン14着)。翌1992年からしばらくは、秋冬に多く組まれるダート競走に万全を期すため、春夏は完全休養することが習慣となった[2]。この頃、特にダート競走では常に5着以内に入り賞金を得、8歳となった1993年の初頭にはガーネットステークス平安ステークス(いずれも当時オープン特別競走)を連勝。特に1400メートルから1800メートルの距離に強さを見せた[3]。市川康範は、「百メートルランナーみたいな格好の筋肉は、素直に力のいる短距離のダートで生かされた」と述べている[3]

9歳(1994年)になると5着以内を確保できないことが増え[4]、同年に出走した帝王賞では、これを最後としての引退も視野に入れられていたが、2着に入ったことから「まだやれる」と現役続行となった[2]。しかし以後の成績は振るわず、11歳となった頃には厩舎に「可哀想だ、動物虐待だ」といった非難の電話も寄せられていた[2]。一方で、毎年の放牧先であった白井牧場には、10歳を過ぎた頃から見学の問い合わせが増え、「トウジン様」宛の贈り物が届くようにもなっていた[5]。高齢まで現役を続けた理由について、調教師の福島信晴と馬主の藤立啓一は、それぞれ次のように述べている。

「(前略)競走馬として生まれたからには、走れる限り、競走に出るのが幸せなんや。この馬が、仮にGIかGIIでも取っていれば、種馬になる道も残されている。けど、その時点では種馬になるのは無理だった。もし、ぼくの手を離れたら、もっと切ない結果になるやろう」
福島信晴[2]
「馬が走りたがっているんやから、走らせたろやないか、という気持ちやね。オーナーのぼくが諦めて、ほな、乗馬クラブへ出そか、と決断したとする。何カ月かは置いてもらえるかもしれんけど、それから先は、わからん。ぼくとしては、この馬にもうひと踏ん張りしてもらって、箔をつけてやね、引退の花道を飾らせたかったんや」
藤立啓一[2]

1996年夏から1998年2月までは、脚部不安のため長期休養する[2]。復帰後初戦の銀嶺ステークスでは8着だったが、同期のサクラホクトオーの仔サクラスピードオーに先着している。4歳時の皐月賞ではサクラホクトオーにも先着しており、親子二代に先着を果たすという記録を残した。3戦目の交流重賞黒船賞では最後方から追い込んで4着に入った。この競走前には京都競馬場誘導馬への転身も考えられていたが、13歳という年齢から「物覚えが悪くなるので」と競走後に不採用が通知された[2]。次走・オアシスステークス7着の後に右前球節骨折を発症し休養[2]。翌1999年1月に復帰したが、4戦を消化したあと同じ箇所に再び剥離骨折を生じ、再度休養した[2]

15歳になり、中央競馬の同一競走最多出走記録である8度目の出走[6]となった銀嶺ステークスで通算99戦を消化。陣営は100戦目にGI・フェブラリーステークスを走り引退するという青写真を描いていたが除外され[7]、次に黒船賞を選択するが補欠馬に回され出走できなかった[7]。そのあとも100戦目を迎えるべく調教されていたが、右前浅屈腱不全断裂の怪我を負い、100戦目を迎えることなく引退した。15歳での出走は、中央競馬では1956年に出走したアリサトの13歳を更新する最高齢記録[注 2][8]、重賞未勝利ながら獲得賞金額は4億円超にのぼった。

引退後[編集]

重賞勝ちもない成績であったが、馬主の藤立がミスタートウジンの子を強く望んだことや、福島がその子の受け入れを請け合ったこと、またマスメディアや競馬ファンから注目されたことで、引退後は種牡馬入りが叶った[9]。初年度には2頭の産駒を出しており、うち1頭が勝ちあがったことも話題となった。種牡馬生活を送った3年間で3頭の牝馬から都合6頭の産駒が生まれたが、競走馬として大成した馬は出なかった。

2002年10月1日、種牡馬を引退。その後は白井牧場に繋養されていたが、2007年5月に隣接する日高ケンタッキーファームに移った[10]2009年には同ファームの閉鎖に伴い日高町富川の乗馬クラブに移動し、エモシオンとともに繋養されていたが、同年の誕生日前にはもといた白井牧場へ移動となり、当て馬をしながら余生を過ごしていた[11]2013年12月17日老衰により死亡[12]

年度別競走成績[編集]

馬齢 出走 1着 2着 3着 4着以下 主な実績
1988年 3歳 3 1 1 0 1  
1989年 4歳 13 1 3 1 8
1990年 5歳 12 3 2 2 5
1991年 6歳 13 2 4 1 6 武蔵野ステークス(OP)
1992年 7歳 8 2 1 2 3 銀嶺ステークス(OP)、アンドロメダステークス(OP)
1993年 8歳 8 2 0 3 3 ガーネットステークス(OP)、平安ステークス(OP)
1994年 9歳 14 0 3 0 11 帝王賞2着
1995年 10歳 11 0 0 1 10  
1996年 11歳 7 0 0 0 7
1997年 12歳
不出走
1998年 13歳 4 0 0 0 4
1999年 14歳 4 0 0 0 4
2000年 15歳 2 0 0 0 2
99 11 14 10 64

エピソード[編集]

競走馬時代のミスタートウジンは田中康三厩舎から福島信晴厩舎に移籍しているが、これは厩務員の西谷憲が移籍した際に、馬主の藤立啓一が「トウジンは西谷さんにしか任せられない」として一緒に移籍させたことによる。

血統表[編集]

ミスタートウジン血統(ボールドルーラー系(ナスルーラ系) / Nearco5×4=9.38% Mumtaz Begum5×5=6.25%) (血統表の出典)[§ 1]
父系 ボールドルーラー系ナスルーラ系
[§ 2]

*ジュニアス
Junius
1976 黒鹿毛
父の父
Raja Baba
1968 鹿毛
Bold Ruler Nasrullah
Miss Disco
Missy Baba My Babu
Uvira
父の母
Solid Thought
1957 栗毛
Solidarity Alibhai
Jerrybuilt
Unforgettable Burning Dream
Cantadora

ナオユキ
1969 黒鹿毛
*ジルドレ
Gilles de Retz
1953 鹿毛
Royal Charger Nearco
Sun Princess
Ma Soeur Anne Majano
Grande Soeur
母の母
ツルミヒメ
1956 黒鹿毛
シマタカ *プリメロ
第参マンナ
デイプレイク *ダイオライト
第四パシフイツク F-No.4-d
母系(F-No.) プロポンチス系(FN:4-d) [§ 3]
5代内の近親交配 Nearco4×5、Mumtaz Begum5×5 [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ ミスタートウジン 5代血統表2017年8月29日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com ミスタートウジン 5代血統表2017年8月29日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ ミスタートウジン 5代血統表2017年8月29日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ ミスタートウジン 5代血統表2017年8月29日閲覧。


主要参考文献[編集]

  • 優駿』2000年4月号(日本中央競馬会)
    • 山本徹美「頑張るお父さんの星 - ミスタートウジンが駆け抜けた日々」
  • 大塚美奈『馬と人、真実の物語』(アールズ出版、2002年) ISBN 978-4901226424

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時の馬齢。2001年以後の表記では14歳。
  2. ^ ただし、アリサトは「マル特馬」と呼ばれる夏の小倉開催時のみ出走馬確保のために当時出走が認められていた地方所属馬で、JRA所属馬ではなかった。

出典[編集]

  1. ^ 大塚(2002) p.94
  2. ^ a b c d e f g h i 『優駿』2000年4月号、pp.111-112
  3. ^ a b 大塚(2002) p.95
  4. ^ 大場(2002) p.96
  5. ^ 大場(2002) p.98
  6. ^ 【今日は何の日?】15歳馬ミスタートウジンが引退”. Web Sportiva (2012年3月19日). 2013年4月17日閲覧。
  7. ^ a b 『優駿』2000年5月号、p.68
  8. ^ 『優駿』2000年4月号、p.108
  9. ^ 大塚(2002) p.101
  10. ^ 『ミスタートウジン』 - KENTUCKY BLOG Archived 2007年10月27日, at the Wayback Machine.
  11. ^ ミスタートウジンを訪ねて〜白井牧場”. 名馬を訪ねて. 競走馬のふるさと案内所 (2011年8月5日). 2011年8月24日閲覧。
  12. ^ ミスタートウジン、27歳大往生 重賞未勝利ながら獲得賞金4億円超”. スポニチアネックス (2013年12月17日). 2013年12月18日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]