マーチン2-0-2

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マーチン2-0-2

マーチン2-0-2(Martin2-0-2)は、アメリカ合衆国の航空機メーカーのマーチン(現在のロッキード・マーティン)が第二次世界大戦後に開発・製造した双発レシプロ旅客機である。なお、「マーチン202」と表記されることも多いが、正式には「マーチン2-0-2」と表記する。

概要[編集]

1945年10月ペンシルベニア・セントラル・航空(Pennsylvania Central Airlines、のちキャピタル航空 en)とマーチン社が新型機について討議交渉したことがきっかけで(受注には至らなかった。)、開発計画案はローカル路線用の機材刷新、ダグラスDC-3の後継で開始された。 1946年11月原型機が初飛行し1947年10月13日ノースウエスト航空のモデル2-0-2NWはシカゴミネアポリス路線就航で運行開始、25機導入した。続いてトランス・ワールド航空、南米のLANチリ(LAN Chileen、使用モデルは2-0-2FL)、リネア・アエロポスタル・ベネズエラ(en、モデル2-0-2LAV)で採用された。
構造設計で強度不足、金属疲労対策が不十分で後述の全損事故が相次ぎマーチン社はリコールで主翼を再設計したものへ交換改修、生産は改善モデルに移行したが客室が与圧されていなかったことや評判低下から1948年中頃には受注分で打ち切り、後続の与圧客室を持つ発展型の開発を繰り上げマーチン4-0-4として発表し生産を移行した。このため、マーチン2-0-2は34機(主翼強化型のマーチン2-0-2の生産は12機、試作機を含め全47機。)が生産されるにとどまった。
イースタン航空など発注取り消しや導入した航空会社から早期転売される一方、トランス・ワールド航空はモデル2-0-2Aを前脚式(フロント・ギア)旅客機など訓練用と兼用で導入し中古機を買い足し[1]12機使用した。再放出から18機を確保々有したアレゲニー航空(Allegheny Airlinesen、のちUSエアウェイズ)など纏めて引き取る航空会社もあり1960年代半ばまで使用された。

日本においては第二次世界大戦後、日本法人である日本航空が運用した最初の機体である。

機体の経歴[編集]

マーチン2-0-2は、第二次世界大戦中に大量に使用されていたダグラス DC-3の後継機を狙って開発されたものであり、1946年11月22日に原型機が初飛行した。

1年後の1947年11月15日ノースウエスト航空で就航したが、1948年8月29日に主翼構造の強度不足のためミネソタ州上空で空中分解し墜落した。そのため残された機体は改修が命じられ、僅か34機の製造で終了した。

その後も1950年3月から1951年1月にかけてノースウエスト航空の機体が4機相次いで事故を起こしている他、ノースウエスト航空から日本航空ウェットリースされた機体もく星号が1952年に事故を起こしている。製作機数に対して全損事故が13機と極めて多く、死亡者も163人に上る。

日本航空のマーチン2-0-2[編集]

日本航空のマーチン2-0-2「もく星号」と客室乗務員

第二次世界大戦で敗北した日本は、連合国より軍民問わず航空機を運用することを禁止されていた。1951年になり、ようやく日本航空株式会社(旧会社)による民間旅客機による定期路線が就航した。しかし実際には日本航空は営業面だけを日本側が担当し、実際の定期路線運航はノースウエスト航空が操縦士つきで担当した。このときに使われたのがマーチン2-0-2であった。

日本航空では5機のマーチン2-0-2を運航し、それぞれの機体に

の愛称を付けていた(太陽系惑星に由来する。6機以上あれば「てんのう星号」「かいおう星号」「めいおう星号」が存在した可能性もあり、このうち「てんのう星号」はダグラス DC-4機体記号:N88844、1952年10月買収で日本籍機体記号:JA6005、「十勝」号が使用した。)。

そのうち「ど星」は、1番機として1951年10月25日東京大阪間の定期航空路線に就航した。しかし1952年4月9日には「もく星」がもく星号墜落事故で失われた。そのためか、1953年の日本航空株式会社(特殊会社)設立に伴う自主運航開始とともに全てノースウエスト航空に返却され、日本の空から姿を消した。

性能要目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 2-0-2A仕様に改修。