マルメディ虐殺事件

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雪に横たわる米兵の死体
運ばれる死体
発見された米兵

マルメディ虐殺事件(マルメディぎゃくさつじけん、Malmédy massacre)は、1944年バルジの戦いの最中に発生した武装親衛隊による戦争犯罪

経緯[編集]

1944年12月16日ドイツ軍は「ラインの守り」作戦を発動、ベルギー南部からフランス東部に展開した連合軍に対し、ルントシュテット攻勢(連合国側の呼称「バルジの戦い」)として知られる大攻勢を開始した。その翌日の12月17日、攻勢の主力を務める第6SS装甲軍の先鋒、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐率いるパイパー戦闘団がベルギーのマルメディとリヌーヴィルの間で米第285砲兵観測大隊に遭遇した。短時間の戦闘の後にアメリカ軍部隊は降伏し、パイパーら部隊主力は進撃を再開した。あとには監視を命ぜられた独軍兵士たちと共に捕虜150人が十字路の近くの野原に集められ、武装解除され後方に送られるのを待つばかりとなっていた。

「一人の親衛隊将校がピストルを引き抜き、最前列に立っていた衛生兵を撃ち、次に隣に立っていた兵士を撃った。他の親衛隊員達も機関銃で銃撃に加わった」

なぜそのような事態が発生したかははっきりしていない。 虐殺の被害者は資料により72人ないし84人。生き残った捕虜の多くは森林に逃亡し、犠牲者の死体はそのまま放置された。アメリカ軍の偵察部隊がその夜虐殺現場を発見し、ニュースは連合軍内に素早く伝わった。その後独軍の攻勢は失敗に終わり、米軍は1945年1月13日に虐殺が発生した地点を奪還、1月14日15日に遺体が回収された。

独軍側の記録、証言によれば米第285砲兵観測大隊のトラック縦隊と遭遇したのは先鋒戦車部隊であり、両者の目的地は共にエンゲルスドルフであった。一刻でも早く進軍しなければならないと判断した先鋒戦車部隊は、捕虜手続きをちゃんと行わず簡易的に武装解除しただけで、捕虜に見張りも付けずに置き去りにして進軍を再開してしまった。結果、置き去りにされたまま立ち尽くした米軍捕虜の数名が再び武器を手にした。急いでいた為、全ての武器を回収できておらず、武装解除を完全に行えていなかったのだ。戦場に置き去りにされた人間が、つい武器に手を伸ばしてしまうのはしょうがない事であろう。 そこに後続戦車部隊がやって来てしまった。 状況がちゃんと伝えられておらず、後続戦車部隊は武器を手にした数名を確認、捕虜ではなく敵部隊と勘違いして攻撃を開始した。不完全とはいえ武装解除された米軍兵士に反撃するという選択肢は無く、逃亡するしかない。そこで逃亡を制止すべく更に発砲、犠牲者が増えていくという悪循環に陥ってしまった。 ちゃんと捕虜に見張りを立てておけば防げた事態ではあったが、当時、物資が底をついていた独軍にとっては捕虜を確保する事もままならず、武装解除だけして即開放という事も珍しくはなかったのだ。大戦末期における防戦一方の中で独軍は混乱しきっており、情報連絡もままならない状態であった中で発生してしまった悲劇である。

裁判[編集]

戦後、パイパー親衛隊中佐を始めとして、パイパー戦闘団に所属していた武装親衛隊員74名が逮捕され、1946年5月にマルメディでの殺人容疑で裁判が行われた。 しかし捕虜殺害がパイパーら独軍指揮官の命令によるものであると立証されることはなく、多くが死刑判決を受けたがのちに減刑され1956年までに全員が釈放されている。現在では戦闘中に偶発的に起きた事件であり、多数の捕虜が虐殺されたのは事実であるが計画的に行われたものではないとするのが一般的な見方である。事実、アメリカがこの事件を独軍を糾弾する上で政治的に利用した事は、この裁判で独側の弁護側証人として出廷した米軍第30歩兵師団のマクガワン中佐の証言が無視され、むしろ独軍に協力したとして告発されてしまった事からもうかがう事ができる。

なお釈放後、パイパーは偽名でフランスに隠匿していたが1976年、正体が発覚し自宅に火炎瓶を投げ込まれて焼死した。

この事件を扱った作品[編集]

  • 映画 『極寒激戦地アルデンヌ 〜西部戦線1944〜』(原題:Saints and Soldiers) - 冒頭の場面でマルメディ事件を扱っているが、一人のアメリカ兵が逃亡し、それを武装親衛隊員が射殺。それに動揺したアメリカ兵が親衛隊員から銃を奪って親衛隊員を射殺したため、武装親衛隊が米兵を銃撃したという偶発的事件として描かれている。
  • 映画 『バルジ大作戦』(原題:Battle of the Bulge)

外部リンク[編集]