マルチン・ゲルリッツエン・フリース

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1862年にイタリアで作成された日本付近の地図で、フリースの報告に基づいている。地図上でIsola di Statiとあるのは択捉島。フリースは海霧のため根室海峡を確認できず国後島蝦夷地と繋がっている。また宗谷海峡および間宮海峡も発見できなかったため、蝦夷地と樺太アジア大陸の一部として記載されている。

マルチン・ゲルリッツエン・フリースMaerten Gerritsz de Vries1589年 - 1647年)は、オランダの航海士・探検家

オランダ東インド会社に所属していたが、1643年に東インド総督アントニオ・ヴァン・ディーメンの命を受け、中国の北方にあると信じられていた「カタイヤ王国[1]、および、日本の東方沖にあるとされた金銀島捜索のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム号に乗船[2]、僚船ブレスケンス号(指揮官ヘンドリック・スハープオランダ語版)とともに同年2月にバタビアを出航した。ところが、5月に房総半島沖で暴風雨に遭遇してブレスケンス号を見失い、やむなく単独で太平洋を北上した。なお、ブレスケンス号は一旦千島列島沖まで北上した後に南下して7月28日(日本の寛永20年6月13日)に盛岡藩領である陸奥国山田浦(現在の岩手県山田町)に漂着して船長らが上陸したところ、盛岡藩に捕えられて江戸に護送され、オランダ商館長宣教師の潜入や日本への領土的野心を目的とするものではないと釈明したのを江戸幕府が了解して解放されることとなる(ブレスケンス号事件)。

そうとは知らないフリースは北上を続け、樺太東方沖の北緯48度54分まで達した。この間に択捉島得撫島をヨーロッパ人では初めて発見して、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言をしている[3]。8月にバタビアに戻る途中で立ち寄った厚岸松前藩の役人に遭遇して取調を受けるが、程なく出発を許されている。

日本近海における金銀島探索は、1612年スペインビスカイノ1639年のオランダのクワスト英語版タスマン以来3度目であるが、ヨーロッパ人による日本北方の航海はフリースが最初の例となる。また、奥州から蝦夷地、千島列島、樺太にかけての沿岸の実測地図を制作しているが、濃霧のために宗谷半島方面についての探索を断念したために宗谷海峡を発見できず、蝦夷地と樺太を同一の島と見誤っている。

脚注[編集]

  1. ^ マルコ・ポーロが『東方見聞録』で伝えた「カタイ」のこと。本来は中国北部を指す呼称だが、15-16世紀のヨーロッパにおいては、中国(シナ China)の北方に、それとは別に「カタイ」が存在する、と信じられていた(宮崎市定、「マルコ・ポーロが残した亡霊」 『宮崎市定全集 19 東西交渉』 岩波書店、1992年 )。キタイ (地理的呼称)の項も参照。
  2. ^ 永積洋子訳、「韃靼の東海岸、カタイヤ王国、アメリカの西海岸及び日本の東方にある金銀の豊かな島の探険に向う、フライト船カストリクム号、ヤハト船ブレスケンス号の船長、司令官マールティン・ヘリッツゾーン・ド・フリース及び会議員一同に与える訓令」 『南部漂着記――南部山田浦漂着のオランダ船長コルネリス・スハープの日記』 キリシタン文化研究会〈キリシタン文化研究シリーズ 9〉、1974年9月25日、105-124頁。 
  3. ^ 根室市‐学芸員日誌‐「最初の千島探検」

参考文献[編集]

  • 藤島高志「フリース」(『日本史大事典 第5巻』1993年、平凡社、ISBN 4582131050
  • 小葉田淳「金銀島探検」(『国史大辞典 第4巻』1984年、吉川弘文館、ISBN 4642005048