マリー=ピエール・ケーニグ

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フランス元帥
マリー=ピエール・ケーニグ
軍団将軍(中将)時代のケーニグ(1944年)
国防大臣英語版
任期
1954年6月19日 – 1954年8月14日
首相ピエール・マンデス=フランス
前任者ルネ・プレヴァン
後任者エマニュエル・タンプルフランス語版
任期
1955年2月23日 – 1955年10月6日
首相エドガール・フォール
前任者モーリス・ブルジェ=モーヌリ英語版
後任者ピエール・ビヨット
国民議会議員(バ=ラン県選出)
任期
1951年7月5日 – 1958年12月5日
個人情報
生誕 (1898-10-10) 1898年10月10日
フランスの旗 フランス共和国
カルヴァドス県カーン
死没1970年9月2日(1970-09-02)(71歳)
フランスの旗 フランス
オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ
墓地モンマルトル墓地
国籍フランス
政党フランス人民連合(1951年–1955年)
社会共和派英語版(1956年–1958年)
配偶者マリー・クライン
エルネスティーヌ・ ミュタン
アンリ・ジョゼフ・ケーニグ
出身校リセ・マレーブ英語版
兵役経験
渾名ミュタン
所属国フランスの旗 フランス第三共和政
自由フランス
フランスの旗 フランス第四共和政
所属組織フランス陸軍
軍歴1917年–1951年
最終階級軍将軍(大将)
部隊
指揮第1自由フランス師団フランス語版
フランス国内軍(FFI)
戦闘
受賞フランス元帥

マリー=ピエール・フランソワ・ケーニグフランス語: Marie-Pierre François Kœnig1898年10月10日 - 1970年9月2日)は、フランス軍人。最終階級は軍将軍(陸軍大将)。第二次世界大戦では、自由フランス軍を指揮してビル・ハケイムなどで戦った。戦後は政治家として活動し、国防大臣を2度務めた。1984年フランス元帥称号を追贈されている。

経歴[編集]

前半生[編集]

マリー=ピエール・ケーニグは1898年10月10日に、フランスカルヴァドス県カーンで生まれた。父アンリ・ジョゼフ・ケーニグと母エルネスティーヌ・ ミュタンは共にアルザス地域圏の出身である。

エコール・サン・ジョゼフを卒業した後、カーンの中等教育機関であるリセ・マレーブフランス語版に進学した。その後は、カトリック系のフランスパトロナージュ体操スポーツ連盟フランス語版に加盟している小教区フランス語版で、カーンに本拠地を置くアヴァン=ギャルド・キャネーズフランス語版に所属し、スポーツに打ち込んでいた。

第一次世界大戦が勃発すると、ケーニグは兵役に就くことを希望していた。しかし、このとき彼はまだ16歳であったため、先にバカロレアを取得し、3年後の1917年フランス陸軍に入隊して大戦へ参戦した[1]第36歩兵連隊フランス語版に配属された彼は、イスーダンの士官学校修了後の1918年2月、見習士官に昇進して前線の部隊と合流した。第四次イーペル会戦英語版やオワーズ攻勢などに参戦した功績から軍事記章英語版を受章し、同年9月3日には少尉へ昇進した[1]

戦後、第15アルペン猟兵大隊フランス語版に配属された彼は、1919年から1922年までシレジアに駐留した。このとき、アドリアン・アンリフランス語版大尉の副官を拝命している。その後1929年まではドイツ占領軍の情報将校として、第40フランス語版第43歩兵師団フランス語版の司令部で勤務した[1]

パリ第15歩兵連隊フランス語版に短期滞在した後、第4外人連隊の中隊長としてモロッコに渡り、モロッコの制圧英語版に加担した。モロッコ平定後は、ジョルジュ・カトルーフランス語版将軍の参謀として引き続きモロッコに駐留した[1]

第二次世界大戦[編集]

左からオマール・ブラッドレードワイト・D・アイゼンハワー、マリー=ピエール・ケーニグ、アーサー・テッダー英語版(1944年、パリ)

第二次世界大戦が勃発すると、最初の数ヶ月間を第2モロッコ狙撃兵連隊フランス語版で過ごし、1940年2月に北アフリカを離れた。シルヴェストル=ジェラール・オデフランス語版師団将軍麾下のフランス・スカンディナヴィア遠征軍団フランス語版の参謀として、ノルウェーナムソスなどを転戦した彼は、同年6月16日ブルターニュへ帰還した[1]。なお、このときの功績により、1942年ノルウェー剣付戦争十字章英語版を受章している。フランス帰国後、ケーニグは第13外人准旅団ラウル・マグラン=ヴェルナリー英語版中佐の副官に就任した。しかし、フランスの敗北を悟った彼は、6月19日、准旅団の将校とともにサン=ジャキュ=ド=ラ=メール英語版からイギリスに脱出した。

6月21日にイギリスに到着したケーニグはロンドンへ移動し、シャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランスに加わった。7月1日に大隊長へ昇進し、ダカールへの上陸作戦であるメネス作戦に参加した。ダカール沖海戦での敗戦後、ガボンの戦いでは奮戦し、ガボンフランス語版および赤道アフリカからヴィシー・フランスを追い出すことに成功した。12月にはカメルーンの駐留フランス軍司令官に就任し、中佐に昇進したが、病気を患ったためしばらくカイロの病院に入院している[1]1941年1月に大佐へ昇進した彼は、スーダンおよびパレスチナに展開するポール・ルージャンティオムフランス語版師団将軍麾下の第1自由フランス師団フランス語版の参謀となり、シリア・レバノン戦役に参戦した。7月、旅団将軍に昇進した彼は、第1自由フランス師団を率いてハルファヤ英語版メキリ英語版ビル・ハケイム英語版などで激闘を繰り広げた。とりわけ、1942年5月から6月にかけてのビル・ハケイムの戦いは、ケーニグの名声を高めるきっかけとなった戦いである。エルヴィン・ロンメル上級大将率いるドイツイタリア両軍の5個師団(約37,000名)に対して、圧倒的に劣るケーニグの師団(約3,700名)だったが、アレクサンドリアで再編成を図るイギリス第8軍英語版の時間を稼ぐため、枢軸国の攻撃を16日間耐え抜いた。この活躍を受け、ド・ゴールはケーニグに対して以下のように語っている。「君の部隊に伝えてくれ。フランス中が君たちに注目している。君たちはフランスの誇りだ。」[2]

1942年10月にはエル・アラメインの戦いに、1943年4月にはエドガー・ド・ラルミナ師団将軍のもとチュニジア戦線英語版に参戦した。その後、師団将軍へ昇進して第1自由フランス師団の師団長に就任した。1944年3月、フランス国民解放委員会フランス語版およびフランス共和国臨時政府の代表として、ドワイト・D・アイゼンハワー大将が指揮する連合国遠征軍最高司令部に加わった。ド・ゴールの軍事顧問を務める傍ら、ノルマンディー上陸作戦では自由フランス軍の指揮を執り、6月にはフランス国内のレジスタンス勢力英語版をド・ゴールの指揮下に置くために、フランス国内軍(FFI)を組織した。FFIはアメリカ第7軍フランス第1軍英語版によるプロヴァンスへの上陸作戦を支援した。6月28日に軍団将軍へ昇進し、パリ解放後の8月25日には、ド・ゴールによりパリ軍事総督に任命されている。1945年、ヴィシー・フランスのフィリップ・ペタンを逮捕するため亡命先のドイツへ派遣されたが、ペタンはスイスを経由してフランスに帰国し、降伏した[3]

戦後[編集]

1945年から1949年までドイツ駐留フランス軍フランス語版の司令官を務め、1946年5月20日に軍将軍へ昇進した。1949年8月に駐留軍司令官を退官して北アフリカのフランス軍総監に、1950年には陸軍高等会議フランス語版副議長に就任した。

1951年に退役すると、バ=ラン県より右派政党フランス人民連合から出馬し、国民議会議員に選出された。2期7年の任期中、ピエール・マンデス=フランス1954年)およびエドガール・フォール1955年)のもとで国防大臣英語版を務めた[1]

彼は、フランス=イスラエル委員会フランス語版の会長を務めるなど、親イスラエルとして知られていた。とりわけ、国防大臣在任中には、新興国家であるイスラエルシモン・ペレスに対して「フランスは、イスラエルが購入を希望する小火器から戦車(最新の軽戦車AMX-13など)まで、あらゆる兵器を販売する用意がある」旨伝えるなど、この国を強く支持していた[1]。ケーニグがイスラエルに入れ込むようになったのは、ビル=ハケイムにおいて、パレスチナ系ユダヤ人の地雷処理員の勇姿を目撃したからだとされる。その後、彼はイギリスの規定に反し、彼らユダヤ人にダビデの星が描かれた旗の掲揚を許可している[4]

1970年9月2日オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌで死去。遺体はモンマルトル墓地に埋葬された[1]

顕彰[編集]

昇進履歴[編集]

フランス軍
見習士官
Aspirant
少尉
Sous-lieutenant
中尉
Lieutenant
大尉
Capitaine
大隊長(少佐)
Chef de bataillon
中佐
Lieutenant-colonel
1918年2月[1] 1918年9月3日[1] 1920年[1] 不明 1940年7月1日[1] 1940年12月[1]
大佐
Colonel
旅団将軍(准将)
Général de brigade
師団将軍(少将)
Général de division
軍団将軍(中将)[注釈 1]
Général de corps d'armée
軍将軍(大将)[注釈 1]
Général d'armée
フランス元帥[注釈 2]
Maréchal de France
1941年1月[1] 1941年7月[1] 1943年[1] 1944年6月28日[1] 1946年5月20日[1] 1984年6月6日[10]
追贈

叙勲[編集]

国家勲章[編集]

略綬 [1]
名誉軍団国家勲章グランクロワ
解放国家勲章英語版コンパニョン

省庁勲章[編集]

略綬 [1]
農事功労章英語版コマンドゥール

その他の記章類[編集]

略綬 [1]
軍事記章英語版
1914年-1918年従軍十字章英語版(2回)
1939年-1945年従軍十字章英語版(4回)
海外作戦戦域従軍十字章英語版(3回)
薔薇付きレジスタンス記章英語版
モロッコサハラリビアビル・ハケイムチュニジア1943年飾板付き植民地記章英語版
戦闘員十字章英語版
航空記章英語版
亡命者記章英語版
1914年-1918年連合国勝利記章英語版
1914年-1918年従軍記念記章英語版
1939年-1945年従軍記念記章英語版
自由フランスにおける志願兵役記念記章英語版
フランス感謝記章英語版

外国の勲章類[編集]

略綬 [1]
バス勲章コンパニオン イギリスの旗 イギリス
殊功勲章 イギリスの旗 イギリス
レジオン・オブ・メリット勲章コマンダー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
議会名誉黄金勲章 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
1等スヴォーロフ勲章 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ヤシの葉付王冠勲章英語版グランド・クロス ベルギーの旗 ベルギー
レオポルド勲章英語版グランド・オフィサー ベルギーの旗 ベルギー
ヤシの葉付戦争十字章英語版 ベルギーの旗 ベルギー
オラニエ=ナッサウ勲章英語版グランド・クロス オランダの旗 オランダ
ルクセンブルク戦争十字章英語版 ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
柏葉冠勲章英語版グランド・クロス ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
ダンネブロ勲章グランド・クロス  デンマーク
聖オーラヴ勲章グランド・クロス  ノルウェー
剣付戦争十字章英語版  ノルウェー
ヴィルッチ・ミリタリ勲章英語版コマンダーズ・クロス[11] ポーランドの旗 ポーランド
薔薇付レジスタンス記章 ポーランドの旗 ポーランド
1939年-1945年チェコスロバキア戦争十字章英語版 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
白獅子勲章英語版 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
ゲオルギオス1世勲章英語版グランド・クロス ギリシャの旗 ギリシャ
聖シャルル勲章英語版グランド・クロス モナコの旗 モナコ
マルタ騎士団グランド・クロス マルタの旗 マルタ
シャリーフ戦功勲章英語版 モロッコの旗 モロッコ
アラウィー朝勲章英語版グランド・コルドン モロッコの旗 モロッコ
栄光勲章英語版グランド・コルドン チュニジアの旗 チュニジア
アンジュアンの星勲章英語版グランド・オフィサー コモロの旗 コモロ連合
白象勲章グランド・クロス タイ王国の旗 タイ

注釈[編集]

  1. ^ a b Not a rank, but a position and style
  2. ^ Not a rank, but a dignity in the state

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w National Order of Liberation. “Pierre KOENIG”. ordredelaliberation.fr. 2019年7月19日閲覧。
  2. ^ Koenig : l’homme de Bir Hakeim”. フランス軍事省 (2012年6月1日). 2021年8月11日閲覧。
  3. ^ FRANCE: Toward Twilight”. TIME.com (1945年5月7日). 2009年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月29日閲覧。
  4. ^ Jerry Klinger (President of the Jewish American Society for Historic Preservation). "General Marie-Pierre Koenig and the Jewish Brigade: The First Salute". The Jewish Magazine, October–November 2009
  5. ^ https://www.lyon-france.com/Je-decouvre-Lyon/sites-et-monuments/Sites-et-monuments-remarquables/Pont-du-General-Koenig
  6. ^ Plan de Caen, La Poste, 1977.
  7. ^ Site de la promotion Général-Kœnig
  8. ^ iTravelJerusalem – Hadar Mall”. iTravelJerusalem. 2016年3月29日閲覧。
  9. ^ מפות Google”. 2016年3月29日閲覧。
  10. ^ Governement of the French Republic (1984年6月6日). “Décret du 6 juin 1984 LA DIGNITE DE MARECHAL DE FRANCE EST CONFEREE A TITRE POSTHUME AU GENERAL D'ARMEE KOENIG MARIE,JOSEPH,PIERRE,FRANCOIS”. legifrance.gouv.fr. 2019年7月19日閲覧。
  11. ^ 16 July 1946 Monitor Polski 1947 no. 27 pos. 188

外部リンク[編集]