マリー・ドレスラー

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マリー・ドレスラー
Marie Dressler
Marie Dressler
本名 Leila Marie Koerber
生年月日 (1868-11-09) 1868年11月9日
没年月日 (1934-07-28) 1934年7月28日(65歳没)
出生地 カナダの旗 カナダオンタリオ州コーバーグ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタバーバラ
国籍 カナダの旗 カナダ(英国臣民)
アメリカ合衆国
身長 170 cm
職業 俳優
ジャンル 舞台、映画
活動期間 1892年 – 1934年
配偶者 George Hoeppert (1899–1906)
James Henry Dalton[1] (1908–1921) ※死別
 
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1930年惨劇の波止場
その他の賞
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マリー・ドレスラー(Marie Dressler, 1868年11月9日 - 1934年7月28日)は、カナダ出身の女優。世界恐慌の時期に60歳を過ぎてスターとなった遅咲きの女優。1930年の『惨劇の波止場』で第4回アカデミー賞主演女優賞を受賞するなど、1930年代前半に活躍するが、人気絶頂の1934年で亡くなった。

死後四半世紀が過ぎた1960年に、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前が刻まれた。

略歴[編集]

1868年[2]カナダオンタリオ州コーバーグに生まれる。父はオーストリア人ドイツ系)。14歳で家を出てコーラスガールになり、キャリアをスタートさせる。

1892年ブロードウェイデビュー。その後、ヴォードヴィリアンとしても活動し、1900年代初頭にはヴォードヴィルのスターとなる。

1910年に主演舞台『Tillie's Nightmare』がヒット。旧知の仲だった映画監督マック・セネットが同作を『醜女の深情け(原題:Tillie's Punctured Romance)』(1914年)として映画化する際に彼女を主演に起用。これが彼女にとっての映画デビュー作となる。なお、同作はハリウッド初の長編コメディ映画であり、共演のチャールズ・チャップリンにとっては自らが監督しない最後の作品となる。

その後、同じ役柄による続編的な作品『Tillie's Tomato Surprise』(1915年)や『Tillie Wakes Up』(1917年)など何本かの映画に出演するが、キャリアが飛躍することはなく、1918年には仕事が来なくなる。仕方なくヴォードヴィルの仕事に戻るが、1919年ニューヨークで起きたコーラスガールらによるストライキの代表者に選ばれ、積極的に活動したことからブラックリストに載り、1920年代はニューヨークで仕事をすることが難しくなる。

彼女の窮状を知ったMGMの脚本家フランシス・マリオンは、自ら脚本を担当した『The Callahans and the Murphys』(1927年)の主演にドレスラーを起用する。彼女の可能性に気付いたMGMの大プロデューサー、アーヴィング・タルバーグは、彼女をスターとして再生させることを決める。その結果、徐々に人気が出始める。

彼女をスターとして復活させたのはトーキーである。1930年にマリオンが脚本を担当し、グレタ・ガルボ初のトーキー作品となった『アンナ・クリスティ』での演技が高く評価され、同年の『惨劇の波止場』では第4回アカデミー賞主演女優賞を受賞する。更に1932年の『愛に叛く者』で第5回アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされる。

1930年から1933年にかけて、主演を含め、様々な映画に出演する他、1933年8月には「タイム」誌の表紙を飾り、同年にMGMが開いた大規模な誕生日パーティがラジオで生中継されるなど、ハリウッドを代表するスターとして人気を集める。

1934年で死去。

主な出演作品[編集]

日本での紹介文献[編集][編集]

脚注[編集]

  1. ^ 正式な結婚ではなかったとも言われている。「en:Marie Dressler#Personal life」参照。
  2. ^ 1863年1869年1871年とする資料もある。Marie Dressler - Biography” (英語). IMDb. 2011年10月14日閲覧。

外部リンク[編集]