マリアーノ・エスコベド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マリアーノ・アントニオ・グアダルーペ・エスコベド・デ・ラ・ペーニャスペイン語: Mariano Antonio Guadalupe Escobedo de la Peña, 1826年1月16日 - 1902年5月2日)は、メキシコ軍人ヌエボ・レオン州知事

生い立ち[編集]

マリアーノ・エスコベドは1826年1月16日にヌエボ・レオン州のSan Pablo de los Labradores(いまのガレアナ), で生まれた。 彼はマヌエル・エスコベド、リタ・デ・ラ・ペーニャ夫妻の間に生まれた6人の子どもの末子であった。

軍歴[編集]

1854年に、彼は、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ独裁政権を終わらせようとするアユトラ綱領自由主義法を守った。

フランスメキシコ出兵では、彼は1862年5月5日のプエブラの戦いに従軍し、その活躍が評価され、騎兵隊の大佐に昇進した。 のちに、彼は将軍に昇進し、フランス軍と戦う軍隊を組織し、彼らを破り、1867年にはケレタロメキシコ皇帝マクシミリアンを捕えている。

ベニート・フアレス政権下では、マリアーノ・エスコベドは北部方面の最高司令官に指名され、メキシコ共和国の復帰後の1875年には彼はいくつかの州の知事と軍事長官であった。 加えて、軍事裁判の最高裁判所の長官を務めていた。

ポルフィリオ・ディアス大統領の地位に就いたことによって、彼はアメリカ合衆国亡命を余儀なくされた。そこから、彼は独裁者に対する反乱軍を組織した。そのために1878年に彼は投獄され、1902年5月22日にメキシコで死んだ。

記念[編集]

マリアーノ・エスコベドの名はメキシコ各地の地名などに命名されている。

など。

参照[編集]