マラムレシュ

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1910年のマラムレシュ

マラムレシュルーマニア語: Maramureșウクライナ語: Мармарощинаハンガリー語: Máramaros)は、東ヨーロッパの歴史的地域で、現在はウクライナ西部のザカルパッチャ州ルーマニア北西部のマラムレシュ県にまたがる。カルパティア山脈の山々に囲まれた、ティサ川の上流域の盆地に位置する。北方のルーシ人(ウクライナ人)や西方のハンガリー王国から影響を受けつつも、その隔絶した環境から独自の文化が保たれてきた。豊富な森林資源を利用した木造建築が特徴的であり、いくつかの木造教会はユネスコの世界遺産に登録されている。民族構成としては一貫してルーシ人やルーマニア人が優勢であるが、1918年まではハンガリー領であった。

語源[編集]

ムレシュ川はマラ川と同じくティサ川の水系であるが、マラ川の流域はムレシュ川よりずっと北にある(図中「Theiß」と「Pietros」の間)。

マラムレシュという地名の由来については、少なくとも10の説が提唱されてきたが、いずれも同意を得ない[1]

有力なのは、マラルーマニア語版(Mara)とムレシュ(Mureș)という二つの主要河川を由来とする説である。しかし、この説に対しては長年、様々な歴史家が異論を唱えている。というのも、両河川はあまりにも離れすぎているのである[1]

もう一つの説は、Mara + murus(マラ川の壁)というものである。この説によれば、南から来た人々が「マラ川(Mara)が横切り、石(munti)の壁(murus)に囲まれた要塞のような土地」すなわちマラムルスと名付けたことになる。20世紀後半、ベルベシュティルーマニア語版サプンツァルーマニア語版では「家の土台」や「家の下の壁」をMurと呼んでいた[1]

Mihaly de Apșaが提唱した説によると、MarmurăまたはMarmure(大理石)→ mar(a)mureという語に基づく。ルーマニア語の語彙であるarma(武器)からaramă(真鍮)が派生したのと同じパターンだという。この説は、ボルシャサチェルルーマニア語版レペデアルーマニア語版などマラムレシュ各地に大理石の採石場があったことを根拠としている[1]

さらに興味深いことに、ハンガリー人がハンガリー語のmar ma rossz(今日は悪い)から、ユダヤ人がヘブライ語のmarmaraiș(形容詞mar-amarの最上級)から、それぞれマラムレシュの語源を導き出そうとしている[1]

地理[編集]

白ティサ川と黒ティサ川の合流地点(ザカルパッチャ州ラーヒウウクライナ語版近郊)
ボルシャから見たロドナ山地のピエトロス山

マラムレシュ地方はカルパティア山脈における最大級の盆地の一つである。東カルパティア山脈ルーマニア語版の北部を構成するオアシュ山地、グトゥイ山地、ツィブレシュ山地、ロドナ山地ルーマニア語版、マラムレシュ山地、森林カルパティアに囲まれており、面積は約10,000 km2に及ぶ。ティサ川の上流部にあるピップ・イヴァンウクライナ語版[注 1](標高1,937 m)という尾根を境に、北部はウクライナ、南部はルーマニアに属する。

河川[編集]

マラムレシュの南部にはティサ川の主要な支流がある。ヴィシェウ川ルーマニア語版ロニショアラ川ルーマニア語版イザ川ルーマニア語版コサウ川ルーマニア語版、マラ川、サプンツァ川ルーマニア語版である。北からは白ティサ川が黒ティサ川に合流してティサ川となり、コサウツ川、サプルチェア川、アプシツァ川、タラス川、タラブルジャバ川、ブルジャバ川ルーマニア語版が流れ込む。

山岳[編集]

マラムレシュ周辺の山々は、ロドナ山地のピエトロス山ルーマニア語版(2,303 m)、チョルノホーラ(黒山)山地ウクライナ語版ホヴェールラ山(2,061 m)など標高が2,000 mを超える。この付近の緯度(北緯48度)では、標高1,500 m以上になると植生が高山性になる。マラムレシュの面積の半分以上を占める山岳部には、ナラブナトウヒの森が広がっている。森林資源の豊富さは、その木材が家屋や教会といった伝統的建築物、門や家庭用の道具など、どこにでも使われていることに表れている。

隣接地域と繋がる主要な峠は標高が高く、以前はアクセスが困難であった。モルダヴィアへはプリスロップ峠ルーマニア語版(標高1,414 m)、ナサウドへはシェトレフ峠ルーマニア語版(817 m)、ラプシュルーマニア語版及びカヴニクルーマニア語版へはネテダ峠ルーマニア語版(1,072 m)やカヴニク峠ルーマニア語版(1,080 m)、バヤ・マレへはピンテア峠(987 m)[注 2]オアシュルーマニア語版へはフタ峠ルーマニア語版(587 m)、北方のイヴァーノ=フランキーウシク州へはヤブルニツキー峠ウクライナ語版(931 m)を通って出る。フーストウクライナ語版からティサ峡谷を経由して出るルートは、峡谷の入り口を見下ろす丘に建つフースト城ウクライナ語版によってよく守られていた。

1948年から49年にかけて、マラムレシュとトランシルヴァニア地方を結ぶサルヴァ=ヴィシェウ鉄道ルーマニア語版が敷設された。これは第二次世界大戦後、マラムレシュ北部がチェコスロバキア領となったことでティサ峡谷経由で連絡できなくなったためである。この鉄道の総延長は63 kmで、八つの高架橋と五つのトンネルがある。そのうちシェトレフ峠の直下にあるトンネルは延長2,388 mである。

このように、マラムレシュ地方は地理的に孤立しているため、何百年もの間にわたり防衛とコミュニティの保存において有利に働き、今日に至るまで伝統的な生活様式が維持されてきた。

自然[編集]

シャモア(ルーマニア・カルパティア山脈)
オクナ・シュガタグは、古代から岩塩鉱山で有名であった[2]
ルーマニア・カヴニク産の菱マンガン鉱(MnCo3)を主成分とする「鉱山の花」。菱マンガン鉱は1813年、ドイツの鉱物学者フリードリヒ・ハウスマンドイツ語版によって「ロードクロサイト」と命名された[3]

マラムレシュの森は昔から野生生物の宝庫であり、シカ、クマ、オオカミ、キツネ、イノシシ、テンなど、そして絶滅危惧種のオオヤマネコシャモアアルプスマーモットヨーロッパオオライチョウイヌワシクロライチョウが生息する。このような種の豊富さにより、1229年に書かれたマラムレシュで最初の文書で「王家の狩猟場」と表現された。この目的のためにいくつかの地域が保全され、オクナ・シュガタグルーマニア語版の「キリストの森」のような呼称が今日まで残っている。ドラゴシュによる狩猟もこれに関連しており、伝説によれば彼はモルダヴィアに到達したとされる。

ルーマニア最後のヨーロッパバイソンは、1852年にマラムレシュで狩猟された。シャモアは第一次世界大戦後の密猟により、おそらく1924年にマラムレシュから姿を消していたが、1962年から67年にかけてロドナ山地において再導入され、予想外に繁殖した。マーモットは、1973年に生息地が与えられ、良い結果が得られた。マラムレシュの川にはサケ科の希少種であるドナウイトウが今でも生息している。

珍しい植物としては、ヨーロッパイチイカラマツスイスマツドイツ語版セイヨウウスユキソウ(いわゆるエーデルワイス)、コバンユリ英語版などが挙げられる。

1930年、ロドナ山地国立公園ルーマニア語版が設立された。当初は自然保護区であったが、1979年からは生物圏保護区となり面積が46,399 haになった。2004年にはマラムレシュ山地国立公園ルーマニア語版が設立された。その面積は約15万haに及び、ルーマニアではドナウ・デルタに次ぐ広さをもつ保護区である。

山間部には洞窟、渓谷、湖、地層などがあり、そのいくつかは保護されている。最もよく知られているのは、グトゥイ山地のタタル峡谷ルーマニア語版とココシュ尾根、そしてロドナ山地にある「イザの青い泉の洞窟ルーマニア語版」である。グトゥイ山地のタウル・ルイ・ドゥミトル湖ルーマニア語版モラレニロル湖ルーマニア語版も自然保護区である。

非鉄金属が豊富に埋蔵されていることから、特に火山のある山間部において活発な採掘が行われている。また「鉱山の花ルーマニア語版[注 3]」による地下の美しさも注目されている。

歴史[編集]

9世紀から13世紀にかけての、ルーマニア地域の政治体制[5]。マラムレシュは画像上方の「ȚARA MARAMUREȘULUI」に相当する。
サプンツァ=ペリ修道院の木造教会。高さ78 mは木造教会として世界一高い[6]
ミハイ武勇公の支配領域(1600年)

古代[編集]

考古学的な発掘により、マラムレシュの盆地には先史時代から人が住んでいたと証明されている。後期旧石器時代と新石器時代の信頼できる痕跡が、オアシュやグトゥイ山地南部で発見された。新石器時代の遺跡は、シゲトゥ・マルマツィエイクンプルング・ラ・ティサルーマニア語版、そしてロザヴリャルーマニア語版ストルムトゥラルーマニア語版間のイザ川左岸でも見つかっている。

紀元前2000年頃、インド・ヨーロッパ民族が侵入した。青銅器時代の堆積物がサプンツァ、サラサウルーマニア語版、シゲトゥ、ティサルーマニア語版カリネシュティ=オアシュルーマニア語版シェウルーマニア語版、ロザヴリャ、イェウドルーマニア語版ボグダン・ヴォダルーマニア語版サリシュテルーマニア語版およびモイセイルーマニア語版にて見つかった。

ローマ帝国ダキア属州時代にはシゲトゥ、オンチェシュティルーマニア語版ソロートヴィノウクライナ語版、カリネシュティ=オアシュに要塞があった。ギリシアやロ-マ起源のコイン、容器、オブジェが発見されており、地中海文明、特にダキアとの商業的・文化的なつながりが証明されている。マラムレシュはローマに征服されてはいないものの、現地の民族はローマ文明の影響を受けた。マラムレシュは周囲から隔絶していたため、民族移動時代に現地人に影響を与えたのはスラヴ人だけであった。

中世[編集]

マラムレシュの名は、ハンガリー王国がトランシルヴァニアに進出した1199年に初めて記録された。当時はマラムレシュハンガリー語版だけでなく西方の3県(ウングハンガリー語版ベレグハンガリー語版ウゴサハンガリー語版)にもルーマニア人が住んでいた。それら3県については、ハンガリー王がルーマニア人に対し領主を選ぶ権利とワラキアの法に基づいて裁かれる権利を保障した。この権利に関する文書は1383年まで残されている。

11世紀、マラムレシュのヴォイヴォダは地元の領主に支配され、谷間の領地を保有していた。14世紀以降、西欧型の封建制を確立しようとする歴代ハンガリー王の圧力は、地元領主を貴族化することによって強められていった。ある者は変化を受け入れて封建社会に溶け込んだが、またある者は抵抗し山を越えてポーランド王国へ行き、そこで武勲を立てて貴族の地位を獲得した。他のある者はラプシュへ行き、新天地にて今日まで残る村を建設した。さらにある者は東カルパティア山脈を越えてモルダヴィア公国を成立させた。

ルーマニアの歴史家アレクサンドル・ゴンツァルーマニア語版は、1334年から1365年にかけての以下の出来事を詳しく説明している[7]

  • 1334年、タタール人がトランシルヴァニアに侵攻し、これに対しベデウのドラグとドラゴシュの兄弟と、彼らの親戚であるペトロヴァのミハイル・ボグダンが戦闘で活躍した。
  • 1342年、クヘア(ボグダン・ヴォダ)のボグダンがシレト - ドニエストル間のモルダヴィアに避難し、ハンガリー王から反逆の嫌疑をかけられた。
  • 1345年、ハンガリー王がマラムレシュ人とともにタタール人に対する軍事行動を起こし、マラムレシュ人は王から報酬を得た。
  • 1352年、ハンガリー軍がベルズを包囲した。マラムレシュも参加し、ドラゴミルの息子でスブカルパツィルーマニア語版地方のヴォイヴォダであるサスの娘タトミルが戦死した。同年、ドラゴシュはスブカルパツィ・モルダヴィアの総督となった。
  • 1355年、ハンガリー王の遠征軍がドニエストル川に到達した。ドラゴシュの弟ドラグは軍事作戦の中でひと際目立っていた。
  • 1361年、ブド、サンドル、ヨアン、ドラゴミル、バレアはハンガリー国王からマラムレシュのオゾン公位を譲り受けた。
  • 1365年、モルダヴィアの独立と引き換えに、クヘアにあったボグダンの領地は没収された。彼はイェウド、バチコヴ、ヴィシェウ、ボルシャ、モイセイ、セリシュテの村を失い、それらはバルクとドラグに譲渡された。

モルダヴィアの建国は2段階で行われたが、その中でもマラムレシュの歴史における二人の最重要人物が際立つ。一人はドラゴシュであり、彼はラヨシュ1世の率いる遠征でタタール人に勝利した後、1351年に防衛目的でハンガリーの属領を設立するために派遣された(国境の印)。もう一人はボグダンであり、マラムレシュにハンガリー式の封建制度が導入されることに何年も反対していた彼は1359年、兵を率いて山を越え、ドラゴシュの相続人であるバルクを追い出し、ハンガリーに対してモルダヴィアのヴォイヴォダの独立を認めさせた。

これらの出来事は、マラムレシュとハンガリー隣接地域の両方で称号と領地を得たドラゴシュの子孫の台頭による、伝統的なヴォイヴォダや公国からなる組織から封建的組織への移行を示す。彼らは現地の称号と西ヨーロッパの称号を統合した。バルクは30年にわたり伯爵兼マラムレシュのヴォイヴォダであり、やがて県へと移行した。

ドラゴシュの息子たちはマラムレシュの宗教的自立を求めた。そのため、1381年の夏、バルクとドラグは自らコンスタンティノープルへ赴き、総主教庁に対し、自ら設立したペリ修道院ルーマニア語版に司教とほぼ同等の権利を持つσταυροπήγιον(Stauropegion)の称号を与えさせた。この教区の範囲は二人の所領を超え、ベレグ、サトマルサラジュチチェウルーマニア語版ビストリツァにまで及んだ。

1397年、ポジーリャの王権を持つテオドラス・カリヨタイティスリトアニア大公国ヴィータウタスに敗れてハンガリーに逃れた。カリヨタイティスはムカチェヴォウクライナ語版の領地を与えられた。彼は数千ものルーシ人を山の向こうから連れてきた。最初はベレグへ、その後は貴族の領地の労働者としてマラムレシュにも連れてきた。穏やかで勤勉な彼らは王族にも気に入られ、マラムレシュのいくつかの地域ではルーシ人が多数派になった。

ハンガリー王マーチャーシュ1世はマラムレシュの貴族と密接な関係を保ち、その中から優秀な兵士を選抜し、彼らは近衛兵としても活躍した。マーチャーシュは多くのマラムレシュ人に「自由男爵」の称号を与えた。この爵位はハンガリー王にのみ忠誠を誓うことを課したが、爵位の叙任はまれであった。マーチャーシュはペリ修道院を保護し、1467年にはバナト出身のキニジ・パールハンガリー語版をマーラマロシュ県のイシュパーンハンガリー語版(知事)に任命した。王室衛兵に所属するマラムレシュ人は、バヤの戦いルーマニア語版[注 4]の後、負傷した王をブラショヴに逃がした。この戦いの後、モルダヴィアのシュテファン3世(大公)はマラムレシュに懲罰的な侵攻を行い、強固な要塞であるフーストを含む王室ゆかりの都市を攻撃した。

1526年にオスマン帝国モハーチの戦いでハンガリーに勝利すると、1538年にはマラムレシュがトランシルヴァニアに統合された(ナジヴァーラド条約)。

1599年、3公国(ワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィア)がミハイ武勇公ルーマニア語版の下で、ごく短期間ではあるが「連合」[注 5]され、マラムレシュも彼の支配下に入った。

近代[編集]

バヤ・マレの「肉屋の要塞」
アルバ・ユリア国民議会は、トランシルヴァニア、バナト、クリシャナ、マラムレシュのルーマニアへの統合を宣言した。
現在のマラムレシュ県を構成する四つの歴史的・民族的地域

ハプスブルク家の支配下で導入された新たな財政上・軍事上の負担により、農民の生活は過酷なものになっていった。ファガラシュルーマニア語版アプセニルーマニア語版、マラムレシュの各山岳地帯ではハイドゥクが出現した。マラムレシュにおけるハイドゥクの最も著名な指導者は、ラプシュ出身のルーマニア人貴族の息子であるグリゴーレ・ピンテアルーマニア語版(1670 - 1703)である。彼はオーストリアの貴族や政府に反抗し、長年にわたり庶民を支援するために行動した。彼はオーストリアに対する独立戦争を指導したトランシルヴァニア公ラーコーツィ・フェレンツ2世と合流し、レメテア・キオアルルイルーマニア語版の要塞を攻略した。ピンテアの軍勢は、1703年には皇帝の宝物庫があったバヤ・マレの要塞を包囲したが、待ち伏せされたピンテアは街の南門の前、肉屋の要塞ルーマニア語版[注 6]付近で射殺された。

1717年、タタール人の最後の侵攻があった。彼らはオーストリアに対抗するモルダヴィアと同盟していたが、古い習慣を捨てておらず、マラムレシュ通過の際に木造教会に火を放ち、略奪を行った。彼らはカヴニックにてオーストリア軍に阻止された。マラムレシュ人はストルムトゥラやプリスロップ峠で、撤退中のタタール人を捕らえた。少数のタタール人は戦利品を置いて命からがらモルダヴィアに逃げた。

20世紀[編集]

1918年12月1日のアルバ・ユリア宣言ルーマニア語版ではマラムレシュ全域をルーマニアに統合することが定められた。ところが、1919年のパリ講和会議に出席したルーマニア代表は、北部国境についてティサ川とすること(1916年に引かれた国境線を維持)を支持するにとどまり、結果としてマラムレシュ北部はチェコスロバキアに帰属することとなった。同年のハンガリー・ソビエト共和国によるスロバキア侵攻スロバキア語版を阻止するためにルーマニアがチェコスロバキアを支援した結果、チェコスロバキアの合意の下、ルーマニアによる統治が一時的にマラムレシュ全域で行われた。しかしこの合意が批准されることはなく、1920年には国境がティサに戻された。

マラムレシュ北部(6,873 km2)は1939年にハンガリーに割譲され(ウィーン裁定、ハンガリー・スロバキア戦争ハンガリー語版)、1944年にはソビエト連邦占領下のチェコスロバキアに、1946年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国に統合され、1991年以降はウクライナのザカルパッチャ州に属する。戦間期にマラムレシュ県となった南部(3,381 km2)は、1940年から44年までハンガリー領であり、その後ルーマニアに返還された。

歴史的マラムレシュに占めるルーマニア部分は約3分の1とあまりに小さく、地理的にも孤立していたため、1968年にいくつかの地域が編入され、今日の領域となっている。その地域は、伝統や住民の結びつきの面でマラムレシュに近く、かつてドラゴシュの子孫が支配していたラプシュ地方、キオアルルイ地方ルーマニア語版コドルルイ地方ルーマニア語版東部である。

1962年に完了した農業の集団化ルーマニア語版は、マラムレシュにおいてはその特殊な地形と気候のために普及しなかった。その一方、鉱業や加工産業あるいは林業によって、マラムレシュは経済的に発展した。また、地域の大きなポテンシャルを生かした観光業も発展を遂げている。ただし、1989年以降は工業、次いで製造業が衰退し、林業も環境問題により大きく縮小した。このような状況の下、マラムレシュの労働力は西欧諸国(特にイタリアスペイン)を志向している。

文化[編集]

RO B Village Museum Ieud household house.jpg
Detail - lap joint. House from Deseşti - Maramureş region. Baia Mare Ethnography and Folk Art Museum.tif
上:19世紀のマラムレシュの伝統家屋をルーマニア国立農村博物館(ルーマニア語版)に移築したもの。屋根は寄棟造である。中:釘を使わずに組み上げる校倉造。下:シンドリラと呼ばれる木の板を並べた屋根[9]。
:19世紀のマラムレシュの伝統家屋をルーマニア国立農村博物館ルーマニア語版に移築したもの。屋根は寄棟造である。:釘を使わずに組み上げる校倉造:シンドリラと呼ばれる木の板を並べた屋根[9]

マラムレシュの文化は、ルーマニアの民族学者Tancred Bănățeanuが「他の地域では見られない特殊な要素を持つ完全に独自の性質」と述べたように、その独創性と地域固有性で知られる[10]

独自の文化の根源は、住民の特別な性質と地理的孤立にある。カルパティア山脈北東部の湾曲部は立ち入り困難な山々に囲まれているためこの地で発達した木の文化に適しており、それで山脈北東部を「森林カルパティア」と呼ぶ。この地は常に国の端であり、山の向こうに住むのはスラヴ人であった。冬には大雪と野獣により、峠にたどり着くことができなかった。17世紀半ばのドイツの作家グリンメルスハウゼンの著書『阿呆物語』(Der abenteuerliche Simplicissimus)で有名な登場人物が語ったように、特に交易のための山越えは、悪党や野生動物を恐れて集団で行われた。「トランシルヴァニアへの旅は、ドイツでの馬車の旅のような少人数ではできないが、年に数回、大人数で、マラムレシュからの物資その他50台ほどの荷馬車とともに旅をすることができる[11]。」マラムレシュでの生活は、農業だけでは営んでいけない。18世紀の農業生産高では人口の3分の1を養うのが限度であった。有畜農業[注 7]、伐採、木工のほか、季節労働は必須であった。

マラムレシュの特別な社会的地位は地元のルーマニア貴族に率いられていたが、時が経つにつれて村の農民に溶け込み、義務や納税を免除された自由人階級を生み出した。彼らは生活、芸術、言語において自らの価値観を維持し、誇りを持つようになった。そうした地方貴族の従順さの下、宗教書のルーマニア諸言語として初めて、マラムレシュ語ルーマニア語版で行われた。マラムレシュでは古代の伝統が保たれ、今でも生き続けている。歌や踊り、民族衣装、食べ物、そして木製の住居、教会、門、それらを作る木工技術は、多くの国の民族学者にとって貴重な研究対象であり、この地を訪れる観光客の対象となっている。

マラムレシュ方言は、ルーマニア語に五つある方言の一つである。歴史的マラムレシュのマラ、コサウ、イザの谷沿いの村々で話される。ヴィシェウやアープシツァウクライナ語版の谷でも若干の差異はあれど話されている。

住民[編集]

ローマの属州ダキア(画像のDACIA)は、マラムレシュ(Napoca北方のDACIまたはCOSTOBOCI付近)のすぐ南までを支配していた。
シゲトゥ・マルマツィエイで生まれたノーベル平和賞受賞者、ユダヤ人エリ・ヴィーゼルの生家
シゲトゥ・マルマツィエイとソロートヴィノを結ぶ、ティサ川に架かる国境の橋

ダキア人のローマ化[編集]

古代、マラムレシュにはダキア人が住んでおり、住居の痕跡や要塞が残っている。陶器、金属、青銅器、後には鉄器の加工地が、ここや隣接地で発見された。スラティナにあるような塩鉱が古代から開発されていた。ローマ帝国の征服後、マラムレシュの近くまで広がっていたダキアは、この地のダキア人を次第にローマ化していった。

当時のマラムレシュは人口密度がそれほど高くなく、村はまばらで谷沿いに点在していた。人口が増加した時期には、限られた資源や厳しい自然環境、歴史的出来事により、モルダヴィア、トランシルヴァニア、サトマル、ポーランドなど、より好条件の隣接地域へ移動が行われ、一部はモラヴィアに達した。

ハンガリー、ルーシの影響[編集]

中世まで、マラムレシュの住民はローマ化したダキア人の子孫であるルーマニア人であった。村の組織は19世紀まで存続し、そこでは森林・水・牧草地が村の共有財産とされた。川沿いの低地である草地は、最初は特定の家族に一時的に割り当てられる土地であったが、この地域でそのような肥沃な土地は非常に少なかったため、やがて所有する家族の恒久財産となっていった。そしてそれは、社会的身分の分化とルーマニアの封建制が出現するきっかけとなった。

11世紀から14世紀のマラムレシュの人口は8,000 - 10,000人、人口密度は1人/km2と推定される。村ごとに10 - 25軒の住居があり、50 - 100人が住んでいた。1530年頃のマラムレシュ人口は33,570人と考えられている(計算上の村ごとの平均人口は336人)。その後、18世紀まで人口は停滞していたが、再び増加に転じ、20世紀には35万人に達した。村ごとに3,000 - 4,000人ほどが住んでいる。

13世紀以降、ティサ川沿いの肥沃な土地にハンガリー人やザクセン人が入植し、ヴィーシュコヴォウクライナ語版(1299年)、フースト(1329年)のような都市や要塞を建設した。ただ、これらの集落は孤立していたため、この地域のルーマニア人にはほとんど影響を与えなかった。

14世紀にはハンガリー王家の圧力により、マラムレシュは徐々に独立性を失った。何人かの実力者は、最初は称号を2倍にし、やがてこれらに代わる高貴な階級を受け入れた。他の指導者は、モルダヴィア、ポーランド、モラヴィアへの移住を選んだ。ポーランドにおいては、16世紀まで「ワラキア法」に基づく伝統的な組織を維持しながら土地と特権を得た。モラヴィアにおいても17世紀の三十年戦争まで自治権を保持した。

この頃から、マラムレシュの貴族は農民に統合され、免税の特権だけを維持するようになる。これは、ルーマニアの遺産分割の伝統に加え、この地域が地理的経済的に大規模な土地を好まなかったことによる。18世紀のオーストリア帝国の記録によると、マラムレシュには高々45,000人の人口に対して15,000人ものルーマニア人貴族がいて、人口比では帝国内で最も高かった。そのため、封建制度を古典的な形式で押し付けることができず、14世紀にはマラムレシュ西部にのみ農奴が存在し、王族のいる都市で外国人貴族が抱えていた。15世紀には農奴が現れるものの、農奴の明確な義務が記録されるのは17世紀以降である。その数は全人口の5分の1に満たず、クヘアでの例にみられるように、ほとんどは他地域から来た人々であった。

15世紀に入ると、ガリツィアでの迫害を逃れたルーシ人がマラムレシュに流入し始めた。最初はテオドラス・カリヨタイティスが連れてきたムカチェヴォで、後にマラムレシュの貴族が保有する土地の労働者として入ってきた。

16世紀には、マラムレシュにある100村のうち、84村がルーマニア人、7村がドイツ人またはハンガリー王族、5村がルーシ人であり、4村はデータがなかった。

二重帝国、多民族化[編集]

ハプスブルク帝国の成立後、増税や徴兵など厳しい時代が続いた。この時代はルーシ人が増加する一方、ルーマニア人の一部が奴隷化したため、ティサ右岸のいくつかの地域にはルーシ人が多く住むようになった。また、人口が大幅に増加し、土地がどんどん細かく分割されていった。1848年には農奴制が廃止されたものの、農奴から解放された人々や新たな移民により、土地はさらに細分化された。

ガリツィアから来たユダヤ人は、主に都市に住んでいたのが村にも住むようになり、交易において重要な役割を果たすようになった。例えばクヘアでは、1771年に15人だったのが、1900年には320人に達した。

帝国政府は鉱業を促進するため、伝統的な鉱山地域から経験豊富な労働者の移住を奨励した。それで、ポーランド人、スロバキア人、ドイツ人が鉱山の街へやって来た。彼らははじめ塩の鉱山で働いていたので「şugăi」と呼ばれた。

オーストリア=ハンガリー帝国の1910年の国勢調査によると、マラムレシュの総人口357,535人のうち、母語で分類すると、159,489人のルーシ人、84,510人のルーマニア語話者、59,552人のドイツ語話者、52,964人のハンガリー語話者がいた。ドイツ語やハンガリー語の話者の多くは、実際にはユダヤ人であった。

現代[編集]

現在、ルーマニア側に約34,000人のルーシ人が、ウクライナ側に約45,000人のルーマニア人が住んでいる。シゲト - ソロートヴィノ間の道路橋、あるいはクンプルング・ラ・ティサやヴァレア・ヴィシェウルイルーマニア語版の鉄道橋を介して、すべての人が同胞とつながることができるようになっている。

1989年以降、従来の各種産業が衰退する中で、観光業は地域の自然、伝統、歴史というポテンシャルの恩恵を受け、労働力の一部に長期的な選択肢を提供するはずであった。しかし、小規模なプライベート・ゲストハウスを除き、期待どおりにはならなかった。その理由は財源不足に加え、何より当局の政策に一貫性がないことにある。

関連項目[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ ザカルパッチャ州に二つある同名の山の一つ。
  2. ^ 以前は標高1,109 mのグトゥイ峠を通った。
  3. ^ 晶洞の内部に堆積し結晶化した鉱物の集合体。ルーマニアでは採掘と取引について規制の対象であり、化石と同等の法的取扱がなされる[4]
  4. ^ バヤルーマニア語版は、現在のルーマニア、スチャヴァ県に位置する都市で、戦争当時はモルダヴィア公国の中心都市であった。
  5. ^ ミハイは3公国を実質的に支配したが、実際には議会と軍隊がそれぞれ独立しており、彼がDomn英語版(公)の称号を名乗ったのはワラキアだけである。
  6. ^ バヤ・マレにおける最大のギルドが肉屋のギルドであったことから[8]
  7. ^ 耕種部門と養畜部門を適切に組み合わせることで農業経営全体の生産性を高めることを目的とした農業で、主に西欧で発達した農法[12]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e Carp Cosmin (2013年1月11日). “„Maramureș“ rămâne și acum o enigmă pentru istorici. Etimologia numelui încă necunoscută”. Adevarul Holding. 2021年8月12日閲覧。
  2. ^ Sarea gemă din extra- și intracarpaticul României
  3. ^ Rhodochrosite (英語), MinDat.org, 2021年8月4日閲覧
  4. ^ 官報339/1号 "Ordin nr.410/11 aprilie 2008 pentru aprobarea Procedurii de autorizare a activităților de recoltare, capturare și/sau achiziție și/sau comercializare, pe teritoriul național sau la export, a florilor de mină, a fosilelor de plante și fosilelor de animale vertebrate și nevertebrate, precum și a plantelor și animalelor din flora și, respectiv, fauna sălbatice și a importului acestora" Nuvola-inspired File Icons for MediaWiki-fileicon-doc.png (Microsoft Word.doc)” (ルーマニア語). Ministerul Mediului și Dezvoltării Durabile (2008年5月). 2010年11月26日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年9月1日閲覧。
  5. ^ Ovidiu Drimba, Istoria culturii și civilizației românești##, Editura Științifică și Pedagogică, București, 1987, vol. 2, pag. 404, hartă completată după Alexandru Filipașcu, Istoria Maramureșului, București 1940, 270 p., Dinu Giurescu, Istoria ilustrată a Românilor, ed. Sport-Turism, București 1981, pp. 72-121, Nicolae Iorga, Istoria românilor, Partea II, Vol. 2, Oameni ai pământului (până la anul 1000), București, 1936, 352 p. și Vol. 3, Ctitorii, București, 1937, 358 p., și Gheorghe Postică, Civilizația veche românească din Moldova, ed. Știința, Chișinău 1995.
  6. ^ Cea mai înaltă biserică de lemn din lume este în România, în Maramureș”. Angela Sabau, Adevărul (2016年9月27日). 2016年9月29日閲覧。
  7. ^ Alexandru Gonța, Românii și Hoarda de Aur, Editura Demiurg, Iași, 2010, p. 145-147
  8. ^ Bastionul Măcelarilor”. バヤ・マレ市. 2021年8月9日閲覧。
  9. ^ Vol.12 小さくて暖かい木の家(ルーマニア・マラムレシュ地方)”. 大和ハウスグループ. 2021年8月10日閲覧。
  10. ^ Tancred Bănățeanu, Portul popular din regiunea Maramureș: zonele Oaș, Maramureș, Lăpuș, Editat de Casa Creației Populare, Baia Mare, 1965
  11. ^ Gheorghe Bogdan-Duică, Simplicissimus descriind Maramureșul pe la 1650, Sibiu, 1929
  12. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “有畜農業”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2021年8月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • Ioan Mihalyi de Apșa, "Diplome maramureșene din secolele XIV și XV", Sighet, 1900, ediție online.
  • Tache Papahagi, Graiul și folklorul Maramureșului, Editura Academiei, București, 1925, ediție online.
  • Marian Nicolae Tomi, Maramureșul istoric în date - Editura Grinta, Cluj-Napoca, 2005 - recenzie1 - recenzie2
  • Alexandru Filipașcu, Istoria Maramuresului, București, 1940, 270 de pagini
  • Alexandru Filipașcu, De la românii din Maramureș - Oameni, locuri, cântece, Sibiu, 1943, 87 de pagini
  • Alexandru Filipașcu, Maramureș, Sibiu, 1944, 52 de pagini
  • Alexandru Filipașcu, Voievodatul Maramureșului - Originea, structura și tendințele lui, Sibiu, 1945, 32 de pagini
  • Alexandru Filipașcu, Enciclopedia familiilor nobile maramureșene de origine română, Editura Dacia, 2006
  • Cnezatul Marei. Studii documentare și arheologice în Maramureșul istoric. Cu un studiu antropologic al cimitirului din Giulesți intocmit de Ioana Popovici, Radu POPA, Ioana POPOVICI, Editura Muzeul Județean Maramureș, 1970
  • Țara Maramureșului în veacul al XIV-lea, Radu Popa, Adrian Ioniță, Editura Enciclopedică, 1997

外部リンク[編集]