マノエル・ド・オリヴェイラ

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この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はピント、第二姓(父方の姓)はド・オリヴェイラです。
マノエル・ド・オリヴェイラ
Manoel de Oliveira
Manoel de Oliveira
本名 Manoel Cândido Pinto de Oliveira
生年月日 (1908-12-11) 1908年12月11日
没年月日 (2015-04-02) 2015年4月2日(106歳没)
出生地 ポルトガルの旗 ポルトガル ポルト県ポルト
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
職業 映画監督
ジャンル 映画
活動期間 1931年 - 2015年
主な作品
アブラハム渓谷
『世界の始まりへの旅』
家路
 
受賞
カンヌ国際映画祭
審査員賞
1999年クレーヴの奥方
国際映画批評家連盟賞
1997年世界の始まりへの旅
パルム・ドール・ドヌール
2008年
ヴェネツィア国際映画祭
審査員特別賞
1991年『神曲』
特別獅子賞
1985年『繻子の靴』に至るまでの全作品に対して
ユネスコ連盟賞
2001年わが幼少時代のポルト
カトリックメディア協議会賞
2003年永遠の語らい
ロベール・ブレッソン賞
2004年
栄誉金獅子賞
2004年
ベルリン国際映画祭
功労賞
2009年
東京国際映画祭
最優秀芸術貢献賞
1993年『アブラハム渓谷
特別功労賞
1997年『世界の始まりへの旅』
ヨーロッパ映画賞
国際映画批評家連盟賞
1997年『世界の始まりへの旅』
名誉賞
2007年
その他の賞
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マノエル・ド・オリヴェイラManoel de Oliveira [mɐnuˈɛɫ doliˈvɐjɾɐ], 1908年12月11日 - 2015年4月2日)は、ポルトガル映画監督。現役最高齢の劇映画監督であった[1]

日本ではかつて「マノエル・・オリヴェイラ」と表記されていたが、ポルトガル語ではアクセントがない語尾の“e”は弱い「ウ」と発音されるため、『クレーヴの奥方』(日本では2001年公開)以後は「」に変更されて紹介されている。また、「マヌエル」の表記も用いられてきたが、本人の希望は「マノエル」である[2]

経歴[編集]

ポルト県ポルトの裕福な家庭に生まれ、スペインガリシアにあるキリスト教系の寄宿学校で学んだ。父親は電球の製造工場を経営しており、オリヴェイラ自身も17歳で父の会社に入って以降、人生の大半を実業界で過ごすこととなった。

一方で、若い頃から俳優を志し、20歳の時にイタリアの映画監督リノ・ルポが主宰する俳優養成所に参加した。1931年、デビュー作となる短編ドキュメンタリー『ドウロ河』を監督。1942年には初の長編である『アニキ・ボボ』を発表したが、興行的には失敗に終わり、オリヴェイラはその後しばらく映画から離れて本業に専念することとなった。1950年代後半から1960年代前半にかけて数本のドキュメンタリー作品を撮ったものの、当時のアントニオ・サラザール政権(エスタド・ノヴォ)を批判して逮捕されたこともあって、映画監督としてのキャリアは低空飛行が続いた。

60歳を過ぎてから、再び本格的かつ定期的に作品を創り上げるようになった。63歳の時に撮った『過去と現在 昔の恋、今の恋』(1971年)以降世界的に注目を集め、1980年代に入り70歳を過ぎてからは1年に1作に近いペースで新作を撮り続けた。

2006年、97歳の時にルイス・ブニュエル監督の『昼顔』(1967年)のオリジナル続篇『夜顔』を撮り上げた。2007年第60回カンヌ国際映画祭オムニバス映画『それぞれのシネマ』に参加、3分の短篇を撮る。さらに同年『コロンブス 永遠の海』を、2009年ブロンド少女は過激に美しく』を監督。この撮影中に100歳の誕生日を迎えた。その後2010年には新作『O Estranho Caso de Angélica』を撮り上げた。2014年の秋には、105歳で『レステルの老人』をベネチア映画祭に出品した。2015年4月2日、106歳で死去[3][4]

主な監督作品[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]