マニヒキ環礁
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NASAによるマニヒキ環礁の写真 | |
| 地理 | |
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| 場所 | 南太平洋中部 |
| 座標 | 南緯10度24分 西経161度00分 / 南緯10.400度 西経161.000度 |
| 面積 | 4 km2 (1.5 sq mi) |
| 行政 | |
マニヒキ環礁はクック諸島北部の環礁で、非公式には「真珠の島」として知られている。 マニヒキ環礁は首都のアバルアがあるラロトンガ島から北に約1,299kmに位置する。
由来
[編集]マニヒキ環礁の名前には二つの意味があるとされている。
地理
[編集]マニヒキ環礁はほぼ三角形の環礁で、東西8.5km、南北9.5kmのラグーンを囲む約43の小島から成る。ラグーンの平均水深は約30mである[1]。この環礁は海底から4,000m隆起した海底山脈の上に位置している。住民は西側のタフヌ島(政府行政機関が所在)と北部のトゥカオ島(マニヒキ・アイランド空港が所在)の二つの島に分散している。各集落には学校、教会、商店、数台のピックアップトラックがある。総陸地面積は約4km²。
環礁の主要な島々(環礁最北端から時計回りに記載)は以下の通りである[2]:
歴史
[編集]ポリネシア人は、少なくとも西暦900年あるいは1000年頃からマニヒキ環礁に居住していたと考えられている[3]。現地の伝承によれば、この環礁はラロトンガ島出身の漁師フクによって発見された。彼は海に浅瀬があることに気づき、そこを自分の漁場であると主張した。その後、この浅瀬はマウイによって釣り上げられ、ラカハンガ環礁となった。フクは戻ってくると、自分のものだと考えていたその土地を巡ってマウイと争った。マウイは追い払われたが、その争いの最中に新しい土地の一部が分離してしまい、それがマニヒキ環礁となった[4]。
マニヒキ環礁は元来、約40kmほど離れたラカハンガ環礁の住民による食料の供給地として利用されていた。数年ごとに住人全員で危険を冒して環礁間を渡り、無人となった方の環礁の資源が回復するのを待った。ラカハンガ環礁では全員が一つの村で共に暮らしていたが、マニヒキ環礁滞在時は、各部族集団がそれぞれの首長の下、別々の小島にある別々の村に分かれて暮らしていた。
1606年、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスがこの環礁を最初に発見し、「ヘンテ・エルモサ(Gente Hermosa)(美しい人々)」と呼んだ[5]。1822年10月13日、アメリカのグッド・ホープ号によって目撃された際、パトリックソン船長によって「ハンフリー島」と名付けられた[6]。
1828年には捕鯨船ガンジス号がこの環礁を発見し「グレート・ガンジス島」と名付けたほか、他の捕鯨船も「リデラス」、「グランド」、「サラ・スコット」、「ペスカド」などと名付けた。探検家たちによって繰り返し改名されたが、現在この環礁は先住民による本来の名前であるマニヒキと呼ばれている。
1889年、住民の一部が宣教師に反発し、タヒチに駐在していたフランス当局に環礁の併合を要請した。これを受け、フランスは軍艦を派遣したが、マニヒキの宣教師は抵抗としてイギリス国旗を掲げた。そのため、軍艦は上陸部隊を送ることなく撤退し、フランスによる併合は実現しなかった[7]。
グアノ島法に基づきアメリカ合衆国が領有権を主張したものの、アメリカはこの主張を実行に移すことはなく、1889年8月9日、イギリス海軍HMSエスピエグル艦長A.C.クラーク司令官により英国の保護領と宣言された。1901年にはクック諸島の他の島々と共にニュージーランドの統治下に置かれた[6]。1980年、クック諸島・アメリカ合衆国海洋境界条約に基づき、アメリカはマニヒキ環礁およびその他3島に対するクック諸島の主権を承認した。
経済
[編集]マニヒキ環礁の経済は黒真珠の養殖が中心で、ラグーン周辺には真珠養殖場が点在している。観光業は二次的な収入源だが、施設は未整備である。サンゴ礁では熱帯魚や珊瑚に囲まれたフリーダイビングやシュノーケリングが楽しめ、スキューバダイビングは観光客にとって大きな魅力となっている。観光客は許可証なしでのシュノーケリングやフリーダイビングは可能であるが、スキューバダイビングは禁止されている。許可証は島政事務局で、島政長官、市長、副市長のいずれかから取得することができる。環礁の外側では、キハダマグロやトビウオなどを釣ることができる。真珠養殖場のツアーを手配することもできる。
ラロトンガ航空によるラロトンガ島からの便が毎週木曜日に運行している。所要時間は約3時間30分。ただし、乗客不足やマニヒキ環礁での燃料不足などにより欠航となる場合がある。
トゥカオ太陽光発電所とタフヌ太陽光発電所は、それぞれ136kWと147kWの電力を供給している。[8]
脚注
[編集]- ↑ Lagoon stratification in Manihiki Atoll, Cook Islands: 887. (2017).
- ↑ Te Rangi Hiroa (Peter H. Buck) (1932). “Ethnology of Manihiki and Rakahanga”. Bernice P. Bishop Museum Bulletin 99: 6.
- ↑ Masashi Chikamori (1996). “Development of coral reefs and human settlement: Archaeological research in the Northern Cook Islands and Rarotonga”. Bulletin of the Indo-Pacific Prehistory Association.
- ↑ Te Rangi Hiroa (Peter H. Buck) (1932). “Ethnology of Manihiki and Rakahanga”. Bernice P. Bishop Museum Bulletin 99: 14-16.
- ↑ “Olohega | Atafu Tokelau Community Group”. 2025年11月28日閲覧。
- 1 2 Alphons M.J. Kloosterman『Discoverers of the Cook Islands and the Names They Gave』Cook Islands Library and Museum、1976年、19-20頁。
- ↑ Te Rangi Hiroa (Peter H. Buck) (1932). “Ethnology of Manihiki and Rakahanga”. Bernice P. Bishop Museum Bulletin 99: 10.
- ↑ “Cook Islands solar energy projects opened”. 2025年11月27日閲覧。