コンテンツにスキップ

マナトゥト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マナトゥト

Manatuto
上空からのマナトゥト市街地
上空からのマナトゥト市街地
マナトゥト県での位置
マナトゥト県での位置
マナトゥトの位置(東ティモール内)
マナトゥト
マナトゥト
東ティモールでの位置
座標:南緯8度30分44秒 東経126度00分57秒 / 南緯8.51222度 東経126.01583度 / -8.51222; 126.01583座標: 南緯8度30分44秒 東経126度00分57秒 / 南緯8.51222度 東経126.01583度 / -8.51222; 126.01583
東ティモールの旗 東ティモール
マナトゥト県
地区 マナトゥト地区
面積
 • 合計 271.38 km2
標高
0 m
人口
(2010年)
 • 合計 3,692人
 • 密度 14人/km2
等時帯 UTC+9
テンプレートを表示

マナトゥトテトゥン語:Manatutu、ポルトガル語: Manatuto)は、東ティモールマナトゥト県の町。首都ディリから東へ約64mの位置にある。マナトゥト県の県庁所在地である。

概要

[編集]

マナトゥト県およびマナトゥト地区の中心地である。ティモール島の北岸にあり、製塩と豊富なタマリンドで知られている。マナトゥトでは多くの人々がマレー・ポリネシア語派に属すガロリ語も話す。このガロリ語も、憲法上では公用語とされている。

ガロリ語で「ついばむ鳥」を意味する「マナトゥトゥ(Manatutu)」に由来する[1]

歴史

[編集]

マナトゥトは、かつてリウライ(地方首長)が治めたティモールの伝統王国の一つであった。1868年、ポルトガル領ティモール総督アフォンソ・デ・カストロが挙げた47の王国の一覧にも記載されている[2][3]。1668-1669年頃までは、マカッサルの商人がこの地に大きな影響力を持っていた[4]

1670年、フランシスコ会がマナトゥトに宣教拠点を設立した[5]。1700年頃、ドミニコ会士マヌエル・デ・サント・アントニオが、マナトゥトのリウライの改宗に成功した[6]。1730年、総督ペドロ・デ・メロはリウライと同盟を結んだが、その後15,000人の敵対戦士により85日間包囲され、1731年1月13日に脱出に成功した。

同年、総督ペドロ・デ・レゴ・バレット・ダ・ガマ・エ・カストロがマナトゥトに駐屯地を設置。1747年には、オエクシ(1742年設立)に次ぐティモールで2番目の司祭神学校がここに開かれ、1752年にはカトリック教会が建設された。マナトゥトはラクルと並び、地域のキリスト教の中心地となった[5][7]。1769年から1877年にかけて、植民地の司教座は首都ディリではなくマナトゥトに置かれていた。

1788-1790年、総督フェリシアーノ・アントニオ・ノゲイラ・リスボアは、マナトゥトのカトリック教会代表である修道士フランシスコ・ルイス・ダ・クーニャと対立した。両者は互いに略奪や関税収入の横領などを非難し合った。修道士は総督を追い出すため、住民を扇動して反乱を起こさせ、改宗したティモール人は反乱を東ティモール全域へ拡大すると脅した。最終的にゴア総督が介入し、両名を逮捕してティモールから追放した。後任の総督ジョアキン・シャヴィエル・デ・モライス・サルメント(1790-1794年)が秩序を回復した[8][9]

19世紀末、マヌエル・マリア・アルヴェス・ダ・シルヴァ神父がマナトゥトのカトリック司祭を務め、ここでガロリ語を初めて学術的に研究した[10]

1975年12月31日、東ティモール侵攻の最中にインドネシア軍がマナトゥトに上陸した。1979年末には、占領当局による統制強化のため、東ティモール人の移住キャンプが市内に設けられた[11]。1999年の東ティモール危機の際、インドネシア軍「雷作戦」において、マナトゥトも破壊の被害を免れなかった。

スポーツ

[編集]

マナトゥトを本拠地とするサッカークラブコラソンFC(Coração Football Club)が、東ティモール・サッカーリーグの第1ディビジョンに2015年から参戦している。

脚注

[編集]
  1. ^ Geoffrey Hull: The placenames of East Timor, in: Placenames Australia (ANPS): Newsletter of the Australian National Placenames Survey, Juni 2006, S. 6 & 7, (Memento vom 14. 2月 2017 im Internet Archive) abgerufen am 28. September 2014.
  2. ^ TIMOR LORO SAE, Um pouco de história (Memento vom 13. 11月 2001 im Internet Archive)
  3. ^ East Timor – PORTUGUESE DEPENDENCY OF EAST TIMOR (Memento vom 21. 2月 2004 im Internet Archive)
  4. ^ Hans Hägerdal: Rebellions or factionalism? Timorese forms of resistance in an early colonial context, 1650–1769, abgerufen am 29. Mai 2019.
  5. ^ a b Judith Bovensiepen, Frederico Delgado Rosa: Transformations of the sacred in East Timor, abgerufen am 27. Dezember 2017.
  6. ^ Artur Teodoro de Matos: D. Frei Manuel de Santo António: missionário e primeiro bispo residente em Timor. Elementos para a sua biografia (1660–1733) (Memento vom 25. 5月 2013 im Internet Archive) (portugiesisch)
  7. ^ Carlos Filipe Ximenes Belo: A língua portuguesa em Timor-Leste, 27. Mai 2008, abgerufen am 22. April 2020.
  8. ^ Geoffrey C. Gunn: History of Timor (Memento vom 24. 3月 2009 im Internet Archive), S. 50, verfügbar vom Centro de Estudos sobre África, Ásia e América Latina, CEsA der TU-Lissabon (PDF-Datei; 805 kB).
  9. ^ Chronologie de l’histoire du Timor (1512–1945) suivie des événements récents (1975–1999) (Memento vom 3. 3月 2016 im Internet Archive) (französisch; PDF; 887 kB)
  10. ^ Sebastião Aparício da Silva Project: About Sebastião Aparício da Silva SJ, abgerufen am 20. November 2007.
  11. ^ „Chapter 7.3 Forced Displacement and Famine“ (PDF; 1,3 MB) aus dem „Chega!“-Report der CAVR (englisch)