マツヤレディス

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マツヤレディス
Matsuya Ladies
マツヤレディスが入居していた現在のミーナ天神(写真手前の建物)
マツヤレディスが入居していた現在のミーナ天神(写真手前の建物)
店舗概要
所在地 福岡県福岡市中央区天神四丁目3番8号[1]
開業日 1973年(昭和48年)[1]4月1日
閉業日 2005年(平成17年)10月[3]
施設所有者 株式会社福岡松屋
施設管理者 株式会社福岡松屋
延床面積 14,009[4]
前身 松屋モスリン店[2]
福岡松屋百貨店[1]
後身 ミーナ天神[4]
(2005年(平成17年)10月29日開業[4])
株式会社福岡松屋
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
福岡県福岡市中央区天神四丁目3-8[1]
設立 1935年(昭和10年)2月[1]
創業:1911年(明治44年)10月[1]
業種 小売業
事業内容 専門店ビル経営[1]
代表者 代表取締役社長 宮村雄二郎[1]
2003年(平成15年)10月8日現在)
資本金 5000万円[1]
2003年(平成15年)10月8日現在)
決算期 1月期[1]
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マツヤレディス(Matsuya Ladies)は、かつて福岡県福岡市中央区天神四丁目にあったファッションビルである。

第2次世界大戦前は福岡松屋として営業していた日本の百貨店であった。

歴史・概要[編集]

松屋モスリン創業から松屋百貨店そして第2次世界大戦へ[編集]

松居博多織店での18年の奉公を終えた宮村吉藏が元手500円で[5]1911年(明治44年)10月に[1]松屋モスリンとして呉服店を創業したのが始まりである[2]

松屋式と呼ばれた独特の宣伝で知名度を上げ[6]、薄利多売の方針も消費者に受け入れられて成長し[5]1929年(昭和4年)に百貨店を開業した[7]

福岡では初めてのエスカレーターが設置されたり[8]、当店の百貨店化と前後して始まった航空路の開設に関連して建物の屋上に航空灯台が設置されたり[8]、店舗前に路面電車の電停「松屋前」が設置される[9]など福岡の近代化を代表する3大百貨店の一つとなっていた[8]。また、岩田屋との安売り競争や閉店時間延長合戦は地元商業界や利用者の話題となった[8][10]

小倉への進出も模索していたため後の小倉玉屋となる百貨店の招致時にも候補に挙がり[11]、大牟田市内の資本即ち市内の商工業者を網羅した市民百貨店構想として開業準備が進められたツシロ呉服店[11]と仕入れ・販売・宣伝などで提携して商号を松屋に変更させて[12]1937年(昭和12年)10月に大牟田・松屋百貨店を開業する[11]など福岡市内以外でも百貨店の展開を進めた。

しかし、第2次世界大戦太平洋戦争)に向かう戦時体制の進行によって百貨店事業の運営が難しくなり、店舗を魚雷製造工場などとして供出して軍需産業に特化することになったため百貨店を廃業に追い込まれ、更には空襲で店舗も炎上してしまった[8]

戦後の事業再開からマツヤレディスへ[編集]

1947年(昭和22年)4月に百貨店ではなかったものの各種衣料から雑貨まで幅広く扱う形で事業を再開した[1]

1973年(昭和48年)にダイエーと業務提携してファッションビルマツヤレディスを新築して開業し[1]、その後6階と7階に開設したサボティーノはテーマ性を持った新たな商業空間として大きな話題を呼んだ[13]。また、壁面の水着やヌード写真を採用した垂れ幕も当時の話題となった。

1993年(平成5年)11月には約45億円を投じてリニューアルオープンするなど投資を行って1997年(平成9年)1月期には売上高約78.59億円をあげていた[1]

その後の郊外型ショッピンセンター開業などに伴う競争激化や岩田屋の旧本店本館・新館閉鎖などによって岩田屋三越博多大丸の天神3百貨店全てが天神の南部に集積したことなどもあって天神のにぎわいの中心の南進が一層進んで当店のある北天神地区の集客力が相対的に低下した影響を受け[14]2001年(平成13年)1月期には売上高約50.4億円に落ち込んだ[1]

マツヤレディスの大改装から事業譲渡・清算へ[編集]

2001年(平成13年)7月29日で5-8階の既存の店舗の営業を休止して改装に入り[15]、同年8月4日にドラッグストアのマツモトキヨシを地下1階に開業させて若い女性を中心に1日5-6千人の買い物客を集めて女性ファッション専門店からの脱却を図り[14]2002年(平成14年)3月15日にカジュアル衣料のユニクロを開店させるなど有力店舗の招致による集客力の回復に努めた[16]

しかし、大牟田市で百貨店を経営していた関連会社の松屋が2002年(平成14年)1月15日に約78億円の負債を抱えて福岡地方裁判所に民事再生法の適用を申請して事実上破綻したため[2]、運転資金の支援や数十億円の債務保証が当社の負担となり[2]、保有していた同社株式35.8%[17]も100%減資で価値が消滅する[18]など当社の財務を圧迫した。

このため、当社は2002年(平成14年)3月27日に[16]主要資産であるマツヤレディスと隣接する専門店ビルショッパーズ専門店街[2]について大東建託創業者の多田勝美社長の資産管理会社ダイショウと売買契約を締結して会社を清算することになった[16]

そして、2003年(平成15年)10月8日に福岡地方裁判所へ自己破産を申請して破産宣告を受けて福岡松屋としての歴史に終止符を打った[1]

施設概要[編集]

地下は飲食店街、1階から5階までは女性のための店舗のみのファッションフロア、6階、7階はサボティーノ(同居するダイエーショッパーズ福岡店の専門店街と共同営業)、8階は子供服を取り扱うお店、9階はゴルフスクールであった。

フロア構成(1977年頃)[19][編集]

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 大型倒産速報 株式会社福岡松屋 (Report). 帝国データバンク. (2003-10-27). 
  2. ^ a b c d e “NEWS SCRAMBLE グループ百貨店破たんで マツヤレディス売却検討”. 財界九州2002年3月号 (財界九州社) (2002-3). 
  3. ^ “旧マツヤレディス跡の商業施設 ミーナ天神 全面改装へ”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2008年12月3日) 
  4. ^ a b c “WEEKLY DIGEST マツヤレディス 屋号は残し営業継続”. データ・レポート 九州・山口オリコミ広告出稿統計 2005年9月号 (朝日オリコミ西部) (2005-9). 
  5. ^ a b 藤田理子 (2011-9-1). “太宰府人物志 63”. 広報だざいふ 平成23年9月1日号 (太宰府市). 
  6. ^ 『事業ト人: 奮闘秘話.1』福岡時事社 出版部、1929年。
  7. ^ “特集 天神「住む町」から「集う街」へ”. 市史だより Fukuoka 第12号 (福岡市博物館 市史編さん室). (2010-12-31). 
  8. ^ a b c d e 『天神の旗・都心界40年の歩み』都心界、1989年1月31日。
  9. ^ 『福岡市及付近名所案内図』福岡松屋、1936年。
  10. ^ 当初は午後6時まで。その後段階的に延長し午後10時まで営業していた時期もあったが、最終的には午後6時に戻っている。
  11. ^ a b c 遠城明雄「1930年代の都市中小小売商-福岡県の場合-」『史淵 no.140』、九州大学、2003年3月30日。
  12. ^ 大岡聡「昭和戦前・戦時期の百貨店と消費社会」『成城大学経済研究所研究報告no.52』、成城大学経済研究所、2009年4月。
  13. ^ 松本晃尚『商空間 人・店・街にぎわいをデザインする』平凡社、2007年3月。ISBN 9784582620405
  14. ^ a b “T・E・N・J・I・N 北天神復興は未だ“暗中模索”やっぱり困難なストップ・ザ・南進!?”. 財界九州2001年10月号 (財界九州社) (2001-10). 
  15. ^ “WEEKLY DIGEST マツヤレディス 中・高層階を全面改装”. 財界九州2001年9月号 (財界九州社) (2001-9). 
  16. ^ a b c “WEEKLY DIGEST マツヤレディス 土地・建物を売却”. 財界九州2002年5月号 (財界九州社) (2002-5). 
  17. ^ “WEEKLY DIGEST 大牟田の松屋 負債78億円で再生法申請”. 財界九州2002年6月号 (財界九州社) (2002-6). 
  18. ^ “WEEKLY DIGEST 大牟田の松屋「市民株主」などの再生計画案”. 財界九州2002年9月号 (財界九州社) (2002-9). 
  19. ^ 参考資料:西日本新聞社「九州の顔 天神 小売商業の変化と都市構造」331P、1977年。2013年9月12日閲覧