マイケル・リンゼイ=ホッグ

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第5代准男爵サー・マイケル・リンゼイ=ホッグ (Sir Michael Edward Lindsay-Hogg, 5th Baronet 1940年5月5日 - )はニューヨーク生まれのアメリカ映画監督プロモーション・ビデオ監督。

ザ・ビートルズ晩年の内情を捉えた映画レット・イット・ビー』の監督として知られる。

経歴[編集]

リンゼイ=ホッグは、ニューヨーク1940年5月5日に生まれた。父親は、イギリス南部・サセックス (Sussex)のリンゼイ=ホッグ准男爵家の4代目にあたるサー・エドワード・リンゼイ=ホッグで、母親は、アイルランド出身の女優ジェラルディン・フィッツジェラルドとされているが、実の父親は、俳優オーソン・ウェルズである。

自身は母親が亡くなるまで何も聞かされておらず、オーソン・ウェルズとは、リンゼイ=ホッグが監督した映画で何度も仕事をしていた知人であった。しかし、ウェルズが亡くなって数年後に、彼の末娘から「兄ではないか?」と聞かされ、2011年には、母親の親友であったグロリア・ヴァンダービルトから、母親が生前に話した内容として、ウェルズが実の父親だと伝えた。

リンゼイ=ホッグは、本当の父親が誰であるかを確認するためDNA鑑定を行い、その結果、ウェルズが父親であった事が確定した。

仕事[編集]

アメリカの大学を卒業したリンゼイ=ホッグは、父親の地元であるイギリスに渡り、映像関係の仕事に就いた。1965年からは、イギリスのテレビ局ITVが1963年から放送していた音楽番組『レディ・ステディ・ゴー』(Ready Steady Go!)のディレクターとなり、番組を通じて、ザ・ローリング・ストーンズザ・フーザ・ヤードバーズら、イギリスの人気ロックグループと知り合った。

『レディ・ステディ・ゴー』が放送終了してしばらく経った頃、ザ・ビートルズからプロモーション・フィルムの制作を依頼され、『ペイパーバック・ライター』、『レイン』、『ヘイ・ジュード』および『レボリューション』のプロモーション・フィルムを撮影した。

ビートルズとの仕事は一旦途切れるが、1969年になって、ポール・マッカートニーの発案によるレコーディング・セッション(ゲット・バック・セッション)の撮影を依頼され、1969年1月2日から撮影を開始した。しかし、メンバー内の結束は既に崩壊しており、一向に進まないレコーディングや、メンバー間の衝突などが記録される結果となった。一方で、1月30日にアップル本社ビルの屋上で行われた2年5ヶ月ぶりのライヴ演奏(ルーフトップ・コンサート)では、ビートルズとしての、最後のライヴ・パフォーマンスを記録する事になった。

リンゼイ=ホッグが撮影したこれらの映像は、1970年に映画『レット・イット・ビー』として一般公開され、バンド末期の状況を記録した貴重な映像となっている。

また、ローリング・ストーンズからもプロモーション・フィルムの制作を依頼され、1967年に『シーズ・ア・レインボー』のプロモーション・フィルムを撮影したのを皮切りに、1981年の『刺青の男』まで、10年以上の長期間に渡り、ローリング・ストーンズの数多くのミュージック・ビデオを監督した。また1968年には、「ロックンロールサーカスの融合」をコンセプトに、ローリング・ストーンズが企画・製作したスタジオ・ライヴ『ザ・ローリング・ストーンズ ロックンロール・サーカス』を監督した。

このほか、ビートルズ解散後にポール・マッカートニーが結成したバンド『ウイングス』や、ホイットニー・ヒューストン1985年の作品『そよ風の贈りもの』(You Give Good Love)のミュージック・ビデオを監督したほか、様々なアーティストのライヴ映像の記録も行っている。

1970年代からは、映画・テレビドラマの監督業にも進出し、BBCを初めとする各局で数多くの作品を撮影している。また2000年には、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが最後に会った日を題材にした映画『ザ・ビートルズ 1976ダコタ・ハウスにて・・・two of us』を監督した。

リンゼイ=ホッグは、映画監督としての活動の他、最近では、自身のこれまでの仕事や、実の父親であるオーソン・ウェルズへの思いを綴った伝記を発表し、作家としても活動している。


参照[編集]