マイケル・ティペット

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マイケル・ティペット
Michael Tippett
出生 1905年1月2日
イングランドの旗 イングランドロンドン
死没 1998年1月8日(満93歳没)
イングランドの旗 イングランド、ロンドン
学歴 王立音楽大学
ジャンル 近代音楽
職業 作曲家指揮者
パーセルバッハ, ヘンデル, ベートーヴェンストラヴィンスキー, シベリウスヒンデミットバルトークフォークミュージックブルースジャズロックガムラン

マイケル・ティペットSir Michael Kemp Tippett1905年1月2日 - 1998年1月8日)は、イギリス作曲家指揮者小惑星(4081)のティペットは、彼に因んで命名された。

生涯[編集]

父方のティペット家はコーンウォールに出自を持ち、父ヘンリー・ティペットは法律家。 母イザベル・ケンプはケント上位中産階級の出身。 母イザベルの従姉妹シャルロット・デパール英語版女性解放運動の活動家でありイザベル自身もトラファルガー広場における違法集会に参加した件で一時収監された経験を持つ[1]。 マイケルは二人兄弟の弟。 ロンドン西郊のイーストコート英語版[注釈 1]に生まれ、子ども時代をサフォーク州の小村で過ごす。 家には一台のピアノが置いてあった。 これを用いて、ガヴァネスらによる個人的レッスンを受けた。 特別なものではなく他の一連のカリキュラムの中の一環であったが、これが最初の音楽との出会いだった[2]。 のちにティペットは著書で「即興演奏に夢中になっていたよ。言葉の意味はよくわからないままに、それを”さっきょく”と呼んでいたよ。」と述懐している[3]1914年9月(9才)ドーセットスォニッジ英語版の私立小学校の寮生となる。 1918年(13才)エディンバラにある寄宿学校に進学、ここで彼はピアノや歌唱、コーラスやパイプオルガン演奏などを学ぶが、1920年リンカンシャースタムフォード校英語版に転校した。 同校在校中にマルコム・サージェントの指揮に触れたことなど[注釈 2]により作曲家になる決心を固めた。 サージェントは同校の10年前の卒業生であった[4]

両親はマイケルにケンブリッジ大学に進学して無難な生き方をしてほしいと考えており、特別な音楽教育を受けていないにも拘らず、作曲家になりたいと突然言い出した息子に戸惑った。 しかし、1923年(18才)、ティペットは反対する両親を説得し、コンサートピアニストになるのなら、ということで王立音楽大学(RCM)への進学を認めてもらう。 王立音楽大学では当初、チャールズ・ウッド英語版に作曲を師事していたが、1926年にウッドが亡くなるとチャールズ・ハーバート・キットソン英語版に師事した。 ウッドはバッハモーツァルトベートーヴェンに範をとった硬派な音楽理論を教授したが、キットソンは衒学的でありティペットの作曲上の狙いにまるで理解を示さなかったため、師弟関係は悪かった[5]。 ティペットはまた、指揮をマルコム・サージェントとエイドリアン・ボールトに師事した。 特にボールトは、リハーサルの間、指揮台の上にティペットを登らせ、指揮者用スコアを通して音楽を追わせるといった授業を何度も行い、親身になって指導を行った[6]。 ティペットは彼の指導を通して、ディーリアスドビュッシーといった当時彼が知らなかった作曲家の作品に親しみ[7]、またオーケストラの各楽器について多くを学んだ[8]

王立音楽大学への進学に伴い、ティペットはロンドンで暮らすことになり、そのこともまた、ティペットの音楽体験の幅を著しく広げることとなった。とりわけ、空襲による破壊を受ける前のクィーンズ・ホールにおけるプロムナードコンサート(プロムス)、コヴェント・ガーデンにおけるオペラディアギレフのバレエなどに刺激を受けた。他にも、フョードル・シャリアピンの歌唱を聴き、ストラヴィンスキーラヴェルの自作自演を体験した。ティペットはまた、このころまでバロック以前の音楽についてまるで何も知らなかったが、ウェストミンスター大聖堂でのミサに何度も参加し、パレストリーナのミサ曲を学んだ[6]

王立音楽大学卒業後は、在校中から指揮を務めていたアマチュア合唱団の所在するサリー州のオクステッド村に転居、同村近くの私立小学校でフランス語教師をして生計を立てた。また、アマチュア合唱団では、イングリッシュ・マドリガルレイフ・ヴォーン・ウィリアムズのオペラなどの指揮を行い、多くを学んだ。ときには自作の指揮を執ることもあった。しかし、1930年に作曲活動の行き詰まりを感じて王立音楽大学に再入学する。16世紀音楽の専門家であるレジナルド・オーウェン・モリス英語版の対位法のクラスを受講、バッハの様式によるフーガの書き方などを学ぶ。また、ゴードン・ジェイコブにオーケストレーションも学んだ。この二度目の王立音楽大学在校期間中に、ティペットは独自の音楽語法を獲得するきっかけを掴んだ。

1933年1934年の夏、ティペットはイングランド北部で催された鉱夫のためのワークキャンプに音楽責任者として参加した。 そこで音楽以上に政治への関心を深め、特にトロツキーの思想への傾倒を始めた。 1935年英国共産党に入党するが党の方針はスターリニズムであり、数か月で離党した[9]。 また、ティペットは反戦平和主義者としての意思を強め、1940年平和誓約連合英語版に加入し、良心的兵役拒否者のリストに登録する。 1942年に非戦闘員として従軍の通知があった時にはこれを拒否した。 翌年、これが原因で当局の事情聴取を受ける。裁判の後、懲役3ヶ月の判決を受け、2ヶ月間刑務所に収監された[10]。 服役中にはブリテンとピアーズの激励を受けている。

ティペットが嫌悪する戦争への突入が不可避となる政局の一方で、ティペット自身も個人的な危機を迎えていた。 1938年8月に、弦楽四重奏曲第1番も捧げた親友との関係が破綻すると、ティペットは、自分の性的指向や芸術家としての価値について悩み、錯乱した。 このときティペットは、友人の勧めでユング派の精神分析及び治療の専門家ジョン・レイナード英語版のセラピーを受け、絶望から立ち直った。 レイナードは臨床セラピーを通して、夢の分析と解釈を行う方法論をティペットに教えた。 ティペットの伝記の著者であるイアン・ケンプは、この経験がティペットの感情的にも芸術的にも「非常に重要な転換点」になったとしている。 特にティペットが夢の分析から得たものは、「ユング的な「光」と「影」が一個人のプシュケーに同居しており、個々人はこのような分裂した自分の本性[注釈 3]を受け容れなければならず、また、欲求の葛藤からもたらされる利益も受け容れなければならない」という考えだった[11]。 この「光」と「影」のモチーフは、のちのティペットの作品に繰り返し現れることとなる。

1940年10月、ティペットは、成人教育を行う教育機関であるモーリー大学英語版の合唱団の指揮者となる。グスターヴ・ホルストが創設した同合唱団をティペットはイングランドで最も優れた合唱団へと育て上げた。ティペットは、当時、こんにち程はよく知られていなかったヘンリー・パーセルの作品を多く取り上げた。また、のちに有名となる若い音楽家たち、たとえば、ピーター・ピアーズアルフレッド・デラーアマデウス弦楽四重奏団のメンバーらと、よく共演した。

1951年、ティペットはBBCのブロードキャスターとなり、彼のラジオでのトークはのちに纏められて出版された。その後もティペットは、作曲家、指揮者、ラジオブロードキャスターとして活動を続ける。1969年には資金難となったバース国際音楽祭を救うため指揮者のコリン・デイヴィスと共に働き、同音楽祭の芸術監督を五期務めた。ティペットの名声は国際的なものとなり、特にアメリカでの名声が高まった。交響曲第4番とオラトリオ「Mask of Time」は同国での初演を意図して作曲されたものである。1965年からコロラド州アスペン音楽祭の「音楽祭付き作曲家」となり何度もアメリカを訪問する機会を得る。ティペットのアメリカ体験は作風にも影響を及ぼし、結び目の庭(1966-69)や交響曲第3番(1970-72)にはジャズやブルースの影響がみられる。

ティペットは90歳を超えても精力的に活動を続けた。しかし、1997年11月、ストックホルムで催される音楽祭で自作の演奏が行われるのを聴きに同地へ赴き、そこで倒れた。ロンドンに戻った後、1998年1月8日、肺炎のため、亡くなった。93才。葬儀はロンドン、ハンワースにて、1月15日、非宗教的な様式で執り行われた。

作品[編集]

歌劇[編集]

声楽曲[編集]

管弦楽曲[編集]

室内楽曲[編集]

  • 弦楽四重奏曲第1番 1935年
  • 弦楽四重奏曲第2番 1942年
  • 弦楽四重奏曲第3番 1946年
  • 弦楽四重奏曲第4番 1978年
  • 弦楽四重奏曲第5番 1991年
  • 4本のホルンのためのソナタ

器楽曲[編集]

  • ピアノソナタ第1番(全4楽章)1936年 - 1938年
  • ピアノソナタ第2番(単一楽章、Tempo: Lento)
  • ピアノソナタ第3番(全3楽章)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時はミドルセックス州であった。
  2. ^ フランスの作曲家ロベール・プランケット英語版のオペレッタの合唱をサージェントの指揮に合わせて歌った。
  3. ^ ほんせい。

出典[編集]

  1. ^ Kemp pp.1-5
  2. ^ Kemp pp.6-8
  3. ^ Tippett 1991 pp.5
  4. ^ Tippett 1991 pp.8-9
  5. ^ Kemp pp.14-15.
  6. ^ a b Bowen pp.18.
  7. ^ Tippett 1991 pp.14-15.
  8. ^ Kemp pp.16-17.
  9. ^ Kemp pp.30-32
  10. ^ Kemp pp.41-43.
  11. ^ Kemp pp.36-37

参考文献[編集]

  • Bowen, Meirion (1983). Michael Tippett. London: Robson Books. ISBN 1-86105-099-2. 
  • Ford, Andrew. Composer to Composer. London: Quartet Books=1993. ISBN ISBN 0-7043-7061-1. 
  • Kemp, Ian (1987) [1983]. Tippett: the composer and his music (2nd ed.). Oxford: Oxford University Press. ISBN 0-19-282017-6. 
  • Matthews, David (1980). Michael Tippett - An Introductory Study. London: Faber and Faber. ISBN 0-571-10954-3. 
  • Tippett, Michael (1959). Moving into Aquarius. London: Routledge and Kegan Paul. ISBN ISBN 0-586-08179-8. 
  • Tippett, Michael (1991). Those Twentieth Century Blues. London: Hutchinson. ISBN 0-09-175307-4. 
  • Tippett, Michael (2005). Thomas Schuttenhelm. ed. The selected letters of Michael Tippett. London: Faber and Faber. ISBN 0-571-22600-0.