ポール・ル・グエン

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ポール・ル・グエン
名前
ラテン文字 Paul LE GUEN
基本情報
国籍 フランスの旗 フランス
生年月日 (1964-03-01) 1964年3月1日(60歳)
出身地 パンクラン
選手情報
ポジション MF, DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1989 フランスの旗 ブレスト 154 (6)
1989-1991 フランスの旗 ナント 76 (1)
1991-1998 フランスの旗 パリ・サンジェルマン 248 (16)
通算 478 (23)
代表歴
1993-1995 フランスの旗 フランス 17 (0)
1998 ブルターニュ地域圏の旗 ブルターニュ 1 (0)
監督歴
1998-2001 フランスの旗 レンヌ
2002-2005 フランスの旗 リヨン
2006-2007 スコットランドの旗 レンジャーズ
2007-2009 フランスの旗 パリ・サンジェルマン
2009-2010 カメルーンの旗 カメルーン
2011-2015 オマーンの旗 オマーン
2017-2018 トルコの旗 ブルサスポル
2019- フランスの旗 ル・アーヴル
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ポール・ル・グエンPaul Le Guenフランス語発音: [pɔl lə ɡwɛn] または IPA: [pawl lø ɡwɛnː]1964年3月1日 - )は、フランス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションミッドフィールダー

経歴[編集]

選手時代はブレストナントパリ・サンジェルマンFCでプレー、フランス代表としても17試合出場した。パリの悲劇にもフル出場している。1997-1998シーズン終了後に引退し、指導者としての道を歩む。レンヌではシャバニ・ノンダエル=ハッジ・ディウフらアフリカの若手選手を見い出し起用した。

指導者としての才能が注目され始めたのがオリンピック・リヨンの監督に就任してからで、2002-2003シーズンから3シーズン連続でリーグ・アンを制覇し、UEFAチャンピオンズリーグにも常時出場するなどフランスを代表するクラブへと押し上げた。

2004-2005シーズン終了後にリヨンを退任したが、その手腕を買われて2006-2007シーズンよりグラスゴー・レンジャーズ監督に就任。しかしチームの成績は上がらず就任7ヶ月余りで辞任した。

退任から間もない2007年1月15日、パリ・サンジェルマンFCの監督に就任した。就任当時のクラブは17位に位置し、残留争いに巻き込まれていた。就任直後はなかなか結果を出せなかったが、最終的に15位で残留を決めた。クープ・ドゥ・フランスでは2年ぶりに優勝を果たし、UEFAカップ出場権を獲得した。2008-2009シーズンは開幕から好調を維持し、終盤まで2位につけていたが、2009年5月にクラブが彼との契約を延長しないと発表したためにチームの士気が下がり、6位でシーズンを終えた。しかしクラブにとっては3シーズンぶりの一桁順位(6位)であり、立て直しに成功したといえる。

2009年7月、同年12月までの契約でカメルーン代表監督に就任した。カメルーン代表は2010年W杯南アフリカ大会アフリカ最終予選で1分1敗と苦しいスタートを切っていたが、ル・グエン就任後の4試合で4連勝を飾り、チームを2大会ぶりの本大会へと導いた。しかし、本大会では3戦全敗に終わり、グループリーグで敗退した責任を取り6月24日に辞任した[1]

2011年からオマーン代表の監督に就任。2015年に監督を退任した。

人物[編集]

大学では経済学を学んでいた[2]

理想のチームは「カペッロのミラン」と語る[2]

現在フランス在住である[いつ?]

カメルーン代表監督時代は、予選突破後の国民の支持率は低く、前述するフランス在住であることや、「選手はほとんどが監督よりもエトー派」と言われるほど、選手からは信頼されなかったようで(監督派を公言していたのはリゴベール・ソング程度)、かつての代表であるロジェ・ミラがエトーを批判したことなども、チーム分裂を促した。結果、グループステージで3連敗を喫し、1次リーグ敗退[要出典]

獲得タイトル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ “カメルーン代表のルグエン監督が退任 オーストラリア行きも?” ((日本語)). iSM (iSM). (2010年6月24日). http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100625-00000046-ism-socc 2010年6月24日閲覧。 
  2. ^ a b 橘昇「オリンピック・リヨン:いまだ夢の途中」『Sports Graphic Number 624』第26巻第7号、文藝春秋、2005年、44-47頁、雑誌 26851-4・7。