ポルトガル領マラッカ
| ポルトガル領マラッカ | |||||
| Malaca Portuguesa | |||||
| ポルトガル領インドの拠点 | |||||
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| 首都 | マラッカ | ||||
| 政府 | 直轄植民地 | ||||
| 大統領 | アフォンソ・デ・アルブケルケ | ||||
| 歴史 | |||||
| • | マラッカ征服 | 1511年 | |||
| • | オランダによる奪取 | 1641年 | |||
ポルトガル領マラッカ(ポルトガルりょうマラッカ、ポルトガル語: Malaca Portuguesa)は、1511年から1641年までの130年間にわたり、マレー半島西岸の港湾都市マラッカに存在したポルトガル海上帝国の拠点、ならびにその支配領域を指す。
ポルトガルにとってマラッカは、インドのゴアや中国のマカオと並ぶアジア貿易における最重要拠点の一つであり、香辛料貿易の中心地であるモルッカ諸島への東進を可能にする戦略上の要衝であった[1]。
歴史
[編集]マラッカ征服(1511年)
[編集]15世紀に栄えたマラッカ王国は、東西の交易船が集まる国際的ハブ港として機能していた[2]。1509年にディオゴ・ロペス・デ・セケイラ率いるポルトガル船隊が初めて来航し、その貿易における価値を確認したが、王国側との衝突によりポルトガルの本格的な侵略へと繋がった[3]。
1511年8月、インド総督のアフォンソ・デ・アルブケルケが率いる艦隊がマラッカを攻撃し、これを征服した(1511年マラッカ征服)。征服後、ポルトガルは市街を見下ろす丘に、ヨーロッパ圏外における最古の要塞の一つであるア・ファモサ要塞を大規模に建設し、防衛を固めた[1]。
統治と貿易
[編集]ポルトガルは、マラッカをインド総督の支配下に置き、貿易の統制を行った。これにより、ムスリム商人が中心であったマラッカの貿易構造は大きく再編され、特にマラッカ海峡を通過するアジア内部の交易路に混乱と再編成をもたらした[4]。
しかし、ポルトガルによる支配は、マラッカの旧王家が樹立したジョホール王国や、マラッカから排斥された商人のネットワークを持つアチェ王国など、周辺勢力からの頻繁な攻撃にさらされ続けた[5]。
支配の終焉(1641年)
[編集]17世紀に入ると、アジア貿易の覇権をめぐってオランダ東インド会社が台頭し、ポルトガルとの間でオランダ・ポルトガル戦争が勃発した。
1641年、オランダはジョホール王国の支援を得てマラッカを包囲・攻撃し、長期の攻防の末、ポルトガルをマラッカから完全に駆逐することに成功した(1641年マラッカの戦い)。これにより、マラッカはオランダ領マラッカとなり、以後、マラッカ海峡におけるポルトガルの影響力は決定的に低下した[1]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 鶴見 1981.
- ^ コトバンク 2024.
- ^ MelakaJP 2024.
- ^ 日ポ戦史 1966.
- ^ 世界史の窓 2024.
[1]:外務省調査部『イギリス領マレーの統治機構』外務省調査部、1942年。 [2]:鶴見良行『マラッカ物語』時事通信社、1981年。 [3]:“マラッカ(コトバンク)”. 小学館(日本大百科全書(ニッポニカ)) (2024年5月29日). 2025年10月28日閲覧。 [4]:“マラッカ(マレーシア)の歴史年表”. マラッカ観光情報. Melaka JP (2024年3月1日). 2025年10月28日閲覧。 [5]:“マラッカ海峡”. 世界史の窓. 2025年10月28日閲覧。 [6]:別技篤彦『ポルトガル領時代のマラッカ・アジアにおけるヨーロッパ植民地の原型--マラッカの研究-2』 26巻、2・3、立教大学史学会、1966年、136–154頁。
- ^ 外務省調査部 1942.
- ^ 鶴見 1981.
- ^ コトバンク 2024.
- ^ MelakaJP 2024.
- ^ 世界史の窓 2024.
- ^ 日ポ戦史 1966.