ボブ・ディラン (アルバム)

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ボブ・ディラン
ボブ・ディランスタジオ・アルバム
リリース
録音 1961年11月20日22日
アメリカニューヨーク市
コロムビア・レコーディング・スタジオ
ジャンル フォークブルース
時間
レーベル コロムビア
プロデュース ジョン・ハモンド
専門評論家によるレビュー
チャート最高順位
  • イギリスの旗 13位(全英アルバム・チャート
  • ボブ・ディラン 年表
    ボブ・ディラン
    (1962年)
    フリーホイーリン・ボブ・ディラン
    1963年
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    ボブ・ディラン』(: Bob Dylan)は、1962年にリリースされたボブ・ディランのデビュー・スタジオ・アルバム。ディランを見出したコロムビア・レコードジョン・ハモンドによりプロデュースされ、2曲の自作曲「ウディに捧げる歌」、「ニューヨークを語る」の他、「朝日のあたる家」、「死にかけて」などトラディショナルなフォークブルースの楽曲を主に収録している。

    当初の売り上げは振るわずアメリカではチャート・インしなかったものの、1963年グラミー賞最優秀フォーク・レコーディングにノミネートされ、その後の活躍により1965年全英アルバム・チャートで最高13位を記録した。

    解説[編集]

    このアルバムでは、ソングライターとしてのディランの面目はまだ十分発揮されていないが、シンガーとしての基本的なスタイルとギター演奏やハーモニカ演奏における卓越性を聴くことができる。それは、アコースティック・ギター及びハーモニカによるドライブ感溢れる伴奏と、しゃがれ声による荒削りなボーカルであるが、一般の嗜好には必ずしも合わないものであった。だが、その声は意識的に作り出したものであり、後の『ナッシュヴィル・スカイライン』(1969年)などに示された声が、彼本来のものであるという説もある。しゃがれ声で歌う理由についてディランは、「ジョーン・バエズ・イン・コンサート」第二部のジャケット・ノートで、「ただ一つの美は裂け目や敷石の中にある埃や垢でできた服をまとっている」「汚い声のほかはどんな声も私は少しも関心がない」と述べている[1]。これは彼独自の考えではなく、1961年9月のニューヨーク・タイムズに発表されたロバート・シェルトンによるコンサート・レビューでも、ディランの歌唱について、「決してきれいではないが、南部の労働者の想念の持つ粗野な美をとらえようとしており、殻と樹皮がそのまま残された、燃えるような強さに満ちている」という評価がされている(このレビューは後述のようにレコード化に力があったもので、ライナー・ノーツにも記載された)。また、ディランが歌を学んだジャック・エリオットも同じような声で歌っており、労働者の生活感情を表現するためにはそのような声がふさわしいという考えが、ディラン周辺のフォークシンガーの間に存在していたことを示している。

    収録曲[編集]

    Side 1[編集]

    1. 彼女はよくないよ - You're No Good – 1:40
    2. ニューヨークを語る - Talkin' New York – 3:20
      • 作詞・作曲: ディラン
    3. 死にかけて - In My Time of Dyin' – 2:40
      • トラディショナル、編曲: ディラン
    4. いつも悲しむ男 - Man of Constant Sorrow – 3:10
      • トラディショナル、編曲: ディラン
    5. 死をみつめて - Fixin' to Die – 2:22
    6. プリティ・ペギー・オウ - Pretty Peggy-O – 3:23
      • トラディショナル、編曲: ディラン
    7. ハイウェイ51 - Highway 51 Blues – 2:52
      • 作詞・作曲: Curtis Jones

    Side 2[編集]

    1. ゴスペル・プラウ - Gospel Plow – 1:47
      • トラディショナル、編曲: ディラン
    2. 連れてってよ - Baby, Let Me Follow You Down – 2:37
    3. 朝日のあたる家 - House of the Risin' Sun – 5:20
      • トラディショナル、編曲: ヴァン・ロンク、ディラン
    4. 貨物列車のブルース - Freight Train Blues – 2:18
      • トラディショナル、編曲: ディラン
    5. ウディに捧げる歌 - Song to Woody – 2:42
      • 作詞・作曲: ディラン
    6. 僕の墓をきれいにして(旧邦題:僕の墓はきれいだよ) - See That My Grave Is Kept Clean – 2:43

    パーソネル[編集]

    レコーディング・セッション[編集]

    1961年ニューヨークグリニッジ・ヴィレッジのフォーク・リバイバルのムーブメントの中、コロムビア・レコードのプロデューサーであったジョン・ハモンドはフォーク・アーティストを探していた。9月、そのうちの一人であった女性シンガーのキャロリン・ヘスターのアルバムのレコーディングで、ディランはヘスターからハーモニカの演奏を依頼される。準備のため、ディランはヘスターと当時結婚していたリチャード・ファリーニャの2人のアパートメントを訪れ、そこで初めてハモンドと会う。ディランはギターとハーモニカを演奏しヘスターのバックで歌ったが、ハモンドが特別の関心を払っているとは思わなかった。しかしその演奏を見たハモンドは、この時からディランを気に入っていた[2][3][4]

    9月26日、グリーンブライアー・ボーイズの前座としてこの日から2週間の予定でフォーク・クラブ「ガーディス・フォーク・シティ」に出演していたディランは[5][6][7]、取材に来た音楽ジャーナリストのロバート・シェルトンのインタビューに答え[8][9]9月29日ニューヨーク・タイムズ紙にディランを賞賛するシェルトンの記事が掲載された[10][11][12][注 1]9月30日、ヘスターとのレコーディング・セッションが行われ[13][14][15][注 2]、順調に録音を終えた帰り際、ディランはハモンドにコントロール・ブースへ呼ばれて自分のレコードを出そうと聞かされる[16][17]。ディランは自分の記事をみんなに見せて回っていたが[18][19][20]、ハモンドもこの日の朝に読み[21][22]、記事が功を奏していた[23][24][注 3]

    10月、正式契約の前に「ニューヨークを語る」等を歌ったデモが行われたとみられている[25][26]。ハモンドのオフィスで契約書にサインをしたディランはある写真に気づく。それはブルース・ギター奏者でシンガーのジープと名のる男の写真で、以前ディランはジープの実家を訪ね、そこにあった素晴らしいレコード・コレクションを聴いたことがあった。実はこのジープがハモンドの息子ジョン・ハモンド・ジュニアだった[27]。ハモンドは息子からもディランのことを聞いていたのだった[28][29]

    レコーディングはジョン・ハモンドのプロデュースのもと、11月20日22日、ニュー・ヨークのコロムビア・レコーディング・スタジオで行われた[30][31]。かかったコストは$402だったと伝えられている[32]。いずれかのセッションには、当時恋人だったスーズ・ロトロも立ち会っていた[33][34][35]

    1961年11月20日録音[36]
    • 彼女はよくないよ - You're No Good
    • 死をみつめて - Fixin' to Die
    • ヒー・ウォズ・ア・フレンド・オブ・マイン - He Was a Friend of Mine[37]
    • 朝日のあたる家 - House of the Risin' Sun
    • ニューヨークを語る - Talkin' New York
    • ウディに捧げる歌 - Song to Woody
    • 連れてってよ - Baby, Let Me Follow You Down
    • 死にかけて - In My Time of Dyin'
    1961年11月22日録音
    • マン・オン・ザ・ストリート - Man on the Street[38]
    • Ramblin' Blues[39]("(As I Go) Ramblin' Round"とも、作詞・作曲: ウディ・ガスリー)
    • いつも悲しむ男 - Man of Constant Sorrow
    • プリティ・ペギー・オウ - Pretty Peggy-O
    • 僕の墓をきれいにして - See That My Grave Is Kept Clean
    • ゴスペル・プラウ - Gospel Plow
    • ハイウェイ51 - Highway 51 Blues
    • 貨物列車のブルース - Freight Train Blues
    • ハウス・カーペンター - House Carpenter[注 4]

    自身の初レコーディングはディランにとって難しい作業だった[40][41]。各曲あまり多くのテイクが録られず、別テイクを録りたいかハモンドに聞かれると、ディランは「ノーと言いました。同じ曲を続けて2度歌う自分の姿は想像ができない。そんな恐ろしいこと。」と述べている[42][43]

    現在アウトテイクのうち「ヒー・ウォズ・ア・フレンド・オブ・マイン」、「マン・オン・ザ・ストリート」、「ハウス・カーペンター」の3曲が、『ブートレッグ・シリーズ第1〜3集』(1991年)に収録されている。「朝日のあたる家」は、1964年にプロデューサーのトム・ウィルソンによりオーバーダブが加えられたオルタネイト・ミックスが Highway 61 Interactive CD-ROM (1995年)に収録されている。

    ジャケット写真は、写っているアコースティック・ギターの弦の太さからみるに、裏返しの写真である[44]

    楽曲[編集]

    ディランは知り合ったフォーク・シンガー達の演奏や、彼らから借りたフォーク、ブルース、カントリーの珍しいレコードから、数多くの曲を吸収していた。「一度聴けばよかった。もしくは二度。」とドキュメンタリー映画『ノー・ディレクション・ホーム』(2005年)の中で述べている。スージー・ロトロの姉カーラ・ロトロ(Carla Rotolo)は、ディランが『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』 - Anthology of American Folk MusicFolkways1952年)などのレコードを聴き演奏する曲を探していた、と回想している。『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』は1927年から1932年のフォークやブルースの録音を集めたもので、「ハウス・カーペンター」や「僕の墓をきれいにして」が収録されている。「朝日のあたる家」のアレンジは、フォーク・シンガーのデイヴ・ヴァン・ロンクから学んだものであり[45]、「収録曲の半分はヴァン・ロンクがレパートリーにしていた曲」であるとも述べている[46]

    自作曲のうち、「ウディに捧げる歌」はディラン作詞で、尊敬していたウディ・ガスリーへの想いを歌ったものである。ディランはこの曲については「わたしが最初に作った歌らしい歌」[47]、「自作曲の第一号」で「わたしに身を置くべき場所と宿命を教えてくれた人、わたしを出発点に立たせてくれた人への賛辞」[48]、「誰も書いたことのない歌だと自負していた」[49]と述べている。メロディーは「心のなかにいるウディといっしょに、彼の歌のメロディを引用しながらつくった」とも述べており[50]、ウディも得意としていた "1913 Massacre" という曲をベースにしている(すでにある曲想に新しい歌詞をつける方法は、ディランだけでなくウディや当時の多くのフォーク・シンガーが採っていた方法で、 "1913 Massacre" が他の曲を参考にしている可能性もある)。もう1つの自作曲「ニューヨークを語る」もウディの "Pretty Boy Floyd" の歌詞を一部参考にしており、他の曲でも歌い方を真似ていたり、その影響の大きさが聴かれる。

    死にかけて」でディランは、スライド奏法でギターを弾いている。ライナー・ノーツには彼の恋人「スージー・ロトロから借りた口紅の容器でスライドさせている」と記載されているが[51]、ロトロは「わたしは口紅を使ったことがなかった。」とそれを否定している[52]

    反響・評価[編集]

    1962年3月にアルバムはリリースされた[53][注 5]ライナー・ノーツにはニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたロバート・シェルトンの記事とステイシー・ウイリアムズによるディランの略歴と曲解説が掲載された[54](ステイシー・ウイリアムズとはロバート・シェルトンの別名であり同一人物である[55][56])。業界の噂ではコロンビアのある重役はディランに "Hammond's Folly" (日本語訳は、「ハモンドの道楽」、「ハモンドの愚行」)のレッテルを貼ったと言われた[57][58]。アルバムのこの年の売り上げ枚数は、2,500枚とも、4,200枚とも[59]5,000枚とも[60]言われている[61]

    しかし1963年になるとディランは新しいフォーク・アーティストとして期待され始め、アルバムは1963年グラミー賞最優秀フォーク・レコーディングにノミネートされた[62]

    アメリカではチャート・インしなかったが、1965年の英国ツアー中だった5月8日全英アルバム・チャートに初登場し、最高は13位を記録してチャート内に6週間とどまった[63]

    チャート[編集]

    アルバム
    チャート 最高順位
    1962年 ビルボード・トップ LP's
    1965年 全英アルバム・チャート Top 75 13
    — は、ランク外

    リリース[編集]

    米国
    日付 レーベル フォーマット カタログ番号 付記
    1962年3月19日[64] Columbia LP CL 1779 モノラル
    CS 8579 ステレオ
    Columbia CD CK 8579
    日本

    1962年当時日本ではリリースされず、1966年になって異なるジャケット・カバー写真、異なる曲順の『ボブ・ディラン第3集』(CBS日本コロムビア)としてリリースされた。1968年にオリジナル通りのジャケット、曲順でCBSソニーよりリリースされた。2005年、紙ジャケCDがオリコンでチャート最高204位を記録した[65]。これまで日本盤では、1曲目の曲名が "She's No Good" と表記されてきたが、2005年のリマスター盤からは米国コロムビア・レコードの通りに "You're No Good" と修正されている。

    日付 レーベル フォーマット カタログ番号 付記
    1966年5月 CBS/日本コロムビア LP YS-611-C 『ボブ・ディラン第3集』
    1968年 CBSソニー LP SONP-50210
    1974年 CBSソニー LP SOPL-220
    1976年 CBSソニー LP 25AP 268
    1988年11月21日[66] CBSソニー CD 25DP 5281
    1993年9月22日[67] ソニー CD SRCS 6331 NICE PRICE LINE
    1997年2月1日[68] ソニー CD SRCS 9239 SUPER NICE PRICE 1600
    2005年9月21日[69] ソニー CD MHCP-835 2005年デジタル・リマスター、紙ジャケ、完全生産限定盤、"You're No Good"表記
    2006年12月20日[70] ソニー CD MHCP-1213 2005年デジタル・リマスター、NICE PRICE
    2009年8月26日[71] ソニー Blu-spec CD SICP-20213

    脚注[編集]

    注釈[編集]

    1. ^ ロトロ(2010年)、p. 172。「九月二十六日の『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された」と記述しているが誤り。
    2. ^ スカデュト(1973年)、p. 156。「キャロリン・ヘスター。『私のレコーディング・セッションの日はあの批評がでた日で、』」と記述。
    3. ^ ヘイリン(1990年)、p. 37。「SEPTEMBER 29th, 1961 キャロリン・ヘスターのレコーディングのための「西10番ストリートのリハーサル」に参加する。コロンビア・レコーズプロデューサージョン・ハモンドも同席する。当然のことながら、ディランはその日ニューヨーク・タイムズ紙に載ったレヴューをハモンドに見せる。[RS]」とする説もある。
    4. ^ ブートレッグ・シリーズ第1〜3集(1991年)、「3/19/62」と表記。
    5. ^ スカデュト(1973年)、p. 175。「アルバムは二月の終りに発売された。」と記述。

    出典[編集]

    1. ^ 『ボブ・ディラン全詩302編』晶文社
    2. ^ スカデュト(1973年)、pp. 148-151。
    3. ^ スーンズ(2002年)、pp. 106-107。
    4. ^ ディラン(2005年)、pp. 344-345。
    5. ^ スカデュト(1973年)、p. 154。「九月二六日に始まる二週間の仕事の契約を、マイク・ポーコは再びディランとかわした。リード・アクトとして、グリーンブライア・ボーイズも、同じちらしに載っていた。」
    6. ^ Santelli (2005年)、p. 17。
    7. ^ ディラン(2005年)、p. 346。「当時、わたしはアメリカ一のフォーククラブ、ガーディス・フォーク・シティにブルーグラスバンド、グリーンブライアー・ボーイズといっしょに出演していた。」
    8. ^ スカデュト(1973年)、p. 154。「ディランは<タイムズ>誌のインタヴューに応ずる用意がやっとできた。そして、そのオープニングの晩に、シェルトンがやってきたのだった。」
    9. ^ スーンズ(2002年)、p. 107。「演奏のあとは、裏のキッチンで、生まれて初めてのインタヴューがおこなわれた。」
    10. ^ Shelton (1961年)
    11. ^ ディラン(2005年)、p. 346。「そして『ニューヨーク・タイムズ』紙のフォーク&ジャズのコーナーに、わたしを絶賛するコンサート評が載った。」
    12. ^ ロトロ(2010年)、pp. 174-175。「『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたロバート・シェルトンのコンサート評。」(写真)
    13. ^ ヘイリン(1990年)、p. 37。「SEPTEMBER 30th, 1961 ニューヨークのCBSのスタジオでおこなわれたキャロリン・ヘスターのレコーディングで、ハーモニカを吹く。」
    14. ^ スーンズ(2002年)、p. 108。「つぎの日、キャロリン・ヘスターのレコーディングセッションで、」
    15. ^ ディラン(2005年)、p. 346。「『ニューヨーク・タイムズ』の記事が出たのはキャロリンのレコーディング・セッションの前日の夜で、」
    16. ^ リバコブ(1974年)、p. 47。
    17. ^ ディラン(2005年)、p.346。
    18. ^ リバコブ(1974年)、p. 47。「タイムズの批評を見せて、自分がどんな才能を持っているかガーディズへ聞きに来てくれと言った。」
    19. ^ スカデュト(1973年)、p. 156。「キャロリン・ヘスター。『(中略)ディランはそれを持ってきていました。まったく、彼はそれに大喜びしていました。』」
    20. ^ スーンズ(2002年)、p. 108。「ボブは友人たちがまだ読んでないかのように『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事を見せてまわった。」
    21. ^ スカデュト(1973年)、p. 156。「キャロリン・ヘスター。『(中略)それに、ディックも私もその記事を持っていました。そのセッションでギターを弾いていたブルース・ラングホーンも、それを持っていました。そんな調子ですから、ハモンドもそれを見たわけです。』」
    22. ^ ディラン(2005年)、p.346。「次の日の朝、ハモンドは新聞を読んだ。」
    23. ^ スカデュト(1973年)、p. 156。「キャロリン・ヘスター。『(中略)ハモンドもそれを見たわけです。私たちは、毎日スタジオで仕事をしていましたが、私には、ハモンドがますます彼に魅かれていくのがわかりました。』」
    24. ^ ロトロ(2010年)、p. 181。「『ニューヨーク・タイムズ』の記事が効果を発揮していた。」
    25. ^ スカデュト(1973年)、p. 156。「ハモンド。『前に取り決めた日に、約束どおり彼がやってきて、デモンストレーション用に、何曲かやった。まず最初に、『ニューヨークを語る』をやったが、聴いたとたん、私はいっぺんで気に入ってしまった。君にコロンビアでレコードを作って欲しい、と私は言って、さっそく契約書の作成にとりかかった。』」
    26. ^ スーンズ(2002年)、p. 108。「たしかに、契約の前に形式的なオーディションがおこなわれた可能性はある。」
    27. ^ ディラン(2005年)、pp. 347-348。
    28. ^ リバコブ(1974年)、p. 47。「ハモンドは歌手であった息子からディランの才能についてはあらかじめ聞いていた。ハモンドの息子はディランを激賞していたのである。」
    29. ^ スーンズ(2002年)、p. 106。「ハモンド・ジュニアはヴィレッジにいる若いミュージシャンたちのことを父親に話し、そのなかにボブもいた。」
    30. ^ スーンズ(2002年)、p. 112。「この二週間後の感謝祭の直前、彼はマンハッタンにあるコロムビアのAスタジオに入り、デビューアルバム『ボブ・ディラン』を録音した。」
    31. ^ ヘイリン(1990年)、p. 39。「NOVEMBER 20th & 22nd,1961 わずか2回のレコーディング・セッションで1枚目のアルバムを録音する。プロデューサーはジョン・ハモンド。」
    32. ^ スカデュト(1973年)、p. 168。「そして、コロンビアがそのアルバムを作るのに使った費用は、正確に四〇二ドルだった。」
    33. ^ Scaduto (1973年)、p. 124。"At the end of November, 1961, Suze went into the studio with Bob for one of his recording sessions"
    34. ^ ディラン(2005年)、p. 344。「コロンビア・レコードでレコーディングを始めたときも、スージーがそばにいた。」
    35. ^ ロトロ(2010年)、pp. 183-184。
    36. ^ ヘイリン(1990年)、p. 39。
    37. ^ ブートレッグ・シリーズ第1〜3集(1991年)
    38. ^ ブートレッグ・シリーズ第1〜3集(1991年)
    39. ^ ヘイリン(1990年)、p. 39。
    40. ^ スカデュト(1973年)、p. 168。
    41. ^ リバコブ(1974年)、p. 137。
    42. ^ Scaduto (1973年)、p. 125。"I said no. I can't see myself singing the same song twice in a row. That's terrible."
    43. ^ リバコブ(1974年)、p. 48。
    44. ^ Santelli (2005年)、p. 15。
    45. ^ スカデュト(1973年)、pp. 168-169。
    46. ^ ディラン(2005年)、p. 325。
    47. ^ ディラン(2005年)、p. 66。
    48. ^ ディラン(2005年)、p. 282。
    49. ^ ローダー(1988年)、p. 34。
    50. ^ ディラン(2005年)、p. 326。
    51. ^ Williams (1962年)。"The guitar is fretted with the lipstick holder he borrowed from his girl, Susie Rotolo"
    52. ^ ロトロ(2010年)、p. 183。
    53. ^ リバコブ(1974年)、p. 143
    54. ^ Williams (1962年)
    55. ^ ヘイリン(1990年)、p. 37。「LATE DECEMBER 1961 ロバート・シェルトンが2度目のインタヴューをする。(中略)シェルトンはステイシー・ウィリアムズの筆名で、このインタヴューを材料にし、ディランのファースト・アルバムのライナー・ノーツを書いた。」
    56. ^ ロトロ(2010年)、p. 183。「アルバムが発売されたとき、ロバート・シェルトンが「ステイシー・ウイリアムズ」という別名で書いたライナー・ノーツを呼んで、わたしは笑ってしまった。」
    57. ^ スカデュト(1973年)、p. 176。
    58. ^ スーンズ(2002年)、p. 121。
    59. ^ Siegel (1966年)
    60. ^ スカデュト(1973年)、p. 176。「最初の年はたった五千枚売れただけで、コロンビアにとっては、損も得もない五分五分の収支だった。」
    61. ^ スカデュト(1973年)、p. 176。
    62. ^ “Complete List of NARAS Awards Nominees”. Billboard (The Billboard Publishing Company) (April 20, 1963): p. 30. http://books.google.co.jp/books?id=YQsEAAAAMBAJ&lpg=PA30&dq=1963%20bob%20dylan%20billboard&pg=PA30#v=onepage&q&f=false 2011年3月4日閲覧。. 
    63. ^ ヘイリン(1990年)、p. 261。「May 8th, 1965 (中略) <<BOB DYLAN>> が UK チャートに初登場。最高時は13位まで上昇。チャート内に6週とどまる。」
    64. ^ Bob Dylan” (英語). bobdylan.com. 2011年3月3日閲覧。 “03/19/1962”
    65. ^ ボブ・ディラン(MHCP-835)”. オリコン. 2009年8月11日閲覧。
    66. ^ ボブ・ディラン(25DP-5281)”. オリコン. 2009年8月11日閲覧。
    67. ^ ボブ・ディラン(SRCS-6331)”. オリコン. 2009年8月11日閲覧。
    68. ^ ボブ・ディラン(SRCS-9239)”. ソニー・ミュージック. 2009年8月11日閲覧。
    69. ^ ボブ・ディラン(MHCP-835)”. ソニー・ミュージック. 2009年8月11日閲覧。
    70. ^ ボブ・ディラン(MHCP-1213)”. ソニー・ミュージック. 2009年8月11日閲覧。
    71. ^ ボブ・ディラン(SICP-20213)”. ソニー・ミュージック. 2009年8月11日閲覧。

    参考文献[編集]

    関連文献[編集]

    外部リンク[編集]