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ボナンノ一家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボナンノ一家またはボナンノ・ファミリー(ボナンノいっか、英:Bonanno family)は、アメリカを拠点とするイタリア系(シチリア系)マフィア組織(コーサ・ノストラ)。ニューヨーク五大ファミリーの1つ。20世紀初頭ニューヨークのブルックリンで結成されたマフィアサークルを源流とし、シチリアのカステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身者(以下、カステラマレ派と略記)を中心としていた。

1930年代初頭、カステラマレ派がサルヴァトーレ・マランツァーノ(1925年渡米)を中心に当時マフィアの最大勢力だったジョー・マッセリアと抗争し、勝利した(カステランマレーゼ戦争)。程なく暗殺されたマランツァーノを継いでボスとなったジョゼフ・ボナンノ以降は、ボスが代替わりしても「ボナンノ・ファミリー」と一般に呼称され続けている。

初期

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1890年代からアメリカへのイタリア移民の流入が増え、ニューヨークでもシチリア系移民街が各地に作られた。1900年代半ば、ブルックリン北部ウィリアムズバーグの移民街で2つのマフィアサークルが混ざり合い、マフィアファミリーが形成された。パレルモ地方出身者4人(アントニオ・ガバナール、パウロ・オルランド、ニコラ(コラ)・シーロ、サルヴァトーレ・グリッピ)をリーダーグループとする集団と、カステラマレ出身のセバスティアーノ・ディガエタノのカステラマレ系集団で、同じテリトリーだった為、結合した[注釈 1]

ディガエタノは、1910年のジュゼッペ・モレロの収監後に開かれたマフィア会議で一時的に全米マフィアリーダー(ボスの中のボス)に選ばれたが、心神喪失の理由で程なく、サルヴァトーレ・ダキーラにその地位を譲り、ファミリーのボスも1912年頃コラ・シーロに譲った[1][2]

1912年当時のニューヨークには、モレロ一家、ダキーラ派、アル・ミネオ派、カステラマレ派(コラ・シーロ一家)の4つのマフィアグループがあり、ダキーラ派を除く3者は互いに提携しているが、ダキーラ派とは対立していた[注釈 2][3][4][5]。モレロ一家とダキーラ派は1910年代半ばまで流血抗争を続けるが、カステラマレ派の関与は不明である。

ファミリーメンバーは次第にカステラマレ出身者が主流となった。初期の主なメンバーに、ヴィト・ボンヴェントレ、サルヴァトーレ・ボナンノ、マリアーノ・ギャランテ、ベンジャミン・ギャロ、ガスパー・ミラッツォ、ステファノ・マガディーノ、サルヴァトーレ・サベッラ、フランク・ガロファロらがいた(ボナンノ、ボンヴェントレ、マガディーノは互いに縁戚関係)[1]

グッドキラーズと禁酒法時代

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ボンヴェントレの作った武闘組織グッドキラーズが1910年代を通して同郷のブチェラート一家との抗争[注釈 3]に明け暮れ、アメリカ北東部でライバルや反逆者の処刑に暗躍した。1920年代初めに抗争が収束した。マガディーノやミラッツォはニューヨークを去り、それぞれバッファローやデトロイトのカステラマレ派のボスになった。カステラマレ派は他のシチリア系派閥と同様、アメリカ北東部中心に同郷ネットワークを持ち、各派閥の中でも結束力が強いことで知られ、危急時は互いに連携した。

禁酒法時代、ボスのコラ・シーロの下、ボンヴェントレなど多くが酒の密輸ビジネスに没頭し、富豪になった。

1920年代前半、恩赦で出所したモレロが一線に復帰すると、モレロ一家とダキーラ派は再び抗争を始めたが、モレロは敵の有力者の粛清にグッドキラーズを利用したとの説がある[注釈 4]。その後、モレロはリトルイタリーの密輸利権で頭角を現したジョー・マッセリアと組み、反ダキーラで共闘した。マッセリアはモレロやアル・ミネオの支持の元、ニューヨーク各地のイタリア系ギャングを取り込み、デトロイトやシカゴなどニューヨークの外にも進出した。1928年ダキーラは暗殺され、マッセリアはダキーラ派を支配下に置いた[2][8]

カステランマレーゼ戦争

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1930年にかけてマッセリアに圧力をかけられたシカゴのジョー・アイエロ(カステラマレ派の一員)やデトロイトのミラッツォは抵抗し、バッファローのマガディーノは取り合わず、シーロファミリー有力者のマランツァーノはマッセリアと会談したが協力を断った。やがて平和主義者のコラ・シーロはマッセリアに上納金を払ってニューヨークを去り、副ボスのジョー・パリッノはマッセリアに譲歩を続け、やがてマッセリアの傀儡になっていたことが判明して内部粛清された。

1930年5月、ミラッツォがデトロイトで暗殺されると、ボス不在のシーロファミリーの武闘派がマランツァーノをリーダーに担ぎ上げて戦闘態勢を敷いた[注釈 5][注釈 6]。ヴィンセント・ダッナ、カロゲロ・デベネディット、ジョゼフ・ボナンノガスパール・ディグレゴリオ、セバスティアーノ・ドミンゴ、ナターレ・エヴォラ、バッファローのマガディーノらがマランツァーノをサポートし(第一親衛隊、Boys of the First Day)、その下に暗殺チームを組織した。

報復合戦となり、7月にシーロファミリーの重鎮ボンヴェントレ、8月にマッセリアの参謀ジュゼッペ・モレロが相次いで凶弾に倒れた。9月、マッセリア陣営だったトミー・ガリアーノ一派(現ルッケーゼ一家)が密かにマランツァーノ陣営に加わり、11月、その合同暗殺チームがマッセリア派の中核アル・ミネオの殺害に成功した。マッセリア陣営に離反の動きが相次ぎ、中立派はカステラマレ陣営に鞍替えした。1931年4月15日、マッセリアは自身の部下の裏切りにより謀殺され、戦争は終結した[2][10][11]

マランツァーノ暗殺

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マランツァーノは複数回ギャング集会を開いて戦争の勝利を祝い、新たな戦争に備えてファミリー内外から寄付金を募った。ニューヨークマフィアの既存勢力を五大ファミリーとして認定し、マフィアの行動ルールを決め、自らボスの中のボスと宣言した[12]

1931年9月10日、マランツァーノは国税捜査官を装った4人組に白昼オフィスビルで暗殺された。マッセリアを継いでボスとなっていたラッキー・ルチアーノの仕業と信じられた。マランツァーノはルチアーノやその取り巻きを不穏分子とみなし、暗殺を狙っていたが、これを知ったルチアーノが先回りしたとの説もある[2]。カステラマレ派、とりわけマランツァーノを支えた第一親衛隊は、復讐その他対抗措置をとらなかった。マッセリアの死から半年間、マランツァーノは多くの戦勝パーティで集めた寄付金を独り占めにし、現場の戦いに参加した部下や資金協力したマガディーノらに恩賞として還元せず、尊大に振る舞うようになったため、部下は離反していた(マランツァーノ殺しはマガディーノやボナンノらの事前の了解を得ていたとの説がある)[2][注釈 7]

ボナンノのボス就任

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ボス投票が行われ、マガディーノに支持されたジョゼフ・ボナンノがフランチェスコ・イタリアーノを負かして新ボスに選出された。ボナンノはその後30年以上一家のボスに君臨し、合法・非合法ビジネスを全米に展開した。副ボスは、初期のサルヴァトーレ・グリッピからヴィト・ボンヴェントレ(1930年没)を経て短期間アンジェロ・カルーソが継ぎ、ボナンノ体制以降は、フランク・ガロファロ(1956年引退)からジョン・モラール(英語名:モラレス)へ引き継がれた。相談役は、ボナンノ以降フィリッポ・ラッパ、1940年以降ジョン・タルタメッラが務めた[14]

ボナンノは、マフィアの協定を侵してアリゾナにも進出し不動産開発や保険業を展開、綿農園を買収し、カナダのモントリオールにも地歩を伸ばしヘロイン密輸の一大拠点にして一家の幹部カーマイン・ギャランテを派遣して管理させた。カナダへの侵攻は、カナダ南部の利権を保持していたバッファローのマガディーノの反発を招き、親族にもかかわらず互いに冷戦状態となった。またユダヤ系のマイヤー・ランスキーとキューバの賭博事業に投資し、ハイチに独自の賭博投資を行なった。ボナンノは全米・海外にまたがる自分のビジネスに没頭し、ニューヨークの縄張りを蔑ろにしたため部下は儲けを失い、不満がくすぶったと伝えられた[15][16]

他ファミリーの内部争いには不干渉のスタンスを取った。1957年、ヴィト・ジェノヴェーゼフランク・コステロの間で熾烈な権力闘争が起こっている間、ボナンノは南国のバカンスで肌を焼いたり、ビジネスパートナーとの会議に明け暮れた。ニューヨークに帰るたびに他ファミリーのボスが変わっていることに驚いた[17][18]

バナナ戦争

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1956年、ボナンノはプロファチ一家のボス、ジョゼフ・プロファチと政略結婚を通じて姻戚関係を築き、連携を強化した[19][20]。1957年の権力闘争の結果ボスになったカルロ・ガンビーノは1962年、ルッケーゼ一家のボス、トーマス・ルッケーゼと姻戚関係を結び、ボナンノ―プロファチ同盟に対抗した。

1962年6月に病死したプロファチの後を継いだジョゼフ・マリオッコは、ガンビーノ、ルッケーゼ、マガディーノらの暗殺を企てたとしてガンビーノ主導のコミッションに糾弾され、1963年の夏、ボス辞任を余儀なくされた(ほどなく病死した)。1963年12月、マリオッコと暗殺計画を共謀したとしてコミッションに釈明を求められたボナンノは会議に現れず、翌年2月、タルタメッラの引退で空いた相談役のポストに息子のビルを据えた後、1950年代以降地盤を築いていたアリゾナのツーソンに退避した。一説に自分を差し置いてビルを相談役に据えたことに反発した古参幹部のガスパール・ディグレゴリオがマガディーノに苦情を言いに行き、ボナンノに反旗を翻すようマガディーノから説得された[14][18]

1964年10月、ボナンノはマガディーノ一味に誘拐され、消息不明となった(裁判所の召喚予定日の前日に誘拐されたため、誘拐は当局の追及を逃れるための自作自演だったとも)。ボナンノは息子のビルにファミリーを継がせ自分は引退するという考えで譲歩を迫ったとされるが、ビルを通じた支配力が温存されると見たガンビーノに拒否された。ボナンノは6週間で解放され、その後は各地を転々とした[21]

1965年1月、コミッションは一家のボスの座を剥奪してガスパール・ディグレゴリオを新ボスに就かせた(ボナンノは受入拒否)。ファミリーはボナンノに忠誠を誓うグループと、ディグレゴリオの造反グループに分裂した。1966年1月、ビル・ボナンノ暗殺未遂事件[注釈 8]を機に抗争状態に突入した(『バナナ戦争』)。1967年11月、ボナンノ側の刺客とみられる黒装束のガンマンがレストランに乱入し、造反派3人をマシンガンで殺害した[22]

分裂の背景には地元ニューヨークより全米や海外のビジネスを優先しているボスへの内部の不満があったとも、長年の奉仕にもかかわらず息子を相談役に据えたボナンノのトップ人事に対する古参幹部の反発があったともされるが、騒動が長引いたのは一家の弱体化を狙うガンビーノの扇動が強く働いていたとも言われた[2]

健康が悪化したディグレゴリオは、1966年後半、ファミリーのオペレーションを行っていた配下のポール・シャッカにボスの座を譲った。1967年秋、コミッションがシャッカのボス就任を公認した[2][15][16][18][22][23]

1968年11月、持病が再発し、本当の引退を余儀なくされたボナンノは、息子ビルと共に忽然とニューヨークから姿を消し、事実上引退した(ツーソンに移住)[16]。コミッションと取引し、ニューヨークのファミリー利権を放棄すること、互いに報復行為は行わないことなどを条件にニューヨークを去ったと伝えられた[21]。1969年2月のシャッカ派1名の銃殺事件の後、抗争は収束に向かった。バナナ戦争は、銃撃事件12件、死亡6名、負傷6名とされた[22]

ボナンノ引退後

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その後、ボスの座は、ナターレ・エヴォラフィリップ・ラステリへと引き継がれた[2]

1970年代には、カナダモントリオールヴィト・リッツートが起こしたリッツート一家と繋がりを持ち、麻薬取引を行う。その中心となったのは、シチリア出身のZIPSと呼ばれるメイドマンであった。

その後、麻薬取引の罪で収監されていた、一家の大幹部のカーマイン・ギャランテは出所すると共にボスの座を当時収監中のラステリから1975年に奪った[2]。ギャランテは収監中から、出所したら五大ファミリーを制圧して、当時最有力のボスであるカルロ・ガンビーノをして "Shit in the middle of Times Square!" 「タイムズスクウェアのど真ん中でクソをさせる」と豪語していた。ガンビーノの後を継いだポール・カステラーノ、ジェノヴェーゼ一家のボスのフランク・ティエリらは共謀して1979年にギャランテの暗殺に成功した[2]

ギャランテの死後、再びフィリップ・ラステリが獄中からボスとなったが、彼は1991年に獄死。その間に、内紛によりアルフォンス・インデリカートら大物幹部が殺害されたり、FBIの潜入捜査官ドニー・ブラスコことジョゼフ・ピストーネの壊滅作戦により多くの幹部が逮捕されるなど、組織は弱体化した。ピストーネの壊滅作戦は、『フェイク』として映画化された。

その後、ラステリの後を継いだジョゼフ・"ビッグ・ジョーイ"・マッシーノは強引な手段により勢力回復に一旦は成功したが、逮捕後の2004年に死刑回避のためにマフィアのボスとしては初めて当局の情報提供者となり(翌2005年に終身刑の判決)、ファミリーの権威は完全に地に墜ちた。

現在のボス代行は2009年から就任したヴィンセント・バダラメンティ(Vincent "Vinny T.V." Badalamenti)であり、彼は2012年1月に逮捕されている。

ボナンノ一家のボス

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関係者

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脚注

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注釈

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  1. 1906年、チュニスのシチリア移民街のマフィアファミリーのボスだったパウロ・オルランドが渡米し、オルランドと同郷のカンポレアーレ出身のガバナール、ロッカメーナ出身のシーロ、パルティニーコ出身のグリッピと共にリーダーグループを形成。一方、1898年に渡米したカステラマレ出身のディガエタノは1900年代を通してUSSS(秘密警察)にマークされており、同郷マフィアのリーダー的ポジションにいたとみられた[1]
  2. モレロと共に秘密警察USSSに捕まったサルヴァトーレ・クレメンテがニューヨークのマフィア情勢を証言した。流血抗争は今後も起きると予言し、その通りになった。
  3. シチリア島カステラマレで19世紀末にマガディーノ-ボンヴェントレ-ボナンノ家とブチェラート家が抗争し、双方のメンバーが渡米したためアメリカに舞台を移して抗争を続けた[6]
  4. モレロが刑務所にいた10年の間にニューヨークのマフィア勢力図は一変し、ダキーラ派やその傘下がハーレムのモレロの縄張りを侵食していた。モレロは、水面下でカステラマレ派と手を組み、複数のダキーラ系の有力者をグッドキラーズを使って粛清し、勢いを取り戻したという[7]
  5. マランツァーノが正式にカステラマレ派ボスとして選ばれた形跡はなく、また幹部でもなかったが、戦時司令官(戦争のリーダー)としてマガディーノら有力者の信認を得ていた。またマランツァーノは表向き実業家で、酒の醸造所の操業などに多くのカステラマレ派メンバーを雇った[2]
  6. 一説に、シーロの逃亡とボンヴェントレの死によってマランツァーノがシーロファミリーの実権を握った[9]
  7. マランツァーノ暗殺前後の事情について、後年ボナンノ父より息子ビルが聞き取ったとされる内容(抜粋):マランツァーノのボス宣言の後、仲間はマランツァーノと距離を置き始めたことを父(ボナンノ)は感じ取った。2年間毎日のように顔を合わせていたのに、疎遠になっていった。仲間はマランツァーノに一種の義務意識がなくなっていると感じた。(ガスパール)ディグレゴリオは戦争の褒賞が遅れていることに不満を漏らした。父は結婚の準備をしていた時、仲間に対するマランツァーノの振る舞いに不平が言われているのを聞いた。マランツァーノは約束の会議にもよく遅れ、尊大に横柄に振る舞うようになった。今までの彼に見られなかった態度だった。父は彼らの不満は他愛のないことで、気にしすぎているだけと最初は思っていた。父の回想だと、ある夕食会では、マガディーノとディグレゴリオが、マランツァーノがいかに自分らを軽蔑しているか語り合うのを、延々聞かされる羽目になったという。1931年9月10日、(セバスティアーノ)ドミンゴからの電話でマランツァーノが殺されたことを知り、ドミンゴもトップの幹部も誰がやったか何の情報も持っておらず、次は誰が狙われるかということで頭が一杯で、とにかくみんな隠れた。マガディーノかと思ったが違った、少なくとも暗殺の仕掛け人ではなかった。父はマランツァーノ暗殺で本当に困惑した。この時代の我々の歴史を、父と何度も議論したが、父が細部に触れることを嫌がるのが、マランツァーノの死に話が及んだときだった。マランツァーノの死後、マガディーノから、「ルチアーノが殺害の首謀者であり、早急に話し合いを持ちたがっている、戦争の可能性がある」とのメッセージを受領したという。アンジェロ・カルーソは代理ボスとして乗り込んできたが、もしトラブルが起こるとしたら、Boys of the First Dayの(ヴィンセント)ダッナ、ディグレゴリオ、マガディーノ、(ナターレ)エヴォラ、(カロゲロ)デベネディットからだった。ルチアーノはカルーソに話し合いを求めた。我々の世界の慣習ではルチアーノが特定の個人と接触するのを許容しなかったので、誰を送り込むか一家のミーティングを招集した[13]
  8. 1966年1月28日、ビル・ボナンノはディグレゴリオ配下の平和会談の呼びかけに応じ、部下2人と会合場所である大叔父の家に着いた時、通りの向かい側からいきなり大量の銃砲を浴び、走って逃げながら撃ち返したが、両サイドとも、誰も被弾しなかった[16][22]

出典

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  1. 1 2 3 Family Origin, New York Mafia Membership Charts
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 THE AMERICAN MAFIA - New York Mob Leaders, Bonanno Thomas Hunt
  3. The Struggle for Control - The Gangs of New York
  4. The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931, David Critchley, P.157
  5. The First Family: Terror, Extortion, Revenge, Murder, and the Birth of the American Mafia, Mike Dash, P. 248
  6. The Good Killers 1921's Glimpse of the Mafia THE AMERICAN MAFIA Thomas Hunt and Michael A.Tona
  7. THE MORELLO FACTION - BIOS., Giuseppe Morello Mafia Membership Charts
  8. Critchley, P.155 - P.156
  9. Critchley, P.180
  10. Critchley, P.165 - P.185
  11. Biography of Giuseppe Masseria Mafia Membership Charts
  12. Critchley, P.188
  13. Mafia: The Final Secrets: The Last Confessions of a Mob Godfather, Bill Bonanno & Gary B. Abromovitz, 2011
  14. 1 2 Bios. of early Bonanno members Mafia Membership Charts
  15. 1 2 Bonanno, Joseph (1905-2002) The American Mafia Thomas Hunt
  16. 1 2 3 4 Joe Bonanno Dies; Mafia Leader, 97, Who Built Empire SELWYN RAAB, 2002, New York Times
  17. ボナンノ自伝, Man of Honor, 1983
  18. 1 2 3 JOSEPH BONANNO Biography: The Crime Library
  19. A Wedding In The Family Los Angeles Times, June 01, 1986
  20. The Complete Idiot's Guide to the Mafia, 2nd Edition, Jerry Capeci, P. 213
  21. 1 2 Five Families: The Rise, Decline, and Resurgence of America's Most Powerful Mafia Empires Selwyn Raab, P. 163 - P. 167
  22. 1 2 3 4 The Shoot-Out of Troutman Street: The Mafia At War GangsterInc, 18 February 2020
  23. Report of Ralph Salerno, 264-268(通し番号) HSCA, United States House Select Committee on Assassinations, 1979