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ボスニア王国

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ボスニア王国
Bosansko kraljevstvo
Босанско краљевство
バンによるボスニア統治時代 1377年 - 1463年 オスマン帝国
聖サヴァ公国
ボスニア王国の国旗 ボスニア王国の国章
(国旗) (国章)
ボスニア王国の位置
1180年から1391年にかけてのボスニアの支配領域の変化
首都 ヴィソコヤイツェ
国王
1377年 - 1391年 スチェパン・トヴルトコ1世
1461年 - 1463年スティエパン・トマシェヴィチ
変遷
スチェパン・トヴルトコ1世の戴冠 1377年
オスマン帝国の征服1463年

ボスニア王国(ボスニアおうこく、ボスニア語: Banovina Bosna/Босɖɴскɖ бɖɴоvнɴɖ)は、中世のボスニアに存在していた国家である。

歴史

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成立の経緯

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1180年ごろからボスニアはバン(首長)の支配下の元に独立し、時には他国の君主に臣従を誓っていた[1]1318年にボスニアのバンとなったスチェパン・コトロマニッチ英語版の時代にボスニアは勢力を拡大し、同盟者であるハンガリー王国の保護下で北西に支配領域を広げ、1326年セルビアの支配下に置かれていたフム(ザクルミア英語版、現在のヘルツェゴヴィナ)を併合した[2]

1353年にスチェパン2世が没した後、彼の甥であるスチェパン・トヴルトコ1世英語版が地位を継承するが、即位直後に多くの領土を喪失する[3]。1360年代にトヴルトコ1世は支配権を回復し、1370年代にはフム全域とセルビアの支配下に置かれていたサンジャク地方の大部分を併合した。1371年にセルビアのネマニッチ朝が断絶した後、セルビア王ステファン・ドラグティンのひ孫にあたるトヴルトコ1世はセルビア王位を請求した[4]。1377年にトヴルトコ1世は「セルビアとボスニアの王」として戴冠し、トヴルトコ1世以降のボスニアの君主は王を称する[5]

トヴルトコ1世の時代、ボスニアは没落したセルビアに代わるバルカン半島最大の国家となる[6]。即位後、トヴルトコ1世はハンガリーの内乱に干渉し、クロアチアダルマチアに勢力を広げる。セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチからは、援助の見返りとしてトラヴニャ英語版からコトルに至るアドリア海沿岸部の地域を割譲された[7]1378年にトヴルトコ1世はブルガリア帝国の皇女と結婚しており、この婚姻よりトヴルトコ1世にはアドリア海から黒海に至る大国を建設する野心があったと推測する意見もある[7]1390年にトヴルトコ1世は自身が用いる称号に「クロアチアとダルマチアの王」を加えた[8]。しかし、アドリア海沿岸部の都市のうち、ヴェネツィアの支配下にあったザダル(ザラ)、ハンガリー王国の保護下にあったドゥブロヴニク(ラグーザ)はボスニアの支配から離れていた[9]

トヴルトコ1世はセルビアと連合してオスマン帝国のバルカン半島への進出の阻止を試みたが、1389年コソヴォの戦いでオスマン軍に敗北を喫する[7]。トヴルトコ1世の没後、1398年にボスニアに初めてオスマン軍が侵入する[10]

王国の内争、オスマン帝国の進出

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15世紀に入ると国王と諸侯の抗争が頻発し、オスマン帝国、ハンガリー、セルビア公国が内訌に介入した[8]。トヴルトコ1世の死後に弱体の国王が相次いで即位すると大貴族の王位への影響力が増し、王国で選挙王政の原則が構築される[11]

1398年に即位した国王スチェパン・オストヤ英語版は外国との関係を緊密にしようと努力した[12]1403年にオストヤは大貴族との協定を破って、大貴族の一人であるパヴレ・クレシッチの氏族地を没収する[13]。オストヤはクレシッチの亡命先であるドゥブロヴニクと彼の引き渡しを巡って争うが敗北し、国内の大貴族はより結束を強めた[13]1404年にオストヤは廃位されてハンガリーに追放され、この年からボスニアで選挙王政が確立する[13]

オストヤの廃位後にスチェパン・トヴルトコ2世英語版が国王に選出されるが、トヴルトコ2世の即位を知ったハンガリー王ジグモンド神聖ローマ皇帝ジギスムント)はボスニアを執拗に攻撃したハンガリーへの敗戦によって支持を失ったトヴルトコ2世は1409年に国外に亡命し、選挙を経てオストヤが国王に再選した。オストヤの復位後、大貴族のフルヴォイエはオスマン軍の力を借りてボスニア内に駐屯するハンガリー軍を追放しようと試みた。1415年にハンガリーから報復の軍隊が派兵され、ラシュヴァ渓谷英語版近辺の戦いでボスニア・オスマン連合軍はハンガリーに勝利を収めた[14]。戦後、ボスニアはセルビアの支配下に置かれていたスレブレニツァの銀山を奪回する。

1421年にオストヤの長子スチェパン・オストイチが王位を追われ、トヴルトコ2世が復位する。1428年にボスニアはオスマン帝国に従属[15]、1430年代にセルビア公国がオスマン帝国から圧迫を受けると東ボスニアにセルビア人難民がなだれ込んだ[16]1448年にフムの支配者であるステファン・ヴクチッチ・コサチャはボスニアへの臣従を破棄して「フムと沿岸地方のヘルツェグ(公爵)」を名乗り、ステファンの支配地はヘルツェゴヴィナと呼ばれるようになる[16]。国王スチェパン・トマシュ英語版はドゥブロヴニクと同盟を結んでヴクチッチに対抗し、孤立したヴクチッチは1454年にボスニア、ドゥブロヴニクと和約を結んだ[17]

やがてオスマン帝国はボスニアへの圧力も強め、1451年にヴルフボスナ(現在のサラエヴォ)が陥落する[16]1448年から1453年にかけて、ヴルフボスナ北部にボスニア最初のオスマン帝国の行政区画が設置された[17]1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープル陥落1459年6月にセルビアがオスマン帝国の軍門に下ると、オスマン軍のボスニアへの進路が完全に開かれる[10]1460年にボスニアはオスマン軍の攻撃を受けるが、教皇庁、ハンガリーから援軍は送られなかった[10]

滅亡

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1461年スティエパン・トマシェヴィチの戴冠式には、ローマ教皇ピウス2世が授与した王冠が使用される[18]。ピウス2世からの使節に勇気づけられたトマシェヴィチはセルビア王位継承権を有する妻から権利を相続してセルビアの王位を請求し、オスマン帝国への貢納を拒絶した[19]1463年5月にオスマン皇帝メフメト2世は、ボスニアがハンガリーと同盟を結んだことを理由にボスニアへの遠征を実施した[20]。遠征の開始から数週間後にボスニアはオスマン帝国によって征服され[21]、首都のヤイツェを放棄してクリュチに逃亡したトマシェヴィチは城塞に立て籠もって間もなく降伏した[19]。オスマン軍に捕らえられたトマシェヴィチは斬首され、ボスニア王国は滅亡する[10][21]

ボスニア征服の完了後にオスマン帝国は軍を引き上げたため、ボスニアの一部はハンガリーによって占領される[21]。しかし、ハンガリーの支配は長く続かず、1465年末までにボスニアの大部分がオスマン帝国の支配下に入った[21]。首都ヤイツェはハンガリーの支配下に置かれ、1527年/28年までオスマン帝国からの独立を維持した。

社会

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14世紀初頭にスチェパン2世が中央集権化を進めた時、ボスニアの大貴族は中央権力の統制に抵抗しつつ、自らの司法上の特権を拡大した[22]。スチェパン2世の跡を継いだトヴルトコ1世は関税徴収の強化、官制改革を実施し、大貴族の反発を受ける[11]。15世紀に入るとルサーグと呼ばれる大貴族の集団が議会において強い影響力を有するようになる[22]。中小貴族の立場は不安定であり、多くが大貴族に取り込まれた[23]

貴族たちは王位を統制する権利、国王による不当な逮捕や東国から守られる権利を有していた[24]。15世紀初頭には広義の選挙王政が成立し、2人以上の国王候補が現れた場合には政治集会の場で協議が行われた[25]

宗教

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ハンガリーから派遣された司法が追放されて以来、ボスニアには独立した教会(ボスニア教会)が存在していた[1]。およそ100年の間ボスニアにはカトリック教会の勢力が及ばない状態が続いていたが、1340年代に異端の非難を避けようと試みたスチェパン2世によって、フランシスコ会の宣教師が招かれた[26]。フランシスコ会の修道士は中世・オスマン支配時代を通してボスニア唯一のカトリックの聖職者であり、オスマン帝国のボスニア征服までに10数個の修道院が建立された[27]。1347年ごろにスチェパン2世はカトリック教会に改宗し、ステファン・オストヤを除いた全てのボスニアの王たちがカトリック教会の信徒となった[27]

君主がカトリックに改宗した後もボスニア教会は国家から許容されていたが、政治的な影響力を持つことはほとんど無かった[28]1459年ローマ教皇に支援を求めたボスニア王スチェパン・トマシュに対し、教皇側は援助と引き換えにボスニア教会への迫害を要請した[29]。教会の聖職者は改宗か国外追放かの二択を攻められ、多くがカトリックを受容し、少数の人間が隣接するヘルツェゴヴィナに移動した[30]

基盤に大打撃を受けたボスニア教会はオスマン帝国のボスニア征服後間も無く消滅し、教会の信者はギリシャ正教、カトリック、イスラームを受け入れた[31]

歴代国王

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代数 肖像 名前 生年 在位 没年 備考
初代 スチェパン・トヴルトコ1世英語版 1338年 1377年 - 1391年 1391年
第2代 スチェパン・ダビシャ 1339年以前 1391年 - 1395年 1395年 トヴルトコ1世の叔父
第3代 イェレナ 1345年 1395年 - 1398年 1399年 ダビシャの妃[32]
第4代 スチェパン・オストヤ ? 1398年 - 1404年 1418年 トヴルトコ1世の庶子の家系の出身[33]
第5代 スチェパン・トヴルトコ2世 ? 1404年 - 1409年 1443年 トヴルトコ1世の嫡子
第6代
復位
スチェパン・オストヤ ? 1409年 - 1418年 1418年
第7代 スチェパン・オストイチ ? 1418年 - 1421年 1422年 オストヤの長子
第8代
復位
スチェパン・トヴルトコ2世 ? 1421年 - 1443年 1443年
第9代 スチェパン・トマシュ 1411年 1443年 - 1461年 1461年 オストイチの弟
第10代 スティエパン・トマシェヴィチ 1438年 1461年 - 1463年
(セルビア公、1458年-1459年)
1463年 トマシュの長子
セルビア公、ボスニア王

脚注

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  1. ^ a b ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、24頁
  2. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28頁
  3. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、36-37頁
  4. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38頁
  5. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38-39頁
  6. ^ 柴宜弘『図説バルカンの歴史』増補改訂新版(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年10月)、31頁
  7. ^ a b c クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、73頁
  8. ^ a b ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、39頁
  9. ^ クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、58頁
  10. ^ a b c d クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、74頁
  11. ^ a b 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、99頁
  12. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、104頁
  13. ^ a b c 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、102頁
  14. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、106頁
  15. ^ 佐原徹哉「オスマン支配の時代」『バルカン史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)、123頁
  16. ^ a b c ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、40頁
  17. ^ a b 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、114頁
  18. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、116-117頁
  19. ^ a b アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)、155頁
  20. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、117-118頁
  21. ^ a b c d ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、42頁
  22. ^ a b 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、93頁
  23. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、126頁
  24. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、91頁
  25. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、94頁
  26. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28-29頁
  27. ^ a b ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、29頁
  28. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、29-30頁
  29. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、30頁
  30. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、30-31頁
  31. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、31頁
  32. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、101頁
  33. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、100頁

参考文献

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  • 唐澤晃一『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』(刀水書房, 2013年2月)
  • 柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)、付録92頁収録の表
  • ロバート.J.ドーニャ、ジョン.V.A.ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』(佐原徹哉、柳田美映子、山崎信一訳, 恒文社, 1995年11月)
  • スティーヴン・クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』増補版(柴宜弘、高田敏明、田中一生訳, 恒文社, 1993年3月)