ホフマン窯

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旧下野煉化製造会社のホフマン窯

ホフマン窯(-がま)は煉瓦を焼くための施設である。ホフマン式輪窯とも。ドイツ人技師ホフマン(Friedrich Hoffman)が考案し、1858年に特許を取得した。

概要[編集]

フリードリヒ=ホフマン(1818-1900)

通常の煉瓦窯では、焼成前の(生の)煉瓦を入れて焼きあげ、熱が下がってから煉瓦を取り出し、また生の煉瓦を入れ…といった工程で、火を点けて消し、を繰り返すことになる。ホフマン窯では、窯を環状(円形、楕円形等)に配置して、連続して煉瓦を製造できるようにしたものである。窯の内部に生の煉瓦を積み重ね、上部からコークスを入れて焼成する。一つの区画で焼き上がると、また次の区画に火を移して焼成を繰り返してゆく。こうした連続工程により煉瓦の大量生産ができるようになった[1]

日本への導入[編集]

明治初期の銀座煉瓦街建設の際、お雇い外国人トーマス・ウォートルスが小菅の東京集治監(現在の東京拘置所の敷地)にホフマン窯3基[2]を設け、大量の煉瓦を製造した。以後、各地に建設され、日本の近代化を支えてきたが、現在稼働しているものはない。 よく遺構が残っているのは4基ほどで、貴重な遺構になっている。

このほか、遺構の一部が残っているものもある。

野木町煉瓦窯[編集]

2016年(平成28年)に野木町で修復したホフマン窯が公開された。交流施設「野木ホフマン館」が隣接する。野木町は町民の寄付によって2011年から修復工事をおこなっていた。完全な形で国内に残るのは野木町のみ。1890年(明治23年)に建造され、1979年(昭和54年)に文化財に指定された[3]。最盛期には年間400万トンの煉瓦が製造された。窯が16室あるため、建物と屋根は正十六角形である。煙突は八角形。窯の中の高さは3メートル弱。1971年(昭和46年)に操業を終了した[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『野木町煉瓦窯 旧下野煉瓦製造会社煉瓦窯』” (PDF). 野木町. p. 3. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月24日閲覧。
  2. ^ 現行東京集治監規程類纂p. 300 - 東京集治監. (1884年9月5日)、2016年7月27日閲覧。
  3. ^ 読売新聞栃木版 2016年5月11日 31面掲載。
  4. ^ 読売新聞栃木版 2016年5月15日 34面掲載。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • ホフマン窯図面[1](埼玉県立文書館)