ホセイン・ヴァヒード・ホラーサーニー

ホセイン・ヴァヒード・ホラーサーニー(ペルシア語: حسین وحید خراسانی, ラテン文字転写: Ḥoseyn Vaḥīd Khorāsānī)は、十二イマーム・シーア派、オスーリー学派のイスラーム法学者、モジュタヘド、マルジャエ・タグリードのひとり。大アーヤトッラー。1921年生まれ[1]。
シーア派の学問都市であるマシュハドに近いニーシャープール出身。30歳代で、イラクのナジャフにおいて上級課程で教えたのち、1970年にイランに帰国した[2][3]。イラン北東部のホラーサーン地方を拠点に活動したのち、コムに移住した[2]。マルジャエ・タグリード(以下「法学権威」)として認められるようになったのは1978年頃である[1]。ヴァヒード・ホラーサーニーのコムでの活動拠点である法学権威事務所は、マドラサの複合体であるホウゼの一部を成し、多くの学生に奨学金を支給する機関でもある[2]。
ヴァヒード・ホラーサーニーは、ホメイニーが整えた「イスラーム国家」ḥukūmat-e eslāmī 体制を支持する体制支持派の法学権威のひとりであると考えられている[2]。ホメイニー没後、イスラーム国家の国家・社会運営を担う最高指導者にアリー・ハーメネイーが選ばれたが、学識の面で前任者に及ばないことが明らかであったため、政治に関わる最高指導者と宗教に関わる法学権威という指導者の二元化が明確になった[2]。このような背景のなか、高齢の法学権威が亡くなったタイミングで、テヘラン・闘うウラマー協会 Jāmeʻe-ye Rowḥānīyat-e Mobārez-e Tehrān が、さらには、コム・ホウゼ講師協会 Jāmeʻe-ye Modarresīn-e Ḥowze-ye ʻElmīye-ye Qom が「推薦法学権威」あるいは「推奨法学権威」を発表し(1994年末)、その中にハーメネイーを含ませるというかたちで、法学権威の選定過程への国家の介入がなされた[1][2]。ヴァヒード・ホラーサーニーはこのように公表された「推薦法学権威」の一覧において、ハーメネイーに次ぐ4番目の序列の法学権威とされた[1]。
ヴァヒード・ホラーサーニーは、預言者ムハンマドが亡くなった直後に発生したとされるファーティマ・ザフラーへの襲撃事件の教義上の重要性を主張している。2001年にレバノンのシーア派の大アーヤトッラー、ムハンマド・フセイン・ファドラッラーが、襲撃伝承の虚構を主張した際には、ファドラッラーの偏向と堕落を主張した[4]。
典拠
[編集]- 1 2 3 4 黒田, 賢治「ハーメネイー体制下における法学権威と学知システムの変容」『アジア・アフリカ地域研究』第10巻第1号、2010年、13-34頁、doi:10.14956/asafas.10.13、2026年3月6日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 黒田, 賢治「ハーメネイー指導体制下における法学界支配の構造:ホウゼの運営組織改革と奨学金制度を中心に」『日本中東学会年報』第26巻第1号、2010年、75-97頁、doi:10.24498/ajames.26.1_75、2026年3月6日閲覧。
- ↑ Vakil, Sanam, and Hossein Rassam. “Iran’s Next Supreme Leader: The Islamic Republic After Khamenei.” Foreign Affairs, vol. 96, no. 3, 2017, pp. 76–86. JSTOR, http://www.jstor.org/stable/44823733. Accessed 6 Mar. 2026.
- ↑ Mohammadi, Majid (2018-08-05). The Longevity of Clerical Business As Usual: A Socio-political History of Iranian Twelver Shi'i Clergy. Dan & Mo Publishers. pp. 459