コンテンツにスキップ

ペータル2世 (ユーゴスラビア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ペータル2世
Петар II
ユーゴスラビア国王
1942年撮影
在位 1934年10月9日 - 1945年11月29日

出生 (1923-09-06) 1923年9月6日
ユーゴスラビア王国の旗 ユーゴスラビア王国 ベオグラード
死去 (1970-11-03) 1970年11月3日(47歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 コロラド州デンバー
埋葬 1970年
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州リバティービル 聖サヴァ修道院教会
2013年5月26日(改葬)
セルビアの旗 セルビア トポラ オプレナツ教会(聖ジョルジェ教会)のカラジョルジェヴィチ家大霊廟
配偶者 アレクサンドラ・オド・グルチケ・イ・ダンスケ
子女 アレクサンダル
家名 カラジョルジェヴィッチ家
父親 アレクサンダル1世
母親 マリヤ・オド・ルムニエ
宗教 キリスト教正教会
テンプレートを表示

ペータル2世・カラジョルジェヴィッチセルビア語: Петар II Карађорђевић1923年9月6日 - 1970年11月3日)は、ユーゴスラビア王国の第2代にして最後の国王である(在位:1934年 - 1945年)。

生涯

[編集]

幼少期

[編集]

カラジョルジェヴィッチ家のユーゴスラビア王アレクサンダル1世とルーマニア国王フェルディナンド1世の王女マリヤ・オド・ルムニエの長男で、名付け親はイギリス王子アルバート(後のイギリス国王ジョージ6世)と妃エリザベスだった。

ペータルの教育は王宮で始まり、次にイングランドウィルトシャー州サンドロイド・スクール英語版に通った。

1934年、フランス公式訪問中の父王アレクサンダル1世の暗殺の後を受けて11歳でユーゴスラビア国王に即位したが、幼少のため父の従弟パヴレ摂政に就任した。

第二次世界大戦

[編集]

ペータル2世と宮中顧問官らはナチス・ドイツとの同盟に反対したが、摂政パヴレは1941年3月25日、ユーゴスラビアは日独伊三国同盟に参加すると声明した。

それに対し3月27日、当時17歳のペータル2世は、イギリスの支援で日独伊三国同盟に反対するクーデターに参加。クーデターは成功し、摂政パヴレを追放して親政を敷いた。

ところがこれにドイツは、バルバロッサ作戦を延期してユーゴスラビアとギリシャを同時に攻撃し、ドイツ空軍は4月6日から三日三晩ベオグラードを猛攻撃した。1週間足らずでドイツ、ブルガリアハンガリーイタリアがユーゴスラビアを制圧し、ユーゴスラビア政府は4月17日に降伏した。ユーゴスラビアは、ドイツ、ブルガリア、ハンガリー、イタリアの要求を満たすため分割され、傀儡政権クロアチア独立国建国が宣言された。

枢軸国の侵入に伴って、ペータル2世はユーゴスラビア政府首脳とともにやむを得ず祖国を去り、ギリシャから欧州を脱出し、エルサレム、イギリス委任統治パレスチナを経て、エジプトカイロに渡った。一行は1941年6月イギリスに到着し、ナチス占領下のヨーロッパ地域からの、他の多数の亡命政府に加わった。ペータル2世は、ケンブリッジ大学での課程を修了してイギリス空軍に加わった。

ユーゴスラビア軍の瓦解にもかかわらず、占領軍への2つの抵抗武装組織が形成された。一方は亡命政府の国防相王党派ドラジャ・ミハイロヴィッチ将軍率いるチェトニック、もう一方は共産主義者で、後に世にティトーの名で知られるヨシップ・ブロズ率いる革命パルチザンであった。連合国軍は、初めはミハイロヴィッチを支持したが、すぐにティトーの支持にまわった。

廃位と亡命

[編集]

ペータル2世は1944年3月20日にロンドンでギリシャ国王アレクサンドロス1世の王女アレクサンドラと結婚した。

亡命中の1945年11月29日、ユーゴスラビア共産党政権下の憲法制定議会は王制を廃止したが、本人は決して退位を宣言しなかった。戦後はアメリカ合衆国に定住したが、長年健康に問題を抱えており、肝不全治療の移植手術を受けた。

1970年2月、ロサンゼルスに移動。同年10月に肺炎にかかり重体となり、同年11月4日、ロサンゼルス市内の病院で死去した。47歳[1]

没後

[編集]

死後イリノイ州リバティービルの聖サヴァ修道院教会(en)に埋葬され、ヨーロッパで唯一アメリカの土に埋葬された君主となった。息子アレクサンダル王太子はセルビア王位継承者である。

2007年3月4日、アレクサンダルは父王ペータル2世の遺体をセルビアに返す計画を発表したが、この計画に動揺したセルビア系アメリカ人もいた。ペータル2世はシカゴに住むセルビア人のために永眠の地として聖サヴァ修道院教会を選んだのである。

2013年、ペータル2世の棺を、セルビアトポラ近郊オプレナツ(en)の聖ジョルジェ教会にあるカラジョルジェヴィチ家の大霊廟に改葬することが発表された。1月22日、棺はベオグラード・ニコラ・テスラ空港に到着し、アレクサンダルやその家族、イビツァ・ダチッチ首相らに出迎えられ、改葬までベオグラード近郊デディニェ(Dedinje)にある王宮の礼拝堂に安置された[2]。5月26日に、セルビア王族、トミスラヴ・ニコリッチ大統領やイビツァ・ダチッチ首相ら政府関係者、ヨルダン国王アブドゥッラー2世ケント公爵エドワード王子など海外の王族らが参列し、妻アレクサンドラ王妃や母マリヤ王太后、末弟アンドレイ王子らの棺とともに大霊廟に改葬された[3][4]

脚注

[編集]
  1. 訃報欄 ペテル二世(元ユーゴスラビア国王)『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月6日 12版 23面
  2. “King Peter II State Funeral Sunday 26 May”. 2013年2月7日.
  3. “Royal Family, President of Serbia, Prime Minister, Serbian Church and Serbian People attend State Funeral at Royal Mausoleum in Oplenac”. 2013年5月26日.
  4. “Serbia reburies last Yugoslav king”. 2013年5月27日.

外部リンク

[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ペータル2世 (ユーゴスラビア王)に関するカテゴリがあります。

先代
アレクサンダル1世
ユーゴスラビア王
1934年 - 1945年
次代
王政廃止
先代
アレクサンダル1世
ユーゴスラビア元首
1934年 - 1945年
次代
イヴァン・リバル
先代
アレクサンダル1世
カラジョルジェヴィッチ家当主
1934年 - 1970年
次代
アレクサンダル