ベニンシティ
| ベニンシティ Benin City | |
|---|---|
ベニンシティ(2014年) | |
| 位置 | |
ベニン市の位置 | |
| 座標 : 北緯6度19分3.36秒 東経5度36分52.20秒 / 北緯6.3176000度 東経5.6145000度 | |
| 行政 | |
| 国 | |
| 州 | エド州 |
| 市 | ベニンシティ |
| 人口 | |
| 人口 | (2006年現在) |
| 市域 | 1,147,188人 |
| その他 | |
| 等時帯 | 西アフリカ時間 (UTC+1) |
ベニンシティ (Benin City) は南部ナイジェリアエド州の州都でベニン川の河港である。 2006年の推計人口は 1,147,188 人。ラゴスの東約320Kmにある。
ベニンはナイジェリアのゴム産業の中心地であり、アブラヤシの加工も伝統的産業である[1]。
歴史[編集]
ベニンは12世紀にベニン王国の首都イビヌ (Ibinu) として建設された。オバ・エウアレの元でエドと改名され、皇帝(オバ)達の元で14世紀から17世紀に最盛期を迎え、「大ベニン」と呼ばれた面影は現在に残されていない。1485年にポルトガルが来航し、以降ヨーロッパ勢力との奴隷貿易と象牙、胡椒や布などの熱帯産品の輸出で栄えた[1]。
ベニン湾岸は「奴隷海岸」の一部であり、取引相手となったのは現地の首長等であった。16世紀初頭にオバ・エシギエはリスボンに宣教師を送るようにと大使を派遣している。19世紀まで住民の中にはピジンポルトガル語を話す者もいた。
奴隷貿易の衰退に伴いベニンも賑わいを失ったが、パーム油の輸出で盛り返した。1852年2月1日ベニン湾一帯がイギリスの保護領に組み込まれ、1861年8月6日にはビアフラ湾一帯もイギリスの保護領とされた。
1897年2月17日ベニンでのイギリス人殺害に対する「討伐」 (Punitive Expedition) としてハリー・ローソン提督率いる1200人のイギリス海軍部隊が王国を征服しベニンを焼き払った。王国の財宝や文化財の殆どが破壊された。ベニン・ブロンズとして知られる、鉄や真鍮、象牙の彫刻等による人物や動物等の造形物はこの時に持去られ、現在世界の博物館に展示されるようになった。これによりベニン王国はイギリスのニジェール海岸保護領に組み込まれ、後南部ナイジェリア保護領となるナイジェリア植民地(en:Colony and Protectorate of Nigeria)に併合された。
1914年にベニン王室の再建が認められたが、実権は植民地政府が握ったままであった。
1967年9月ビアフラ戦争時にベニンもビアフラ共和国に占領され、一時ベニン共和国となった。
教育[編集]
ベニン大学とベンソン・イダホサ大学が市内にある。
文化[編集]
脚註[編集]
- ^ a b Benin, City, Nigeria, Archived 2007年4月25日, at the Wayback Machine., Columbia Encyclopedia, Sixth Edition. 2005 Columbia University Press.
参考文献[編集]
- Bondarenko D. M. A Homoarchic Alternative to the Homoarchic State: Benin Kingdom of the 13th - 19th Centuries. Social Evolution & History. 2005. Vol. 4, No 2. P. 18-88.