ヘッセンの統治者一覧

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ヘッセンの国章

この項目ではドイツの中西部に存在するヘッセン地方の統治者の一覧を記す。ヘッセンの統治者達は伝統的に方伯(Landgraf)の称号を使用した。

ヘッセンはもともとテューリンゲン方伯領の西部を構成していたが、13世紀中葉にブラバント公アンリ2世と妃ゾフィーの息子ハインリヒ1世が独立した領邦という形で相続した。16世紀後半からヘッセン方伯領は複数の方伯領に分裂したが、最も重要な地位を占めたのはヘッセン=カッセル方伯領ヘッセン=ダルムシュタット方伯領であった。19世紀初頭、ヘッセン=カッセルはヘッセン選帝侯領(Kurfürstentum Hessen)へ、ヘッセン=ダルムシュタットはより上位のヘッセン大公国(後にヘッセン・ウント・バイ・ライン大公国に改称)へとそれぞれ昇格した。前者は1866年プロイセン王国に併合され、後者は1918年にドイツの君主制廃止に伴って消滅した。

ヘッセン方伯(1247年 - 1567年)[編集]

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ハインリヒ1世 1247年 1308年 「ブラバントの子(Kind von Brabant)」と呼ばれた。
オットー1世 1308年 1328年 ハインリヒ1世の上の息子。子供伯(das Kind)と呼ばれた。1308年から1311年まではオーバーヘッセン(マールブルク)のみを統治し、1311年にヘッセンを統合した。
ヨハン 1308年 1311年 ハインリヒ1世の下の息子。ニーダーヘッセン(カッセル)のみを統治した。
ハインリヒ2世 1328年 1376年 オットー1世の息子。鉄伯(Der Eiserne)と呼ばれた。
ヘルマン2世 1376年 1413年 ハインリヒ2世の甥。碩学伯(der Gelehrte)と呼ばれた。
ルートヴィヒ1世 1413年 1458年 ヘルマン2世の息子。平和伯(der Friedfertige)と呼ばれた。
1458年から1500年まで、ヘッセンはオーバーヘッセンとニーダーヘッセンに分裂した。

ニーダーヘッセン(1458年 - 1500年)[編集]

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ルートヴィヒ2世 1458年 1471年 ルートヴィヒ1世の上の息子。正直伯(der Freimütige)と呼ばれた。
ヴィルヘルム1世 1471年 1493年 ルートヴィヒ2世の上の息子。同名の弟や従弟と区別するため年長伯(der Ältere)と呼ばれた。
ヴィルヘルム2世 1493年 1509年 ルートヴィヒ2世の下の息子。同名の兄や従弟と区別するため真中伯(der Mittlere)と呼ばれた。

オーバーヘッセン(1458年 - 1500年)[編集]

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ハインリヒ3世 1458年 1483年 ルートヴィヒ1世の下の息子。富裕伯(der Reiche)と呼ばれた。
ヴィルヘルム3世 1483年 1500年 ハインリヒ3世の息子。同名の従兄たちと区別するため若伯(der Jüngere)と呼ばれた。
1500年にオーバーヘッセン系が断絶し、ニーダーヘッセン系がヘッセンを再統合した。

ヘッセン(1500年 - 1567年)[編集]

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ヴィルヘルム2世 1493年 1509年
フィリップ1世 1509年 1567年 ヴィルヘルム2世の息子。寛大伯(der Großmütige)と呼ばれた。
1567年にフィリップ1世が死ぬと、ヘッセン方伯領はその4人の息子たちの間で分割相続された。

ヘッセン=カッセル(1567年 - 1803年)[編集]

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ヴィルヘルム4世 1567年3月31日 1592年8月25日 フィリップ1世の一番上の息子。賢明伯(der Weise)と呼ばれた。
モーリッツ 1592年8月25日 1627年3月17日 ヴィルヘルム4世の息子。碩学伯(der Gelehrte)と呼ばれた。
ヴィルヘルム5世 1627年3月17日 1637年9月21日 モーリッツの息子。不変伯(der Beständige)と呼ばれた。
ヴィルヘルム6世 1637年9月21日 1663年7月16日 ヴィルヘルム5世の息子。正義伯(der Gerechte)と呼ばれた。
ヴィルヘルム7世 1663年7月16日 1670年11月21日 ヴィルヘルム6世の上の息子。
カール 1670年11月21日 1730年3月23日 ヴィルヘルム6世の下の息子。
フリードリヒ1世 1730年3月23日 1751年3月25日 カールの上の息子。スウェーデン王(在位1720年 - 1751年)。ヘッセン=カッセルの統治は弟ヴィルヘルム8世に任せた。
ヴィルヘルム8世 1751年3月25日 1760年2月1日 カールの下の息子。1730年よりヘッセン=カッセルの摂政であった。
フリードリヒ2世 1760年2月1日 1785年10月31日 ヴィルヘルム8世の息子。
ヴィルヘルム9世 1785年10月31日 1803年5月15日 フリードリヒ2世の息子。1803年よりヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世。
1803年、ヘッセン=カッセル方伯はヘッセン選帝侯に昇格した。

ヘッセン=ローテンブルク(1627年 - 1834年)[編集]

1627年、ヘッセン=カッセル方伯モーリッツの三男ヘルマンが創設した分領である。1834年に最終的に断絶し、本家のヘッセン選帝侯領に回収された。

1806年にヴェストファーレン王国に併合されたが、1813年にヘッセン選帝侯の宗主権下で復活した。

ヘッセン=ヴァンフリート(1632年 - 1755年)[編集]

ヘッセン=カッセル方伯モーリッツの四男フリードリヒが1632年にヘッセン=エシュヴェーゲ方伯領として創設した分領である。1代で断絶した後、弟のヘッセン=ラインフェルス=ローテンブルク方伯エルンスト1世を経てその息子カールに相続されたが、カールはヘッセン=ヴァンフリート方伯を名乗った。1693年にはヘッセン=ラインフェルス方伯領をも獲得したが、1755年に断絶し、領土は本家筋にあたるヘッセン=ローテンブルクが相続した。

ヘッセン=ラインフェルス(1632年 - 1755年)[編集]

ヘッセン=カッセル方伯モーリッツの五男エルンスト1世が創設した。1567年の領土分割でフィリップ2世が創設していたため、2度目の創設となった。エルンスト1世が1658年にヘッセン=ローテンブルクを相続したためローテンブルク方伯領と合邦し、さらに1693年にヴァンフリート方伯領と合邦した。1755年にヴァンフリート方伯領とともにヘッセン=ローテンブルクに回収された。

ヘッセン=フィリップスタール(1663年 - 1866年)[編集]

ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世の三男フィリップが創設した。1866年に宗主のヘッセン選帝侯領がプロイセン王国に併合されるに伴い、消滅した。

1806年にヴェストファーレン王国に併合されたが、1813年にヘッセン選帝侯の宗主権下で復活した。

ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト(1663年 - 1866年)[編集]

初代ヘッセン=フィリップスタール方伯フィリップの下の息子ヴィルヘルムが1721年に創設した。1866年に宗主のヘッセン選帝侯領がプロイセン王国に併合されるに伴い、消滅した。

1806年にヴェストファーレン王国に併合されたが、1813年にヘッセン選帝侯の宗主権下で復活した。

  • カール(在位1813年 - 1854年、復位)
  • アレクシス(在位1854年 - 1866年)

ヘッセン=マールブルク(1567年 - 1604年)[編集]

肖像 名前 開始 終了 付記
ルートヴィヒ4世 1567年3月31日 1604年10月9日 フィリップ1世の2番目の息子。遺言伯(der Testator)と呼ばれた。子供が無く1代で絶家した。
断絶後、領土の相続をめぐってヘッセン=カッセルとヘッセン=ダルムシュタットが争い、1648年に両者が分割相続した。

ヘッセン=ラインフェルス(1567年 - 1583年)[編集]

肖像 名前 開始 終了 付記
フィリップ2世 1567年3月31日 1583年11月20日 フィリップ1世の3番目の息子。父と区別するため若伯(der Jüngere)と呼ばれた。子供が無く1代で絶家した。
断絶後、ヘッセン=カッセル、ヘッセン=マールブルク、ヘッセン=ダルムシュタットが分割相続した。

ヘッセン=ダルムシュタット(1567年 - 1803年)[編集]

肖像 名前 開始 終了 付記
ゲオルク1世 1567年3月31日 1596年2月7日 フィリップ1世の4番目の息子。敬虔伯(der Fromme)と呼ばれた。
ルートヴィヒ5世 1596年2月7日 1626年6月27日 ゲオルク1世の息子。誠実伯(der Getreue)と呼ばれた。
ゲオルク2世 1626年6月27日 1661年6月11日 ルートヴィヒ5世の息子。
ルートヴィヒ6世 1661年6月11日 1678年4月24日 ゲオルク2世の息子。
ルートヴィヒ7世 1678年4月24日 1678年8月31日 ルートヴィヒ6世の上の息子。
エルンスト・ルートヴィヒ 1678年8月31日 1739年9月12日 ルートヴィヒ6世の下の息子。
ルートヴィヒ8世 1739年9月12日 1768年10月17日 エルンスト・ルートヴィヒの息子。
ルートヴィヒ9世 1768年10月17日 1790年4月6日 ルートヴィヒ8世の息子。
ルートヴィヒ10世 1790年4月6日 1806年8月13日 ルートヴィヒ9世の息子。1806年よりヘッセン大公ルートヴィヒ1世。
1806年、ヘッセン=ダルムシュタット方伯はヘッセン大公に昇格した。

ヘッセン=ブッツバッハ(1609年 - 1643年)[編集]

ゲオルク1世の次男フィリップ3世が創設した分領だが、1代で断絶した。

ヘッセン=ホンブルク(1622年 - 1866年)[編集]

ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク1世の三男フリードリヒ1世が創設した分領である。1866年に家系が断絶すると本家のヘッセン大公国領に回収されたが、その直後にプロイセン王国が自領に併合した。

1671年から1673年までは2人の商人の、1673年から1679年までは本家のヘッセン=ダルムシュタットの抵当権下におかれた。

1806年に本家のヘッセン大公国領に併合されたが、ウィーン会議の決定により1815年に領邦としての地位を回復し、ドイツ連邦に加盟した。

ヘッセン=ブラウバッハ(1625年 - 1651年)[編集]

ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世の次男ヨハンが創設した分領だが、1代で断絶した。

ヘッセン=イッター(1661年 - 1676年)[編集]

ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の次男ゲオルク3世が創設した分領だが、1代で断絶した。

ヘッセン選帝侯(1803年 - 1866年)[編集]

肖像 名前 開始 終了 付記
ヴィルヘルム1世 1803年5月15日 1807年8月28日 1803年まではヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世。廃位。
1807年から1813年まで、ヘッセン選帝侯領はヴェストファーレン王国に併合された。
ヴィルヘルム1世 1813年10月30日 1821年2月27日 復位。
ヴィルヘルム2世 1821年2月27日 1847年11月20日 ヴィルヘルム1世の息子。1831年より息子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が摂政を務めた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 1847年11月20日 1866年9月20日 ヴィルヘルム2世の息子。1831年より摂政を務める。廃位。
1866年、ヘッセン選帝侯領はプロイセン王国に併合され、最終的に消滅した。

ヘッセン大公(1806年 - 1918年)[編集]

肖像 名前 開始 終了 付記
ルートヴィヒ1世 1806年8月14日 1830年4月6日 1806年まではヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ10世。
ルートヴィヒ2世 1830年4月6日 1848年6月16日 ルートヴィヒ1世の息子。
ルートヴィヒ3世 1848年6月16日 1877年6月13日 ルートヴィヒ2世の息子。
ルートヴィヒ4世 1877年6月13日 1892年3月13日 ルートヴィヒ3世の甥。
エルンスト・ルートヴィヒ 1892年3月13日 1918年11月9日 ルートヴィヒ4世の息子。退位。
1918年、ヘッセン大公国はドイツ革命に伴う君主制の廃止により、消滅した。

1866年、および1918年以後のヘッセン諸家家長[編集]

ヘッセン=カッセル家
ヘッセン=フィリップスタール家

1925年に断絶し、分家筋のヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト家が家督を継承する。

ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト家
ヘッセン=ダルムシュタット家

1968年に断絶し、家督はヘッセン=カッセル家に継承された。

脚注[編集]


外部リンク[編集]