ヘカテー

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ヘカテー(ウィリアム・ブレイク/画、1795年)

ヘカテー古代ギリシャ語: Ἑκάτη, Hekátē)、ヘカテ[1]またはヘカテイア[2]は、ギリシア神話女神である。「ヘカーテ」と表記されることもあるが、正確な長音表記は「ヘカテー」である。英語ではHecate(まれにHakate)と綴り、ヘカティー[ˈhɛkətiː]と読むが、シェイクスピア劇ではヘカット[ˈhɛkət] と発音し、その影響でエリザベス1世期ジェームズ1世期の戯曲ではHecatと綴られる場合もあった。

「ヘカテー」は、古代ギリシア語で太陽神アポローンの別名であるヘカトス(Ἑκατός, Hekatós「遠くにまで力の及ぶ者」、または「遠くへ矢を射る者」。陽光の比喩)の女性形であるとも、古代ギリシア語で「意思」を意味するとも(ヘーシオドスの用法より)、エジプト神話の多産・復活の女神ヘケトに由来するとも言われている。しかし、女神の起源である古代アナトリアの言語がすでに死語であり、残された資料も少ないため、詳細は不明である。

「死の女神」、「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「ラミアーの母」、「死者達の王女」、「無敵の女王」等の別名で呼ばれた[3][4]。「始め」、「終わり」、「永遠なるもの」ともされる[1]

古代ギリシア以前[編集]

元はアナトリア半島カーリア[5]トラーキアで信仰された女神で[6]、それらを通じて紀元前6世紀から5世紀頃にギリシアに入ってきたと考えられている。

古代ギリシア[編集]

3面3体の姿をしたヘカテーの像(キアラモンティ美術館所蔵)

ペルセースアステリアーの娘で(そのため、「ペルセースの娘」を意味する「ペルセーイス」とも呼ばれる[7]ティーターン神族の血族に属する(他にもコイオスポイベーゼウスデーメーテールの娘という説もある)。狩りの女神アルテミスの従姉妹。月と魔術、豊穣、浄めと贖罪[8]、出産[9]を司るとされる。冥府神の一柱であり、その地位はハーデースペルセポネーに次ぐと言われる[10]

ヘーシオドスの『神統記[注釈 1]では、ゼウスによって海洋、地上、天界で自由に活動できる権能を与えられているとされ、人間にあらゆる分野での成功を与え[7]、神々に祈る際には先にヘカテーに祈りを捧げておけば御利益が増すとまで書かれており、絶賛されている。これはヘーシオドスの故郷であるボイオーティアにおいて、ヘカテーの信仰が盛んであったためと考えられている[13]。そして、ヘカテーはホメーロスの著作には一切登場しない。

同じ地母神にして冥府神でもあるペルセポネーやデーメーテールとの関係からか、ハーデースによるペルセポネー誘拐の話に登場し、デーメーテールにハーデースがペルセポネーを連れ去ったことを伝えている(ここでは同じくペルセポネーの行方を尋ねられた太陽神ヘーリオスと対になっており、ヘカテーの月の女神としての性格が強調されているとも言える[6])。また、ヘーラクレース誕生の際にトカゲ(またはイタチ)に変えられてしまったガランティスを憐れみ、自分の召使の聖獣としている[14]。さらにギガントマキアーにも参加しており、ギガースの1人クリュティオス松明の炎で倒している(ギガントマキアー自体は数多くの神々が参加した総力戦だったが、実際にギガースの1人を倒しているのはオリュムポス十二神の神々以外ではヘカテーとモイライのみであり、ここでも別格の扱いを受けている)。アルゴナウタイ(アルゴノートたち)の物語では、コルキス(現在のグルジア西部)の守護神とされ、王女メーデイアにあつく信奉されており、メーデイアとイアーソーンはヘカテーを呼び出してその助力により魔術を行っている。ヘーシオドスの『名婦列伝』では、イーピゲネイアが生贄として殺されようとした際にアルテミスに救い出されて神となり、ヘカテーと同一になったとされている[15][16]

後代には、3つの体を持ち、松明を持って地獄の猛犬を連れており、夜の十字路や三叉路に現れると考えられるようになった[17]。十字路や三叉路のような交差点は神々や精霊が訪れる特殊な場所だと考えられ、古代人は交差点で集会を開き神々を傍聴人とした[17]。中世においても交差点のそばに犯罪者や自殺者を埋葬している[17]。また、この3つの体を持つ姿はヘカテーの力が天上、地上、地下の三世界に及ぶことや、新月、半月、満月(または上弦、満月、下弦)という月の三相、または処女、婦人、老婆という女性の三相や、過去、現在、未来という時の三相を表している。また、月と関連づけられたヘカテーの三相一体の具現形態は、天界では「月」のセレーネー、地上では「女狩人」のアルテミス、冥界では「破壊者」のペルセポネーだった[18]。新月や闇夜の側面はヘカテーが代表することが多かった[19]

三つ辻に道の三方向を向いた3面3体の像が立てられ、毎月末に卵、黒い仔犬、黒い牝の仔羊、幼女、魚、玉葱、蜂蜜といった供物が供えられ、貧民の食とする習慣があった[7][20][17](通常神への生贄とする動物は肌が白いものが良いとされたが、ハーデース等の冥界神へは黒い動物が捧げられた[21])。また、供物として家の戸口に鶏の心臓と蜂蜜入りの菓子を供える習慣もあった。さらにヘルメースと同じく道祖神のように道に祀られたヘカテーの像は、旅人によって旅の安全を祈願された。出産を司る女神でもあるため、陣痛の痛みを和らげるために祈られることもあった[9]。また、テッサリアでは巫女たちがヘカテーの力を借りて変身用の軟膏(魔女の軟膏)を作り、ハエや鳥に変身して空を飛んだといわれる。

眷属として、女神エリーニュスたち[22]ランパスたち[23]エンプーサモルモーといった魔物を従えている[20]

夜と魔術、月の女神としてアルテミスやセレーネーと同一視、混同された。ペルセポネーと同一視される場合もある[10]

古代ローマにおいてはトリウィア(Trivia、「十字路の」の意)という形容語を付けて呼ばれた[24]

紀元前後[編集]

ヘカテーはギリシアの秘教である[25]魔術堕天使によりもたらされたとするキリスト教グノーシス派と同時代、グノーシスの悪魔学の第二の存在であるへカテーは、魔術のパピルス古文書のパンテオンに遍在する人物として見られる[25]

『ギリシア語魔術文書』(紀元前2世紀5世紀パピルス)においてヘカテーの三つの形(Trimorphos)あるいは三つの(triprosopos)は、古典ギリシャ伝承におけるように、ヘカテーを四つ辻の女神(troditis)および道路の守護者とする[26]。それらが特に示すのは、「多様な名(polyônymos)」を持った「至高の(hyria)」女神が所有している、「あらゆる魔術的しるしの充足」である[1]。若いはヘカテーの中央に、ウシの頭はその右側に、雌イヌの頭はその左側にあり、これはパリのギリシア魔術冊子本に見られる、[[ピテュス]]英語版の愛の魔法の三つの顔を持つヘカテーである[1]磁化したに彫るヘカテーは、中央にのある若い娘の頭を、右に雌ヤギの頭を、左に雌イヌの頭を持つ[1]

へカテーのを吐く(pyripnoa)[1]。その6本のたいまつを振りかざす[1]。これが理由で、オストラコンまたは板にブロンズ短剣で彫ったその名が愛された女を焼き尽くし、永久に眠りを奪い取るまでに憔悴させる効力が存在する[1]。同時に、その女に宿るこの火は四大の中で最も繊細である故、彼女の鋭い知性と極度の識別能力を際立たせる(pyriboulos)[1]。その全存在は、天体と精気から来るで光り輝く[1]。『カルデア託宣』は、「やきらめく輝きを受け入れるをした」このヘカテーを、「父なる神に由来し」、神々の「容赦のない」、父の知性の「」や「強力な息吹」に結びついた存在とする[1]の火を宿し伝える故に、際立って生命を与える女神が彼女である[1]。ヘカテーの胸がこの点で「豊穣」(zôogonon)であれば、それはまさしく生命の泉、または思考の力である父の知性の火に満ちているためである[1]。彼女はその火を伝達し広める使命を担っている[1]

その標章と三位一体の観念から、ヘカテーはもう一人の時間運命の女神メネ、あるいはの女神セレネと結びつけられる[1]。月への祈りは、彼女らを唯一の、同一の存在としてその加護を求める[1]。二人の女神の形容詞属性は、取替可能である[1]。「ヘカテー ― セレネ」も三つの顔を持ち、たいまつを手にし、四つ辻を司る[1]。『ギリシア語魔術文書』では以下のように記されている。

3人のカリスたちの3つの形で,踊りとともに飛ぶおまえ……黒く,恐ろしいたいまつを手にしたおまえ,の上に,ぞっとするようなヘビをなびかせているおまえ,それらの口からウシ鳴き声を上げさせているおまえ,そのは,爬虫類うろこでおおわれ,そのにはを放つヘビが絡み合っているおまえ(IV,2793-2806).[1]

彼女はウシ猟犬ライオンふくらはぎオオカミくるぶしを持ち、残忍なイヌを好む[1]。「おまえが多様な名を持ったヘカテーと呼ばれるのはこのためである.矢を射るアルテミスのように空気を切り裂くおまえ,メネよ」(IV,2814-2817)[1]

神々や人間の母(geneteira)、完全に母なる自然(Physis panmètôr)はヘカテーとされる[1]。『ギリシア語魔術文書』では次のようにある。

実際オリンポス山を行ったり来たりして,広大無限深淵を訪ねるがいい.おまえは始めであり,終わりである,おまえだけがすべてを統率する.あらゆるものが由来するのはお前にであり,すべてが終わるのは,永遠なるものの,おまえにおいてである(IV,2832-2839).[1]

魔力のために使用すべきパリの冊子本の別の賛歌にも、女神の称号を積み重ねる「同じ喜び」があり、普遍的な、子を産む女(pangennèteira)アプロディーテーがヘカテーである[1]。彼女はエロースの母であり、・上・冥界・深遠・アイオーン(IV,2563-2564)に居り、冥界の女(IV,1443)となり、の中で祝に臨み、冥界のバビロニアの女王、エレシュキガルに結びつけられ(LXXX,4)、また「星と天体の間を旅し」(IV,2559)、の女であると同時に、を持つ女である(IV,2549-2550)[1]

ヘカテーの指輪王冠は、三位一体を所有することで、全てを含む女の力を表している[1]。上下左右に夜も昼も、ヘカテーは「世界の自然がその周りを回る」女である[1]。『カルデア託宣』の表現では、ヘカテーは世界そのもの・「たちの真ん中」を占め、プセロスの話によれば、中間的序列を占める[1]。絶大なを持つ者たちの全体に対する、中央役割をヘカテーは果たす[1]美徳はその左側にあり、魂の泉はその右側にある[1]。「それ自身の実体内部」に留まっているために、そして出産のために、にもにも向けられている[1]

今後ヘカテーは、望み通りの女性を己の方へ導くために、調和と組み合わせの中に含まれる ― 魔力の中で彼女の加護が求められるにせよ(魔術パピルス古文書のagogai)、あるいは「神々を抑制する拘束」により想起されるにせよ(カルデア哲学者たちのtheiodamoi anankai)[1]。これは、恍惚魔術女神の本来の機能を大きく越えている[1]。『託宣』の新プラトン主義的注釈者たちのヘカテーの伝承が具体的になるきっかけは、パピルス古文書のシンクレティズム(諸教混淆)の産物であるこのヘカテーからである[1]

中世以降[編集]

中世においては魔術の女神として魔女と関連付けられた[27]

また、シェイクスピアによって書かれた戯曲マクベス』に登場するヘカテーは、マクベスに予言を行った3人の魔女たちの支配者として描かれている[28]

そして、現在ではウイッカの実践者たちの間で信仰されている[29]

トリカブトがヘカテーを象徴する花とされており、他にも牝馬(不死の象徴)[9]、松明(月光の象徴)[9]、ナイフ(助産術の象徴)[9]、窪みのある自然石[27]等がヘカテーの象徴とされる。

注釈[編集]

  1. ^ ヘシオドスの叙事詩[11]ホメロス英雄叙事詩で断片的・個別的に歌われていた個々の神話伝説を、『神統記』は神々・世界・人間の歴史という観点から整理統一し、巨大な世界観を示している[11]。「後世のギリシャの神話体系が『神統記』の枠を超えることができなかった点からも,この作品のもつ意義はきわめて大きいといわざるを得ない」とされている[11]。この作品の主題は神々や神霊に加え、辰(せいしん)、さらに苦痛・労苦・飢餓争い等、人間に強く影響する無数の神々の起源系譜を(つまり宇宙の始原から秩序世界成立の全過程を)歌い、語り、説き明かすことだった[12]。この作品は神々の生成論(テオゴニアー)であり、宇宙生成論(コスモゴニアー)としての一面をも持ち、後のギリシア哲学の形成においても重要である[12]。また詩人の独創的思索力と同時に、「古代東方思想影響も多い」とされている[12]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah イヴ・ボンヌフォワ編 2001, p. 771.
  2. ^ セルジュ・ユタン 2017, p. 36.
  3. ^ 魔法事典』244頁。
  4. ^ ギリシア神話』(ギラン)254頁。
  5. ^ ギリシア・ローマ神話事典』(グラント & ヘイゼル)454頁。
  6. ^ a b ギリシア神話』(ギラン)253頁。
  7. ^ a b c ギリシア・ローマ神話辞典』(高津春繁)227頁。
  8. ^ 『マンガ ギリシア神話3』12頁。
  9. ^ a b c d e 世界の神話伝説図鑑』41頁。
  10. ^ a b 『地獄』141頁。
  11. ^ a b c 橋本隆夫 2017, p. 「『神統記』」.
  12. ^ a b c 廣川洋一 2017, p. 「神統記」.
  13. ^ 『西洋神名事典』184頁。
  14. ^ ギリシア・ローマ神話辞典』(高津春繁)102頁。
  15. ^ ヘシオドス 全作品』261頁。
  16. ^ ギリシア・ローマ神話辞典』(高津春繁)54頁。
  17. ^ a b c d 堕天使』116頁。
  18. ^ 神話・伝承事典』303頁。
  19. ^ 図解 ギリシア神話』97頁。
  20. ^ a b 『ヴァンパイア 吸血鬼伝説の系譜』184頁。
  21. ^ 『マンガ ギリシア神話5』154頁。
  22. ^ ビジュアル選書 ギリシャ神話』44頁。
  23. ^ ギリシア合唱抒情詩集 アルクマン他』46頁。
  24. ^ ギリシア・ローマ神話事典』(グラント & ヘイゼル)376頁。
  25. ^ a b イヴ・ボンヌフォワ編 2001, p. 770.
  26. ^ イヴ・ボンヌフォワ編 2001, pp. 770-771.
  27. ^ a b 『悠久なる魔術』152頁。
  28. ^ 研究社 シェイクスピア選集7 マクベス』124頁。
  29. ^ 実践 悪魔学入門』105頁。

参考文献[編集]

日本語文献[編集]

  • マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル 『ギリシア・ローマ神話事典大修館書店1988年
  • フィリップ・ウィルキンソン 『世界の神話伝説図鑑』 原書房2013年
  • 大場建治 『研究社 シェイクスピア選集 7 マクベス』 研究社2004年
  • バーバラ・ウォーカー 『神話・伝承事典 失われた女神たちの復権』 大修館書店、1988年
  • フェリックス・ギラン 『ギリシア神話』 青土社1991年、新装版。
  • 楠瀬啓 『実践 悪魔学入門』 二見書房1998年
  • 『ビジュアル選書 ギリシャ神話』 新人物往来社2010年
  • 高津春繁 『ギリシア・ローマ神話辞典』 岩波書店1960年
  • 丹下和彦訳 『ギリシア合唱抒情詩集 アルクマン他』 京都大学学術出版会、2002年
  • 中務哲郎訳 『ヘシオドス 全作品』 京都大学学術出版会2013年
  • 松村一男監修 『図解 ギリシア神話』 西東社〈歴史がおもしろいシリーズ!〉、2011年ISBN 978-4-7916-1817-0
  • 真野隆也 『堕天使 悪魔たちのプロフィール』 新紀元社、1995年
  • 『魔法事典』 山北篤監修、新紀元社1998年
  • 草野巧 『地獄』 新紀元社、1995年
  • 里中満智子 『マンガ ギリシア神話3 冥界の王ハデス』 中央公論新社2000年
  • 里中満智子 『マンガ ギリシア神話5 英雄ヘラクレス伝説』 中央公論新社、2000年
  • 松島道也 『図説ギリシア神話 【神々の世界】篇』 河出書房新社2001年
  • 真野隆也 『悠久なる魔術』 新紀元社、1990年
  • 森野たくみ 『ヴァンパイア 吸血鬼伝説の系譜』 新紀元社、1997年
  • 『西洋神名事典』 山北篤監修、新紀元社、1999年
  • 橋本隆夫 「「『神統記』」」『デジタル版 集英社世界文学大事典』 JapanKnowledge、2017年
  • 廣川洋一 「「神統記」」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 JapanKnowledge、2017年
  • イヴ・ボンヌフォワ編 『世界神話大事典:Dictionnaire des Mythologies』 金光仁三郎ほか訳、2001年ISBN 978-4469012651
  • セルジュ・ユタン 『文庫クセジュ199:秘密結社[改訂新版]』 小関藤一郎訳、JapanKnowledge、2017年

非日本語文献[編集]

  • Clay, Jenny Strauss (2003). Hesiod's Cosmos. Cambridge University Press. ISBN 0521823927. 

関連項目[編集]