コンテンツにスキップ

ヘイマーケット事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘイマーケット事件の木版画Thure de Thulstrup画、1886年5月15日。サミュエル・フィールデン英語版の演説、爆発、暴動が同時に起こっていることを示すが、実際には演説が終わった後に爆発があり、暴動は爆発が起こった後に発生した[1]

ヘイマーケット事件Haymarket affair)は、1886年5月4日アメリカ合衆国シカゴ市で発生した暴動。後に国際的なメーデーが創設されるきっかけとなった事件。

事件に至る経緯

[編集]
ヘイマーケット事件で死亡した警官の1人、マシアス・J・ディーガン(Mathias J. Degan)。
  • 5月1日:八時間労働制を求める労働者のストライキデモが発生[2]
  • 5月3日:ストライキを行っていた労働者4名が警官により射殺される[2]
  • 5月4日:夜、シカゴ市内のヘイマーケット広場英語版で抗議集会が開かれる[2]。解散を求める警察側との間で爆発物を使用した衝突が発生し、警察側7名、労働者側4名の死者を出す[2]

裁判

[編集]

逃亡中の1人を含めたアルバート・パーソンズ英語版ら9人のアナキストが起訴され、6月21日から裁判にかけられた。被告人らは皆が無罪を主張したが、検察側は被告人らが共同謀議の末に全シカゴを爆破すると決め、5月4日の爆弾テロに至ったと主張した。しかし、裁判では共同謀議の存在は立証できず、爆弾を投げた実行犯が誰であるかさえ特定できなかった。しかし、判事は陪審団に対して、被告人らが過去に暴力行為を推奨してきた以上、爆弾を投げたのが誰であるにせよ、被告人らは責任を逃れられないと語った。その後の上告審でも判決が覆ることはなかった。

絞首刑に処された被告人7人。

1887年11月10日の朝に死刑囚の1人ルイス・リング英語版自殺し、同日夕方にイリノイ州知事リチャード・J・オグルズビー英語版サミュエル・フィールデン英語版マイケル・シュワブ英語版無期懲役に減刑した。翌11月11日、4人の死刑囚は処刑された。

処刑された死刑囚のうち、ジョージ・エンゲル英語版アドルフ・フィッシャー英語版は絞首刑が執行される直前に「アナーキー、万歳!」と最後の言葉を残した。

その後

[編集]

事件から7年が経過した1893年6月26日、イリノイ州知事ジョン・ピーター・オルトゲルドは、被告人らが疑う余地なく無罪であり、処刑された4人は冤罪であったと認め、獄中に残されていた3人の囚人を恩赦して釈放した。しかし、この恩赦により政敵に攻撃され、1896年イリノイ州知事選挙英語版で落選した。

事件の引き金となったストライキ・デモの発生日である5月1日は、1889年に第二インターナショナルによりメーデーとして設定された[2]。一方、アメリカでは暴動の記憶を再び呼び起こしかねないとして、9月の第一月曜日をレイバー・デーとして設定している。

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ “Act II: Let Your Tragedy Be Enacted Here—Moment of Truth”. The Dramas of Haymarket (英語). Chicago Historical Society. 2000. 2025年9月1日閲覧.
  2. ^ a b c d e 野村達朗ヘイマーケット事件」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6コトバンクより2025年9月1日閲覧 

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]