PlayStation (ゲーム機)

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PlayStation
プレイステーション
PS-b logo.png
PSX-Console-wController.png
PlayStationの本体とコントローラ
メーカー ソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE)
種別 据置型ゲーム機
世代 第5世代
発売日 日本の旗 1994年12月3日
アメリカ合衆国の旗カナダの旗 1995年9月1日
欧州連合の旗 1995年9月29日
オーストラリアの旗ニュージーランドの旗 1995年11月15日
大韓民国の旗 1997年 2月
CPU MIPS R3000A 33.8688MHz
対応メディア CD-ROM XACD-DA
対応ストレージ メモリーカード
外部接続 シリアルポート
パラレルポート(SCPH-7500まで)
売上台数 日本の旗 2,072万台(アジア含む)[1]
アメリカ合衆国の旗 3,967万台[1]
欧州連合の旗 3,961万台[1]
世界 1億240万台[2]
最高売上ソフト 日本の旗 ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち /417万本[3]
世界 グランツーリスモ /1,085万本[4]
互換ハードウェア PS one
次世代ハードウェア PlayStation 2
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PlayStation(プレイステーション)とは、1994年12月3日に発売された家庭用ゲーム機。略称はPS。発売元はソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE) (現:ソニー・インタラクティブエンタテインメント (SIE) )。据え置き型の家庭用ゲーム機史上初めて累計出荷台数が1億台を突破した。レトロニムとしてPS1という表記も存在する。

沿革[編集]

1990年代中期に「次世代機」と呼ばれた家庭用ゲーム機の一つ。開発者である久夛良木健の独特の技術論や、丸山茂雄らによる従来のゲーム機ビジネスとは異なるレコードビジネス仕込みの戦略で、セガ・エンタープライゼス(現・セガゲームズ)のセガサターンや、任天堂NINTENDO64と次世代機戦争と呼ばれた[5]市場競争に勝利し、ファミリーコンピュータのヒット以来任天堂が独占していた市場でトップシェアとなった。

命名[編集]

仕事で使うコンピュータを「ワークステーション」と呼ぶことに対して、遊びで使うコンピュータという意味で「プレイステーション」に決めたというのが名前の由来とされている。ユーザー間では「プレステ」と略されることが多いが、CMや自社製品内での記載では一貫して「PS(ピーエス)」と略されている[補足 1]。週刊ファミ通の記事によると、盛田昭夫がプレステの「ステ」が「捨て」に通じることから避けさせたという[6]。「プレステと呼ぶなー」という新聞広告を出したこともある。

本来、プレイステーションは後述のスーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だった名称であり、これを流用したものである。頓挫した商品と同一名は縁起が悪いという意見もあったが、既に全世界ベースで商標権を登録しており、新しい商標にするには調べるだけで半年かかるためそのまま同一のプレイステーションの名称が採用された[7]

開発の経緯[編集]

任天堂スーパーファミコンPCM音源を提供する事業の仕掛け人だった久夛良木健が、同事業に引き続き、スーパーファミコンのCD-ROMドライブ拡張機器「スーパーファミコン CD-ROMアダプタ」の共同開発事業の約束を取り付けたのに端を発する。 久夛良木は1987年6月16日から2泊3日にわたるソニーと任天堂の合同合宿に、スーパーファミコン開発が一段落した1989年頃にも提案している。当時の任天堂はCD-ROMに消極的で「ソニーさんでやってください」と返答している。しかし丸山茂雄によれば久夛良木は京都の任天堂本社に通っている間中「CD-ROMでやるべきだ」と粘り強く進言し続けた結果、任天堂側が面倒くさくなってOKを出したという。この時期になるとCD-ROMドライブが十分安価に手に入る時代になっていた[8][9]

当時の久夛良木は業務用のデジタルビデオエフェクタ「システムG」をゲームに転用してビジネス化出来ないかと考えていた。ただし、当時ソニー内ではソニーのイメージを損なうとしてゲーム事業への進出に反対する社員が多く、久夛良木自身も「異端児」と呼ばれており逆風が強かった。この事業にゴーサインを出したのが当時社長の大賀典雄である。

1989年10月から共同開発が始まり、翌1990年1月には大賀典雄(ソニー)と山内溥(任天堂)の間で両社の締結を確認する合意文書が作られた。開発コードネームは「プレイステーション」[10][11]であった。

計画では、CD-ROMアダプタは玩具流通で任天堂ブランドで発売し、スーパーファミコンとCD-ROMの一体型マシンは家電流通でソニーブランドで発売することとなっていた。価格は49800円を予定していた[12]

しかし、1991年6月のシカゴでのコンシュマー・エレクトロニクス・ショーにおいて、ソニーがプレイステーションの試作機を発表するものの、任天堂はソニーとの共同開発計画ではなく、フィリップスとの提携と、CD-iでのゲーム開発を発表。交渉の中心となったのは任天堂米国法人であった。フィリップスによるスーパーファミコンCD-ROMは任天堂がライセンスを持ち、同社のソフト管理システムを維持する契約内容であった[13]

スーパーファミコンCD-ROMソフトはスーパーディスクと名付けられ、任天堂ではなくソニーがライセンスを有することになっていた。当時のコンシューマー機のソフトはROMカセットが主流であり、CD-ROMは付属的な立場のメディアとして認識されていたため、任天堂はCD-ROMの権利を重視していなかった。しかし、任天堂米国法人社長だった荒川實がアメリカのコンピューター業界でのCD-ROMの躍進ぶりを目の当たりにしており、この契約のままだと任天堂がソニーの従属的立場になると危機感を抱き、山内溥にソニーとの提携を止めるように口説いたとされている[14]。この裏切りは数日前に任天堂からソニーに伝えられたが久夛良木までは伝わらず、新聞報道で初めて知ったという。

ソニーは抗議したものの、任天堂の言い分は「契約は生きており、ソニーが「スーパーファミコン CD-ROMアダプタ」を発売するのは構わないが、任天堂は別の規格を採用する」というものであり[15]、その後も粘り強く交渉が続けられたものの任天堂の決定は覆らなかった。

ソニーだけの規格では市場が広がらないと判断されたことから、スーパーファミコン互換機は開発を中断することになり、既にゲームソフトの製作を進めていたソニー・ミュージックエンタテインメントは、マーク・フリントによる『フォルテッツァ』[5](5億円を投じていた)、『沈黙の艦隊』『フック』などを没企画にし、15億円の損失を出したとされる[16]。山内溥社長は、ソニーがゲームソフトを作った事に激怒していたという[17]

これらの騒動により、久夛良木ら開発陣は社内での居場所を無くすが、大賀典雄の判断により、丸山茂雄率いるソニー・ミュージックエンタテインメントのゲーム部門に一時的に避難させられることになった。

1992年6月24日のソニーの経営会議で、ゲーム事業への進出の是非が議論になり、大半の役員が反対意見を投じる中、経緯説明のために会議に参加した久夛良木が、「我々は本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生、笑いものですよ」と食ってかかり[18]、試作品はほぼ出来上がっている事を公表。最終的に大賀がゴーサインを出し、ゲーム事業への進出を決断した。

なお、大賀はプレイステーション製作にあたり、社内のコンセンサス形成のみならず、ゲーム機製作自体にも深く関わっており、業界標準とも言える任天堂型のコントローラからの脱却を図るグリップ型のコントローラを作るように指示し、何度もダメ出しをしている[19](本体・コントローラのデザインは後藤禎祐が担当)。

1993年初頭から正式に「PS-X」プロジェクトが立ち上がり、1993年11月16日にソニーの技術者と株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントのコンピュータゲーム製作部門のスタッフら65人で構成される株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントが設立。1994年12月3日の「PlayStation」の発売に至った。

サードパーティーの取り込み[編集]

発売時には「全てのゲームは、ここに集まる」のキャッチフレーズを使っていたが、開発時は任天堂の黄金時代であり、当時印象の悪かったCD-ROM機というハード、3Dという未知のソフト開発に取り組まなければならないということ、さらにソニーがMSXパソコンで一度はゲームビジネスから撤退した過去があったこともあり[20]、ソフト会社はプレステ参入に難色を示していた。しかし、1993年末、セガがアーケードゲームバーチャファイターを発表し、3Dゲームの可能性を体現した直後から難色を示していたソフト会社が興味を持つようになったという[5][21][22][23]

幅広くサードパーティーを招き入れようと、150万円という価格で開発機材を提供[24]したことで、新興ゲームメーカーが多数参入した[25][26]。また、サードパーティーのプログラマの負担を軽減するため、SCEでプログラムのライブラリを構築して開発者を支援を試みた[27]。当初このプログラムのライブラリは自分たちでプログラムを組みたがっていた技術者からは不評だったが、後に非常に便利なものであると認識されるようになり、続々とサードパーティーが参入するようになった。1994年夏には契約したサードパーティは200社を越えた[28]

立ち上げ期においては、セガとはアーケードゲーム市場でライバル関係にあり、任天堂とは関係が悪化してゲーム機の自社開発を模索していたナムコがSCEと提携してプレイステーション陣営につき、ローンチタイトルとして『リッジレーサー』を発売し普及を牽引するキラーソフトとなった[5][29][30][31]。その後も初期にはナムコの『鉄拳』やタカラの『闘神伝』といった格闘ゲームソフトでハードの売り上げを伸ばした。そして、これまで任天堂マシンで発売されていた日本を代表するRPGシリーズであるスクウェアの『ファイナルファンタジー』シリーズの参入が1996年2月に発表されて[32][33]プレイステーションの優勢が決定づけられ[34]、同年3月に発売された『鉄拳2』やカプコンの『バイオハザード』はリピートによるロングセラーに[35]。1996年年末商戦でプレイステーションは独り勝ちした[36]。翌1997年1月には 『ファイナルファンタジーVII』が発売されて大ヒットし、エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズがプレイステーションに参入することが発表され、プレイステーションの次世代機戦争の勝利が確実なものになった。

また、レコード会社の発想で、ゲームクリエーターをアーティスト的存在として扱い[37]、ゲーム誌では積極的に開発者のインタビューを乗せるようになった[5]。アマチュアからクリエイターを発掘しようと、一般向けの開発環境「ネットやろうぜ!」を販売し、これとは別に「ゲームやろうぜ!」というゲームクリエイター志望者を一般から募集していた[38]

レコード会社が出資して設立されたSCEでは、プレイステーションでアーティストとレコード会社が一致協力して音楽を作る手法をゲームソフト制作も取り入れ、ライブラリ提供やゲームやろうぜなどでソフト会社やクリエーターを育てようとしたと言われる[39]

流通改革[編集]

流通面においては、参入時に任天堂会社の蜜月関係による初心会流通を研究し、音楽CDの流通販売で多大なノウハウを有していたEPIC・ソニーレコード仕込みの流通改革を実施した[40]

従来のゲーム機のソフト媒体であるマスクROMはリピート生産に時間がかかるため、問屋は初回販売で品切れによって販売チャンスを逃すまいと見込み発注を行っていた。この見込み発注が、見込み違いにより売れなかったソフトが過剰在庫となり、投げ売りされたり、いわゆる抱き合わせ商法で人気ソフトとともに販売される原因となっていた[41][42]。このことに着目し、SCEは自らが直接小売店と取引をする問屋機能を担い、従来の投機的な見込み発注ではなく、適切な初回生産と小まめで迅速なリピート生産による安定的なソフトの供給路線を進めた[43]。CD-ROMの生産は設立母体であるソニー・ミュージックエンタテインメントのCD工場(現・ソニーDADCジャパン)で行い、追加生産が必要な場合でも最長で6日で小売店にソフトが届く体制を築いた[44][45]

利益が製作者に還元されない中古市場対策として、発売から一定期間が経過したソフトについて廉価版をリリースした[46]

これらの流通改革は、リピート生産が容易で生産が低コストであり、CD-ROMのメリットを活かしたものであった[47]

流通改革により、既存のゲーム流通、特に任天堂の初心会流通は壊滅的なダメージを受け、多くの問屋が廃業に追い込まれ、初心会自体も1997年に解散している[補足 2]

SCEの主張する初回生産枚数とサードパーティーの主張との隔たりも発生し、そのことが原因でプレイステーションで発売予定のソフトが他社ハードへ移籍するエネミー・ゼロ事件が起きた[48]。このように自主的な生産本数の決定を望むサードパーティーが現れて、1997年夏にSCEの完全買い上げは終了し、コナミなど有力メーカーは独自の流通を開始した[49]

SCEは同じソフトでもゲームショップによって価格が2割も3割も異なるという従来のゲーム流通も問題視し、再販売価格維持制度で定価販売が認められている音楽ソフトのように、どこの店でも同じ価格で購入できるように事実上の定価販売を目指した[50]。しかし、 公正取引委員会から1998年1月20日に「プレイステーション用ソフトウェアの販売について、小売業者に対し希望小売価格で販売するように、圧力を加えた」として独占禁止法に基づく排除勧告を受けた。SCEは一貫して容疑を否認していたが、2001年8月1日、SCEが圧力を加えていた事実を認定する審決が下され[51]、2001年11月20日に排除勧告を受諾した[52]

公取委の摘発により定価販売は不可能となり、目指していたリピートビジネスも発売タイトルが膨大になったことできめ細かな対応が不可能となって徐々に初動型のビジネスとなって崩れ去り[53]、また発注の失敗による不良在庫で値引きやワゴンセールは相変わらず発生するなど、流通改革については必ずしもうまくいかなかった[54][55]

販売戦略[編集]

同時期に発売された他社のゲーム機と販売競争が繰り広げられた。特にセガサターンとの販売台数争い・値下げ競争はマスメディアによって「次世代ゲーム機戦争」などと呼ばれ、このことはプレイステーションの宣伝にも繋がった[5][56]。この次世代ゲーム機戦争ではCD-ROMがメディアとして採用されており、松下電器産業三洋電機3DOで、日立がHiサターン、ビクターがVサターンというセガサターン互換マシンで参入して、マルチメディアマシンを標榜していたが、プレイステーションはあくまでゲーム専用のゲームマシンであることをアピールした[57]

プレイステーションは発売時39,800円だったが、後に20,000円まで下がった。この値下げは、開発者の久夛良木健の戦略であり、後に技術の進歩により安価な値段で代替が効くパーツが生まれることを前提に、代替される可能性のある部分を最初からシステマティックにまとめて設計していたことにより可能になった。実際にプレイステーションはバージョンを重ねることに部品点数が削減されている。ただし、親会社であるソニーは家電業界的な発想から値下げに関しては大反対であったという。

スーパーファミコン時代に1万円近くまで高騰していたゲームソフト価格に関しても、CD-ROM採用によるソフト生産のコストダウン、ロイヤリティの削減、前述の流通改革などを行い、5800円からと低価格化させ[58]、ソフト購入の敷居を大幅に下げるなどした。

これまでにもPCエンジンメガCDなどCD-ROMを採用したゲーム機があったが、それらのマシン以上にCD-ROMの低コストの利点を活用して、体験版の無料配布や本体への添付、雑誌への付録などで新作ソフトに触れる機会を増やし、価格面では「PlayStation the Best」などの廉価版の再発売ソフト、新作ソフトで1,980円のパンドラMAXシリーズや1,500円のSIMPLE1500、950円のスーパープライスシリーズが誕生した[59]。中でもSIMPLE1500シリーズは104タイトルを数える人気シリーズとなり、その中からは150万本のロングセラーとなった『THE 麻雀』も生まれた[60]

ゲーム内容に関しても、3D化により、従来のゲームよりリアルな表現が可能になり、子供のおもちゃというイメージを持ち合わせたうえで、ゲームから離れていた青年・中年層の支持を得ることにも成功した。

テレビCMでは、冒頭や最後にプレイステーションのCMであることを示すサウンドロゴを採用している他、ユニークなことで定評があった「いくぜ100万台」「よい子とよいおとなの」などのキャッチフレーズを活用[61]、CM内ではマスコットとして「プレステマン」、「クラッシュ・バンディクー」、「パラッパラッパー」、「ピポサル」といったキャラクターも使用していた。また1997年クリスマス商戦期には、多数のゲームソフトの体験版を収録した2種類の体験版を一部の店舗にて100万枚無料配布するなど派手な広告展開を行った。

ゲームの体験版や最新デモ映像などを盛り込んだCD-ROMを年に数回発行する有償会員サービス「PlayStation CLUB」を1995年より運営していた。発行物以外にはゲームイベントの優先入場権、独自開催イベントへの参加権などの特典もあった。なお、2001年4月からはPlayStation 2向けの会員サービスへと移行している。

プレイステーションの絶頂期は1996年から1999年であり、特に『FFVII』を発売した1997年は、本体の日本国内出荷台数が1月時点で500万台を突破するも年末までには更に500万台を上乗せして1000万台突破を達成、ソフトでもスクウェアのゲームをはじめミリオンセラーが5本と続発し、SCEのソフトではロングヒットにより最終的にダブルミリオンを達成するソフトも出てきた(『グランツーリスモ』、『みんなのGOLF』)[62]

米Connectix社により作られたMacintosh向け(後にWindows版も発売)エミュレータソフト"Virtual Game Station"に関して、ソニー・コンピュータエンタテインメントは提訴しSCEI側の敗訴に終わった[63]が、最終的には提携という形ながら実質的に買い取っている[64]

CD-ROM[編集]

PlayStation用CD-ROMの裏面は黒い

ソフトウェア媒体として採用したCD-ROMは従来のROMカートリッジと比較してデータへのアクセス速度が劣るが(ローディング時間が生ずる)、大容量、低価格、量産時間の短縮といった利点があり、コンピュータゲームの表現方法から流通にまで幅広く影響を与えた[65]

当時のCD-ROM機は大容量メディアという反面、それゆえにローディングに非常に時間がかかるのが難点とされていたが、PlayStationはローディング時に読み込むデータは3D映像自体ではなくデータコードであり、それを本体内で処理・展開させて3D映像を作り出すという構造にすることで、当時としては高速なローディングを実現していた[補足 3]

なお、一般的なCD-ROMメディアとは異なり記録面が黒いことが特徴である(光に透かすとわかるが厳密には濃い青色)。開発時は通常のCD-ROMで、CDマットを付ける事が検討されていたが、久夛良木健のコストカット路線により、CDマットをやめ、記録面の色を変えるという方向に落ち付いた[66]

非正規ソフトの対応については、CD-ROMのコピープロテクトを解除するための「MODチップ」と呼ばれるICチップが世界規模で出回り、それに対してソニー・コンピュータエンタテインメントは「レッドハンドプロテクト」で対抗した。

サウンドロゴ[編集]

起動時のサウンドロゴは藤澤孝史によるものである。また、CMにおけるサウンドロゴをムーンライダーズのメンバーである岡田徹が担当しており、同グループが手がけているCMソングなどを収めた『MOONRIDERS CM WORKS 1977-2006』にはCM始めとCM終わりの2つのサウンドロゴが収録されている。

ハード・ソフト台数[編集]

日本でのハードウェアの生産出荷台数は約1740万台、PS oneは約419万台であり、合計は2159万台、全世界では1億249万台(2005年3月31日現在)。2004年5月18日に全世界累計での生産出荷台数の累計が1億台を突破した[67]

日本でのソフトウェアの累計生産出荷本数は約2億8600万本であり、全世界では9億6200万本(2006年12月31日現在)。新作タイトルはPlayStation 2発売以降も登場し、日本では2004年まで発売され続けた。公式サイトのソフトウェア製品情報に登録された日本国内のタイトルは2005年11月現在4324タイトルである(廉価版、初回限定版などによる重複も含む)。

性能、開発環境など[編集]

PAL規格のDebugging Station

R3000を独自にカスタマイズしたものをメインCPUに採用。また3DCGの描画を支えるベクトル演算専用LSI (GPU) を別途搭載する。非常に高価なグラフィックスワークステーションでのみ実現できた[68]ポリゴンによる3次元コンピュータグラフィックスを比較的簡単にプログラミングできることを特徴とする。

ハードウェアの性能としては3Dポリゴン描画に特化したアーキテクチャが最大の特徴である。ポリゴンの頂点演算や座標変換を行うジオメトリエンジンを搭載し、さらにフレームバッファにポリゴンやテクスチャマップドポリゴンを転送する機能をハードウェアで備えるため、これらの演算を全てソフトウェア処理させる(CPUに膨大な量の演算を強いる)ことが多かった当時のパソコンや他のゲーム機と比較して格段に高い性能を引き出すことができた。以後主流となる、3Dに特化したハードウェアと言える。

一方、旧来のゲーム機では常識であったラインバッファ方式のスプライトBG機能は搭載しておらず、2Dの表現は苦手である。

JPEGデコーダのMDECを内蔵しており、この機能を活用して当時の水準としては高画質なMotion JPEGによる動画(ムービー)の再生が可能であった点も特筆される[69]。『ファイナルファンタジーVII』をはじめとするこの機能を活用したコンテンツの登場により、プリレンダリングされた3DCGムービーとネイティブの3Dゲーム操作シーンを連結して多用することで場面と時間を繋ぎ物語性を補完する表現手法が確立された。またゲーム導入時のデモムービーやエンディングムービーなど、ゲームをプレイするための動機付けとしても広く活用されるようになった。

主要な半導体は自社で独自設計ないしカスタム化したもの(開発の主体はLSI Logicであった[70])を用いていたため製品発売後もこれらを改良できた。半導体プロセス技術の進歩などにより再集積化(複数の半導体を一枚のシリコンにまとめる)やシュリンク化(LSI面積を縮小し、一枚のシリコンウェハーからより多くのLSIを生産する)や、さらなるカスタム化などを行った。結果的に数度にわたるコストダウンを実現し、PlayStationの販売価格は最終的には発売開始時の半分以下まで下がった。このようにPlayStationは当初から製造技術の進歩による集積化で最終的にハードだけで黒字を得られることを目標とした。実際に1000万台を超えた段階でハードのみで黒字化を達成。1台あたり数十ドルの利益を得られるようになり、ライバル機種のセガサターンに対して優位な戦いをすることが出来たのである。セガサターンはCPUを始めとした部品点数の多さや外注による生産であったこともあり、複数社からの半導体の採用による関係でのコストカットやワンチップ化がしにくい複雑なハード構成のため、大幅なコストダウンが効かず、ソニーが仕掛ける価格競争などと言った競合機の価格競争に対抗して値下げを続けた結果、多額の赤字を計上することとなり、セガは体力を消耗していった[71]

当時の国内生産には、ソニー木更津、ソニー美濃加茂などが担当。最終版のPSOneのみ中国製が見られる。

一方で後期PSは当初の半導体と違う半導体が用いられたため、互換性が完全に維持されず初期に発売された一部のゲームソフトが後期のハードウェアできちんと動作しないという問題が生じ、サードパーティーは型番毎に動作チェックすることを余儀なくされた。

仕様[編集]

CPU/GTE CXD8606BQ
SCPH-9000に実装
GPU CXD8561CQ
SCPH-9000に実装
SPU CXD2938Q
SCPH-9000に実装
  • CPU
    • CPUコア:MIPS R3000A ベース 32 ビットRISCプロセッサ (R3051)
      • 動作周波数:33.8688MHz
      • 4キロバイト命令キャッシュ
      • 1キロバイトデータキャッシュ
      • 命令処理能力:30 MIPS
      • バス帯域:132 MB//秒
    • ベクトル演算コプロセッサ:GTE(Geometric Transfer Engine)
      • ジオメトリエンジン
      • 演算能力:最大150万ポリゴン/秒(SCEI公表値)
      • ポリゴン表示能力:最大36万ポリゴン/秒(SCEI公表値)[補足 4]
      • スプライト描画性能:最大表示4000個(1/60秒、SCEI公表値)
      • 可変長の整数演算
      • テクスチャマッピンググーローシェーディングフォグ 半透明処理機能搭載
        • 描画が1/60秒を超えた場合に垂直同期を待たずに表示を切り替えることができ、処理落ちを最小限に抑えられる。
        • GTEの演算誤差(当時の半導体プロセスの制約から浮動小数点演算の実装は困難であり、高速化のために整数演算を用いている)の影響で、ポリゴンの間にPS特有の「継ぎ目」ができる。またパースペクティブ補正処理を省いているため、テクスチャマッピングにも独特の歪みが出る。
        • テクスチャバッファとして使用できるメモリが少なく、テクスチャ伸長の際にピクセル境界やバンディングが露見する部分をカバーするため、後期のゲームでは展開後のテクスチャにディザリングをかける手法が多用された。
      • 後期PSではジオメトリエンジンのアーキテクチャを改良しており、そのためプロセッサも「GTE」ではなく「GTE-2」と呼ばれた。
    • 画像伸張エンジン:MDEC
      • JPEGデコーダチップ。動画再生エンジン兼テクスチャ展開。
      • Motion JPEG動画の再生能力は、320x240ドット時で秒間30フレーム。これは動画再生を売りにしたPC-FXと同等スペックである。640x240ドット時は、秒間15フレームの再生能力となる[69][72]
    • ダイサイズ: 128平方mm (初期型)
    • 集積トランジスタ数: 100万個
    • 半導体製造プロセス: 0.6μm (初期型)
  • GPU
    • 最大 1677 万色 (24 ビット)
    • レンダリング解像度:256 × 224 to 640 × 480
    • VRAM:1メガバイト
      • CXD8514の場合は4Mbit60nsのVRAM2個、CXD8561の場合は8Mbit12nsまたは10nsのSGRAM1個
      • (PS oneの後期型)CXD9500QではGPUとSGRAMをワンパッケージ化
  • サウンドCPU:SPU
  • メインメモリ:EDO DRAM 2メガバイト
    • 4Mbitチップ4個搭載のパターンと16Mbitチップ1個搭載のパターンがある。
  • 表示画素数:256ドット×224ライン(ノンインターレース)〜640ドット×480ライン(インターレース[補足 5]
  • 色:最大1677万色
  • 表示画面:1面
  • メディア:倍速CD-ROMドライブ
    • CD-DACD-XA再生可能
      • 専用CD-ROMメディアの裏面は基本的に黒色をしている。
  • 外部コネクタコントローラ×2、メモリーカード×2、AVマルチRGB / S端子 / ビデオ)、S端子、映像・音声端子(RCA) 、通信(シリアル)、外部拡張(パラレル)、電源入力(AC)、DC出力
    • 後面の端子は後述する型番により、搭載する端子が異なる。

年譜[編集]

  • 1994年12月3日 - 希望小売価格39,800円で発売、初回出荷10万台を完売。
  • 1995年5月第4週 - 日本国内の生産出荷台数が100万台達成(同年内に200万台達成)。ちなみに100万台達成は、ライバルのセガサターンが先に達成。
  • 1995年7月21日 - 日本国内価格を29,800円に値下げ。
  • 1995年9月 - アメリカで299ドルで販売開始。
  • 1996年5月末 - アメリカで販売価格を199ドルに値下げ。
  • 1996年11月30日 - 世界で生産出荷台数が1000万台突破。
  • 1997年1月9日 - 日本国内500万台達成。
  • 1997年12月31日 - 日本国内1000万台達成。
  • 1998年1月20日 - ソニー・コンピュータエンタテインメント、公正取引委員会から「PlayStation用ソフトウェアの販売について、小売業者に対し希望小売価格で販売するように、圧力を加えた」として独占禁止法に基づく排除勧告。
  • 1998年2月5日 - 世界で3000万台突破。
  • 1998年8月21日 - 世界で4000万台突破。
  • 1998年12月21日 - 世界で5000万台突破。
  • 1998年12月23日 - ポケットステーション発売開始[73]
  • 1999年12月2日 - 世界で7000万台突破。
  • 2000年7月7日 - 「PS one」発売。
  • 2002年 - アメリカ合衆国イマージョン社がPlayStation、およびPlayStation 2のコントローラ振動技術(バイブレーション機能デュアルショック)の特許権をめぐる訴訟を起こす。
  • 2002年7月 - ポケットステーションの生産終了[74]
  • 2004年5月18日 - 全世界累計でPS oneも含めた生産出荷台数が1億台突破。
  • 2005年3月24日 - イマージョン社との訴訟で、カリフォルニア州オークランド連邦地裁がソニー・コンピュータエンタテインメントなどに対し、アメリカでのPlayStationおよびPlayStation 2の販売差し止めと約9,070万ドル(日本円で約96億円)の損害賠償を命じる判決。ソニー・コンピュータエンタテインメントは再審理を請求。
  • 2005年9月30日 - 3Dゲームの技術進歩に大きく貢献したとして、技術・工学エミー賞(Technology & Engineering Emmy Award)を受賞。
  • 2006年3月14日 - イマージョン社との訴訟で、再審理請求が棄却。
  • 2006年3月 - PS oneの生産終了をもって初代規格のPlay Stationマシンの生産終了[75]
  • 2007年3月1日 - イマージョン社との訴訟で、請求金額に応じる形で和解。和解金は非公開。
  • 2014年3月31日 - アフターサービス受付終了[76][77]

機種別仕様比較表[編集]

SCPH-1000 SCPH-3000系 SCPH-5000 SCPH-5500 SCPH-7000 SCPH-7500 SCPH-9000 SCPH-100
(PS one)
ビデオ・オーディオ出力端子 RCA端子
S端子
AVマルチ
RCA端子
AVマルチ
AVマルチ
パラレル入出力端子 ×
画像演算コプロセッサ GTE GTE-2
GPU CXD8514 CXD8514
又はCXD8561
CXD8561 CXD8561
又はCXD9500Q
サウンドスコープ ×
付属コントローラ 初期型 DUALSHOCK
電源 ACケーブル ACアダプター
消費電力 10.5W 9.8W 9W 9.5W 9W 6.5W
質量 1.5kg N/A 1.4kg 1.2kg 560g

バリエーション[編集]

PlayStationは製造時期、販売地域によって異なる型番が付けられており、仕様が異なっている。その違いは主に入出力端子の有無によるものだが、ハードウェアの内部が変更されたことによるものもある。ソニー・コンピュータエンタテインメントは、型番による動作の違いはないとしているが、実際には1996年以降のバージョン「SCPH-5000」以降、グラフィックスの処理能力が向上したり、バグが改善されたり、逆に新たなバグが発生したり、動作しないゲームソフトが発生したりしている。そのため、古いハードウェアでは正常にプレイできないゲームソフトが数百タイトル存在する。

型番はSCPH-XXXYの形式で付けられている。ここではXXXが型式、Yが発売地域を表している。Yは日本用([NTSC J]、AC100V)が0、北米地域用([NTSC U/C]、AC110V - 127V)が1、ヨーロッパ・オセアニア地域用([PAL]、AC200V - 240V)が2、アジア地域用([NTSC J]、AC110V - 240V)が3である。

コンシューマー向け[編集]

特記がない場合、日本における概要について記述する。

SCPH-1000
1994年12月3日発売。
初代型番。39,800円で登場。日本では「イチ・ニ・サン」の掛け声のCMが放映された。
ビデオ端子、S端子、外部電源端子、パラレル入出力端子が装備され、ビデオ端子ケーブルが同梱。
通気口が少なく、長時間の稼動で熱暴走を起こすことがあった。
内部のソフトウェアにいろいろと不具合があった。
SCPH-3000が発売され値下げされた後も市場に出回っており、後期は29800円で購入できた。
ディスクが純正品かつ、日本市場用であるかどうかのCDチェックが1回しかなく、ある方法で海外のゲームソフトやCD-Rにバックアップ(コピー)したソフトが簡単に起動した。
北米向けに発売された最初期型SCPH-1001はこのSCPH-1000とほぼ同じ物である。
SCPH-3000
1995年7月21日発売。
29,800円に値下げ。ほとんどの店で実売価格26,800円に統一された。
S端子が削除される。
通気口が改善される。
描画に使用される画像処理プロセッサ「GTE」がバージョンアップ。エフェクト(フォグ)のかかり具合が違う。
この型番以降は基板が変更されBIOSの仕様も変更された。CDチェックの回数が2回に増え、海外用のソフトやコピーソフトが起動しづらくなった(ただし、一部ロットにはSCPH-1000と同等の基板のものが混じっており、それに当たるとSCPH-1000と同様の方法で起動するものがあった)。その結果、闇市場において「MODチップ」が開発され、日本国内でも出回ることとなった。
SCPH-3500
1996年3月28日発売。
24,800円に値下げ。
ナムコの『鉄拳2』の発売に合わせ、「ファイティングボックス」と銘打ってコントローラ2個が付属(通常は1個)。
SCPH-5000
1996年6月22日発売。
19,800円に値下げ。
5000番以降はバグをなくすとして、さまざまな目立った改良が施されているため、この型番の登場以降のゲームソフトは、その弊害で3500番台以前のハードウェアでは不具合を起こすゲームソフトがまれにある。
一部ロットに5500番以降で搭載されている新型のGPUが搭載されているものが存在する。
ちなみに次の日の6月23日にはライバル機のNINTENDO64が発売されている。
SCPH-5500
1996年11月15日発売。
ビデオ端子(RCA規格)が削除され、新たにAVマルチ出力端子から各種専用ケーブルによる出力となる。
「PU-20」という基板になり、メインメモリの変更やGPUなどがバージョンアップされ、画質と処理能力が若干向上。発熱も殆どなくなった。
なお、ここまでのPlayStationはCD-ROMドライブの読み取り(ピックアップレンズ)部分の設計の欠陥により、ピックアップレンズが随時動くことによるレールの磨耗によりピックが沈み込み、データをきちんと読み取れなくなってしまうという欠陥があった。そのため、5500番台以前のハードウェアを重用するユーザーは、本体を縦に立てて置く、裏返して置く、斜めに傾けるなどの延命策を講じていた。
また、日本以外のアジア市場向けのPlayStationも発売された。
SCPH-7000
1997年11月13日発売。
18,000円に値下げ。
それまでのコントローラに代わり、振動機能付きコントローラデュアルショック」を同梱。
CD-ROMドライブの読み取り部分の設計が改められる。これにより、縦置き術などの努力が不要になる。
画像処理プロセッサ「GTE」が「GTE-2」にバージョンアップ。ポリゴン描画性能が向上する(ただし、ソニー・コンピュータエンタテインメントの公称では変わっていないとされる)。
音楽CD再生機能が更新され、新たに『サウンドスコープ』というアプリケーションがハードウェアに搭載される。これは1997年6月20日に発売されたゲームソフト『BABY UNIVERSE』の一部機能を取り込んだものである。
2チップ構成だったCDコントローラを司るLSIが1チップに集積化。
SCPH-7500
1998年12月1日発売。
15,000円に値下げ。
サウンドCPUとCDコントローラの2チップが統合されて1チップに集積化。
SCPH-9000
1999年5月28日発売。
外観はSCPH-1000と変わらないが、内部の基板はそれまで幾度の改良・再構成を経て最終世代に近づいていた時期でもあり、SCPH-1000の半分程度の大きさにまでシュリンクされている。
この機種よりパラレル入出力端子が削除された。日本では最後までこの端子を利用した周辺機器が開発されなかったためであるが、非公認メーカーによるゲームのデータを改造するツール、または違法コピーCDを動作させるツールの接続端子として用いられる例が多かったため、そういった非公認ツールに対処するためとも言われる。
なお削除されたのは端子だけで、機能自体は基板に残ったままであったため、コネクタと配線を自力で付ければ使用可能。
SCPH-100(PS one
2000年7月7日発売。PS1世代最後のハードである。
希望小売価格15,000円(2001年9月12日に9,980円へ、2002年5月16日にオープン価格へと改定)。
1994年の発売時から変わっていなかったハードウェアの外観が一新され、小型化。色はライト・グレー。
内部的な性能・機能はSCPH-9000と同等。
SCPH-1000で付いていた数多の外部端子も殆ど省かれ、電源入力と映像出力のみになってしまった。
登場時期が「PlayStation 2」の発売と前後していたこともあり、ユーザー間にはPlayStation 2に搭載されているいわゆる『ワンチップPS』を使用しているのではないかという憶測があったが、(文字通り)蓋を開けてみればほとんどSCPH-9000そのものであった。
以前までハードウェア内部に搭載されていた電源部分は内部から除外され、ACアダプターによる駆動に変更された。ACアダプター駆動となったため、自動車の電源で駆動するためのカーアダプタも発売された。
SCPH-5903
1997年発売。日本以外のアジア圏では「ビデオCD」の文化が栄えており、東アジアや東南アジア市場で展開するため、それに対応しビデオCDも見られるようにしたもの。本体は白色で、本体の右上に「Video CD」の表記がある。ソフトウェア再生ではなく、専用のMPEGデコーダを搭載している。ビデオ端子がAVマルチ端子に一元化されたSCPH-5500が発売された後の機種ではあるが、本機種のビデオ端子はSCPH-5000以前と同じく、RCAピン端子を装備する。

開発者向け[編集]

DTL-H1000など
開発用のSCPH-1000などに相当する。
ソニー・コンピュータエンタテインメントとPlayStation専用ソフトウェア開発におけるライセンス契約した法人(「ライセンシー」。サードパーティーやゲーム開発会社などが該当)[補足 6]のみが同社から直接提供されるものであり、門外不出。本体裏に通し番号があり、売り払ったりすると誰が売ったか分かる仕組みになっている。開発用なだけあり、CD-Rにコピーしたソフトを動かす事が可能。本体の色が一般の灰色と違い、青色だったため「青ステ」と呼ばれることもある。
DTL-H1200など
開発用のSCPH-3000などに相当する。
通称「リビジョン-C」と呼ばれ、ライセンシー(ライセンス契約した法人)は前記のDTL-H1000と、両方で正常に動作することを確認させられる。本体が緑色だったため、「緑ステ」("みどすて")と呼ばれることもある。
DTL-H2000
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。DTL-H2000 CPU2ボードにはCPU(GTE)とGPU,SPUが、またPIOボードにはCD-ROM用制御LSIが実装されている。
DTL-H200 GRAPHICS ARTIST BOARD
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。GPUと画像出力回路のみ実装されている。
DTL-H201A GRAPHICS ARTIST BOARD
IBM-PC/ATバスタイプの開発用ボード。GPUと画像出力回路のみ実装されている。
DTL-H3000
ネットやろうぜ!」用。「ネットやろうぜ!」とは、ソニー・コンピュータエンタテインメントが一般人に向けてソフトウェア開発環境を提供するシステムで、12万円で通信販売された。国籍プロテクトがかかっていないため、日本国内のゲームソフトだけでなく、日本以外で販売されたゲームソフトも動作する。募集締め切りの後、現在は学校関係者にのみ8万円で販売されている。黒い外観から「黒ステ」と呼ばれることがある。

また、本体形状がコンシューマー向けのものと同じで本体色が異なるPlayStationは「デバッギングステーション」と呼ばれることがある。これはゲームソフトを開発するために設計された機種であるため、コンシューマー向けのPlayStationとは機能が大きく異なる。

互換機種[編集]

PlayStationのアーキテクチャは家庭用のみならず、アーケードゲーム機としても活用された。PlayStation互換及びPlayStation上位互換の業務用システム基板は大手ゲームメーカー各社で採用され、業務用ゲームの家庭用への移植に貢献した。

周辺機器[編集]

SCE純正、ソニーグループより発売[編集]

型番 名称 発売日 備考
SCPH-1000 PlayStation 1994年12月3日 本体。
SCPH-1010 コントローラ 初期の本体に付属。デジタル入力のみのコントローラ。海外版と異なりケーブルが短く、日本人に合わせて外形寸法が小さい。
SCPH-1020 メモリーカード ゲームのセーブデータを保存しておくための補助記憶装置。記憶媒体として1Mbit(128KB)のフラッシュメモリを採用している。保存領域は15ブロックだが、PS2のメモリーカード管理画面では消費容量が1ブロック辺り8KBで表示されている。それによると8KB(1ブロック)が未使用になるが、これはメモリーカード自身のデータ管理用の領域で1ブロック消費されているためであり、それも含めて16ブロック、128KBの記録領域がある。
SCPH-1030 マウスセット 1994年12月3日 PlayStation規格ソフト専用のボール式2ボタンマウス。マウスパッドもセットに含まれる。PlayStation 2規格ソフトには使用できない。
SCPH-1040 対戦ケーブル PlayStationを2台接続して対戦ができる。PSoneやPlayStation 2には使用できない。
SCPH-1050 RGBケーブル 1995年3月17日 音声・映像を出力するためのケーブル。RGB21ピン端子付きのテレビで利用できる。PlayStation 2でも使用可能。
SCPH-1060 RFUケーブル 1995年3月17日 音声・映像を出力するためのケーブル。RF出力でアンテナ線に接続できる。SCPH-5500以降の本体には使用できない。
SCPH-1070 マルチタップ 1995年11月22日 PlayStation規格ソフトを3人以上でプレイする際に使用する。PlayStation 2規格ソフトには使用できない。形状はL字型。コントローラを4つ接続できる。PlayStation 2用のものは使用不可。
SCPH-1080 コントローラ 1996年4月2日 SCPH-1010の改良版。コードが長くなり、ノイズフィルターがついた。
SCPH-1090 マウスセット(ロングケーブル) 1998年5月7日 SCPH-1030の改良版。ケーブルが長くなっている。
SCPH-1100 S端子ケーブル 1995年11月22日 音声・映像を出力するためのケーブル。S端子付きのテレビで利用できる。
SCPH-1110 アナログジョイスティック 1996年4月26日 フライトシューティングゲーム向けにアナログスティックが2本ある大型のジョイスティック
SCPH-1120 RFUアダプターキット 1996年11月22日 RF出力をするためのキット。
SCPH-1130 電源ケーブル PlayStationに電源を供給するケーブル。本体に付属。
SCPH-1140 AVケーブル 1997年3月14日 PlayStationをテレビに接続する、映像/音声一体型のケーブル。本体に付属。
SCPH-1150 アナログコントローラ 1997年4月25日 アナログスティック2本と、振動機能を搭載している。のちに発売された「デュアルショック」と形状はほぼ同じだが、コントローラの振動機能に強弱の区別がない。SCPH-1110の互換モードを持っている。
SCPH-1160 AVアダプター PlayStationを通常のAVケーブルでテレビに接続することができるキット。SCPH-5500以降の本体にガンコンを接続する際にも使用する。
SCPH-1180 Analog Controller 日本未発売。アナログコントローラに似ているが、振動機能未搭載。
SCPH-1200 アナログコントローラ DUALSHOCK 1997年11月20日 SCPH-7000から標準となったコントローラ。SCPH-1150にあったSCPH-1110互換モードは省かれた。
SCPH-1210 メモリーカードケース 1998年3月19日 メモリーカードを収納するケース。当初はメモリーカードとセットであったが、後に別売りになり、その時に型番がついた。
SCPH-3000 PlayStation 1995年7月21日 本体。
SCPH-4000 ポケットステーション 1999年1月23日 モノクロ液晶画面付きのメモリーカード。ちょっとしたゲームを遊ぶことも可能。
SCPH-4010 Vpick ギターのピックを模した入力装置。
SCPH-4020 ロングストラップ 1999年1月23日 ポケットステーション用のロングストラップ。
SCPH-4030 ハンドストラップ 1999年3月25日 ポケットステーション用のハンドストラップ。
SCPH-5000 PlayStation 1996年6月22日 本体。
SCPH-7000 1997年11月13日 本体。
SCPH-9000 1999年5月28日 本体。
SCPH-100 PS one 2000年7月7日 本体。
SCPH-110 アナログコントローラ DUALSHOCK
  • AVマルチケーブルVMC-AVM250(ソニー株式会社テレビ事業部)
  • ステレオテレビ(ソニー株式会社テレビ事業部)
    • 上記のAVケーブル一本で接続できる21型トリニトロンカラーテレビ。他の機種でも接続出来るテレビはラインナップされているが、本品は特にゲームプレイに特化している。スタイルもPlayStationのイメージに合わせている。品番はKV-21SP1[78]

他社発売[編集]

  • 『チョーきれいだね!』アップスキャンコンバーター SLPH-00016(WAKA製作所)
    • AVマルチ端子のRGB出力で31kHzの一般PCモニターへ接続用ラインダブラー
  • マルチアウト変換ジャック SLPH-00091(株式会社HORI
    • 純正AVアダプターの廉価版とも言える商品。
  • 21ピンRGBケーブル 3A-RGB21-PS(3Aカンパニー)
    • 純正RGBケーブル「SCPH-1050」同等品
  • ネジコン株式会社ナムコ
  • ジョグコン(株式会社ナムコ)
  • ガンコン(株式会社ナムコ)
  • ハイパーブラスター(コナミ株式会社
  • 『コックピットBIGショック』振動ステアリングコントローラ SLPH-00101(OPTEC)
  • 電車でGO!専用コントローラ(株式会社タイトー
    • 型番はSLPH-00051だが、以降発売の色替えバージョン及びワンハンドルタイプ等はSLPHはついていない(TCPP-200XX等の品番となっている)。
  • beatmania専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • アスキーが発売したものの型番はASC-0515BM、コナミが発売したDJ Station PROはCT013と、どちらもSLPHはついていない。
  • ダンスダンスレボリューション専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • 型番はそれぞれRU017(本体のみ・初期版)/RU023(マット内蔵のデラックス版)/RU026(ハンドコントローラ)/RU031(ディズニー版)/RU039(本体のみ・後期版)と、どれもSLPHはついていない。
  • ギターフリークス専用コントローラ(コナミ株式会社)
  • ドラムマニア専用コントローラ(コナミ株式会社)
    • ギターフリークス用がRU018、ドラムマニア用がRU021。ドラムマニアはPlayStation 2用ソフトとして発売。後にGuitarFreaksV & DrummaniaVと同時発売された廉価版は型番の後ろに-J2が付く。尚、ドラムマニア用のRU021-J2はスタンドがデスク用ミニ脚になっている。
  • 『SANKYO N・ASUKA』パチンコハンドル型コントローラ SLPH-00007(ティー・イー・エヌ研究所)
  • キッズステーション専用コントローラ(株式会社バンダイ

脚注[編集]

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補足[編集]

  1. ^ ただし、一部のテレビCMなどでは「プレステ」という表現が使用されている。
  2. ^ 初心会は後に別名で復活するが、その影響力は皆無に近くなった
  3. ^ ローディング速度に関しては、同時代のCD-ROM機『ネオジオCD』と比較すると顕著
  4. ^ テクスチャ・半透明処理・シェーディングを施した時の実測値。
  5. ^ 当時「ハイレゾ」と呼ばれた出力処理「ハイレゾリューション」という単語自体は技術の推移により解像度が上昇する事で、該当する対象が変化する事で現在も用いられている。だが、RAM容量の関係からこの解像度のグラフィックをリアルタイムで動かす事は難しく、主に「一枚絵」と呼ばれる画像の表示に用いられた。
  6. ^ 「ライセンシー」。サードパーティーやゲーム開発会社などが該当。対義語にはライセンスを許諾したメーカーを指す「ライセンサー」があり、ソニー・コンピュータエンタテインメントのことを指す。

出典[編集]

  1. ^ a b c GAME.Watch. “SCEJ、PSおよびPS oneの本体出荷台数が全世界で累計1億台を突破と発表”. インプレス. 2015年2月3日閲覧。
  2. ^ 「第11章 CESAゲームアーカイブス」『2014 CESAゲーム白書』、CESA、159頁。
  3. ^ 週刊ファミ通3月27日号増刊『オトナファミ 2009 April』、KADOKAWA、58頁。
  4. ^ ポリフォニー・デジタル. “『グランツーリスモ』シリーズ タイトルリスト”. ポリフォニー・デジタル. 2015年2月3日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 初代プレイステーションを救ったのは『バーチャファイター』!? SCE創業メンバーたちがその成功の背景を語った ファミ通.com 2012年9月1日
  6. ^ “プレステ禁止令の実情を探る!”. livedoorニュース Anigema (トレビアンニュース). (2007年8月6日). http://news.livedoor.com/article/detail/3258942/ 2010年6月22日閲覧。 
  7. ^ 赤木哲平『マルチメディアの覇者 熾烈をきわめる勝ち残り戦略』日本能率協会マネジメントセンター、1995年、p.27
  8. ^ 麻倉怜士『ソニーの革命児たち〜世界制覇を仕掛けた男たちの発送と行動〜』IDGコミュニケーションズ、1998年、p.48,132、滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、p.195、幻のスーパーファミコン用CD-ROMアダプターと単独路線 CNET Japan、2012/09/10)
  9. ^ ハドソンがソニーへ接触を試みたことがあるが、新ゲーム機の企画提案ではない(平林久和急にハドソンのことが語りたくなった -』、滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、p.180-184)。 また「PCエンジンの成功を見たソニーは、ロムカセットの代わりにCD-ROMを用いたゲームを採用するように任天堂に提案。」という仮説がネット上に掲載されたことがある(山田俊浩『プレステ4巻き返しへの課題 栄枯盛衰の家庭用ゲーム機市場東洋経済新報社、2013年3月21日)
  10. ^ 麻倉怜士『ソニーの革命児たち』IDGコミュニケーションズ、1998年、pp.44-48
  11. ^ 西田宗千佳『美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史』講談社、2008年、pp.15-16
  12. ^ 山下敦史『プレイステーション大ヒットの真実』日本能率協会マネジメントセンター、1998年、p.52
  13. ^ 馬場宏尚『ゲームソフト戦争』ぱる出版、1997年、pp.108-111
  14. ^ 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)
  15. ^ 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)
  16. ^ 馬場宏尚『ソニーが任天堂に食われる日』エール出版社、1993年、pp.146-149
  17. ^ 任天堂 再浮上の条件(上) 次なる敵はアップル 日本経済新聞 1990年代初頭、ソニーと任天堂はPSの原型となったゲーム機を共同開発する計画を進めていた。だがハードのみを担当するはずのソニーが自前のソフトで試作品を実演したことに当時の山内溥社長が激怒。共同開発はお蔵入りになった。
  18. ^ 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)
  19. ^ 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)
  20. ^ 西田宗千佳『漂流するソニーのDNA プレイステーションで世界と戦った男たち』講談社、2008年、p.43
  21. ^ 麻倉怜士『ソニーの革命児たち』IDGコミュニケーションズ、1998年、p.94
  22. ^ 西田宗千佳『漂流するソニーのDNA プレイステーションで世界と戦った男たち』講談社、2008年、p.46
  23. ^ 馬場宏尚『ゲームソフト戦争』ぱる出版、1997年、p.133
  24. ^ 『参考までに、当時ソニーが発売していたスーパーファミコンの開発機材「NEWS」は2000万前後していた。』という主張があるようだが、ソニーのワークステーション「NEWS」は、当初の最上位機種で275万円であり( http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060912/247835/ )、あきらかに嘘である。
  25. ^ 多根清史『プレステ3はなぜ失敗したのか』晋遊舎ブラック新書、2007年、p.109
  26. ^ 多根清史『日本を変えた10大ゲーム機』ソフトバンククリエイティブ・ソフトバンク新書、2008年、p.159
  27. ^ 麻倉怜士『ソニーの革命児たち』IDGコミュニケーションズ、1998年、p.115
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  29. ^ 山下敦史『プレイステーション大ヒットの真実』日本能率協会マネジメントセンター、1998年、p.123
  30. ^ 岩谷徹『パックマンのゲーム学入門』エンターブレイン、2005年、pp.78-80
  31. ^ 西田宗千佳『美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史』講談社、2008年、p.72
  32. ^ 週刊少年ジャンプ』1996年2月26日号。巻頭グラビア記事。
  33. ^ 馬場宏尚『ソニー・セガ・任天堂 ゲーム機最終戦争』エール出版、1996年、p.14
  34. ^ 西田宗千佳『美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史』講談社、2008年、p.89
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  51. ^ 株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントに対する審決について
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  63. ^ 米Connectix、PSエミュレータ「Virtual Game Station」係争で勝利を勝ち取る
  64. ^ ソニーコンピュータエンターテインメントと米Connectixがエミュレータ技術に関する提携を発表
  65. ^ 朝日新聞ウィークリー AERA 1997年1月27日号、10-12頁(朝日新聞社、1997年1月20日発売)、P.11-5段に流通関連が、P.12-4段にスクウェア(当時)の映画的ゲームの取り組みが記載
  66. ^ 麻倉怜士『ソニーの革命児たち』IDGコミュニケーションズ、1998年
  67. ^ PlayStation(初代PSおよびPS one)家庭用ゲーム機で、史上初の全世界生産出荷累計1億台を達成
  68. ^ “プレイステーションの父”久夛良木健が生涯功労賞を受賞 受賞時のコメントを紹介【GDC 2014】
  69. ^ a b 久夛良木健「リアルタイム3D-CGを家庭用ゲーム機に導入」『新世代ゲームビジネス』日経BP、1995年、pp.92-96
  70. ^ Sony Selects LSI Logic to Supply Key I/O Processor for Next Generation PlayStationナショナル セミコンダクター役員紹介 - ブライアン L. ハーラなどによる
  71. ^ 西田宗千佳『美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史』講談社、2008年、pp.114-115
  72. ^ 近藤良夫(NEC)「インタラクティブアニメ動画の再生とパソコンの接続性に特徴」『新世代ゲームビジネス』日経BP、1995年、p.119。PC-FXのハードウェア仕様より。
  73. ^ ソニーのPDAはその名もポケットステーション IT Media 1998年10月9日
  74. ^ SCEI、ポケットステーションの生産を終了 GAME Watch 2002年7月19日
  75. ^ Sony pulls plug on PSone production engadget Mar 24th, 2006
  76. ^ 一部機種のアフターサービス受付終了のお知らせ
  77. ^ PSシリーズサポート終了機種一覧
  78. ^ “プレイステーション”専用の前面RGB入力端子を装備する 21型 ステレオテレビ 発売、報道資料、1997年5月29日

参考文献[編集]

  • 情報処理学会編『新版 情報処理ハンドブック』(オーム社、1995年11月、ISBN 4-274-07832-9
  • 朝日新聞ウィークリー AERA 1997年1月27日号、10-12頁(朝日新聞社、1997年1月20日発売)
  • 麻倉怜士『ソニーの革命児たち』IDGコミュニケーションズ、1998年
  • 大賀典雄『SONYの旋律(私の履歴書)』(2003年 日本経済新聞社)

関連項目[編集]

ソフト一覧[編集]

ハードウェア・周辺機器等[編集]

本体製品
  • PS one - 本機の小型版。
  • PlayStation 2 - 全製品において PlayStation との上位互換機能を持つ。
周辺機器

その他[編集]

外部リンク[編集]