プラーゲ旋風

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プラーゲ旋風(プラーゲせんぷう)は、1931年(昭和6年)に、ドイツウィルヘルム・プラーゲが欧州の著作権管理団体の代理人として、日本の放送局や演奏家に対して高額の著作権使用料を請求した事件である。

概要[編集]

かつて日本の著作権法では、演奏権が留保され、放送権が定められていなかったことから、楽曲の演奏や放送を自由に行うことができた。しかし、欧州諸国が演奏権を認める法改正を行ったことや、1928年(昭和3年)のベルヌ条約の改正によって放送権が認められたことから、日本においても1931年(昭和6年)に著作権法の改正を行い、放送権を導入するとともに、演奏権留保が放棄された。しかし、著作権意識が希薄であった当時の日本では、依然として著作者の許諾を得ることなく放送や演奏が行われていた。

当時、旧制第一高等学校(現東京大学)でドイツ語の教師をしていたウィルヘルム・プラーゲは、1931年(昭和6年)に欧州の著作権管理団体から代理人として委託を受け、放送局やオーケストラなどに対して著作権使用料の請求を開始。1932年(昭和7年)には、NHKに音楽放送の著作権使用料を請求し、月額600円の使用料を得た。さらに、翌1933年(昭和8年)8月1日には月額1,500円への値上げ要求したが、NHKが拒絶したため、その後、約1年間にわたり欧米の曲がNHKで放送されなくなるなど、社会的に欧米の楽曲の使用に困難を来す事態となった。

これに対して、1934年(昭和9年)に著作権法が改正され、適法に複製されたレコードについては、著作権者の許諾なく放送することができること、著作権者と協議ができない場合には、一定条件下で強制許諾を認めることが定められた。

1937年(昭和12年)、プラーゲは大日本音楽作家出版者協会という権利管理団体を自ら設立し、日本人の著作権管理に乗り出した。この団体には山田耕筰らが著作権を信託したことから、放送局などの利用者側は危機感を抱くに至った。

1939年(昭和14年)には、著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律(仲介業務法)が制定され、著作権管理団体が許可制となる。社団法人大日本音楽著作権協会(現在の日本音楽著作権協会(JASRAC))及び大日本文芸著作権保護同盟が許可されたが、大日本音楽作家出版者協会は不許可。仲介業務法制定の目的のひとつは、プラーゲの団体の締め出しであったとされる。

これにより、大日本音楽作家出版者協会は1940年(昭和15年)10月に解散。1941年(昭和16年)には、奉天市(現在の瀋陽市)に開設した東亜コピライト事務所が仲介業務法違反で罰金600円の判決を受け、プラーゲはドイツに帰国した。

参考文献[編集]

  • 森哲司『ウィルヘルム・プラーゲ - 日本の著作権の生みの親』(河出書房新社、1996年)
  • 大家重夫『プラーゲ旋風』(黎文社、1974年)
  • 大家重夫『改訂版ニッポン著作権物語』(青山社、1999年)
  • 大家重夫『著作権を確立した人々 - 福沢諭吉先生、水野錬太郎博士、プラーゲ博士 第2版』(成文堂選書、2004年)
  • 大家重夫『プラーゲ旋風-1930年代、日本の著作権事情』[『知的財産法研究』138号(2008年3月)13頁-31頁]
  • 大家重夫『JASRAC誕生の経緯と法的環境』[紋谷暢男編『JASRAC概論:音楽著作権の法と管理』(日本評論社、2009年)第1章]
  • 斉藤博『著作権法 第2版』(有斐閣、2004年)