プラーゲ旋風

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プラーゲ旋風(プラーゲせんぷう)とは、外国音楽著作権団体の代理人として外国人音楽著作物を管理していたウィルヘルム・プラーゲ(W. Plage)によってひきおこされた様々な著作権紛争事件を指す[1]

始まり[編集]

1931年(昭和6年)、東京神田にプラーゲが事務所を開設した。欧州5ヶ国の著作権管理団体からなるカルテルの代理人、そしてBIEM(ビーム、またはビエム)の代理人であるプラーゲは著作権の管理を開始した。

この年に日本はベルヌ条約ローマ改正規定で楽譜の演奏権の留保を放棄して公布。これが決定的な契機となった。

歴史的な経緯[編集]

日本が文明国の仲間入りをするためには、幕末に結ばれた不平等条約を改正する必要があった。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、不平等条約が改正される動きがあった。それは外国の知的財産権を日本に保護させ、国際条約に加入させる働きかけとセットであった。

1899年(明治32年)3月4日、著作権法が公布された。1899年(明治32年)、日本はベルヌ条約に加入。7月13日に公布した。1908年(明治41年)、ベルヌ条約ベルリン改正規定で楽譜の保護の条件であった無断演奏を禁止する旨の記載が不要になった。日本は楽譜の演奏権に関する改正規定には留保を宣言、旧規定のままとした。

1928年(昭和3年)、ローマにおいてベルヌ条約の改正が加盟国同士で話し合われた。この会議で日本は翻訳権10年留保は維持したが、演奏権の留保を放棄した。またローマ改正規定では放送権が新設されたのに伴い旧著作権法が放送に関して改正。これを1931年に公布した。

プラーゲ旋風[編集]

旧制第一高等学校(現東京大学)でドイツ語の教師をしていたウィルヘルム・プラーゲは、1931年(昭和6年)より放送局やオーケストラなどに対して著作権使用料の請求を開始。1932年(昭和7年)には、社団法人日本放送協会に音楽放送の著作権使用料を請求し、月額600円の使用料を得た。さらに、翌1933年(昭和8年)8月1日には月額1,500円への値上げ要求したが、社団法人日本放送協会が拒絶したため、その後、約1年間にわたり、欧州の曲が社団法人日本放送協会で放送されなくなるなど、社会的に欧米の楽曲の使用に困難を来す事態となった。混乱した日本ではベルヌ条約を離脱すべきとの声もでた。

1934年(昭和9年)、適法に録音された録音物を用いて演奏または放送する場合は、出所を明示すれば著作権侵害と見なさないという規定が旧著作権法に設けられた。いわゆるレコードによる著作物の無償自由利用規定であり、平成まで続く日本の著作権の問題になった。

1937年(昭和12年)、プラーゲは大日本音楽作家出版者協会という権利管理団体を自ら設立し、日本人の著作権管理に乗り出した。この団体には山田耕筰らが著作権を信託したことから、放送局などの利用者側は危機感を抱くに至った。

1939年(昭和14年)には、著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律(仲介業務法)が制定され、著作権管理団体が許可制となる。社団法人大日本音楽著作権協会(現在の日本音楽著作権協会(JASRAC))及び大日本文芸著作権保護同盟が許可されたが、大日本音楽作家出版者協会は不許可。仲介業務法制定の目的のひとつは、プラーゲの団体の締め出しであったとされる。

これにより、大日本音楽作家出版者協会は1940年(昭和15年)10月に解散。1941年(昭和16年)には、満州国奉天市(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)に開設した東亜コピライト事務所が仲介業務法違反で罰金600円の判決を受け、プラーゲはナチス・ドイツに帰国した。

脚注[編集]

  1. ^ 『著作権法逐条講義四訂新版』P 771、加戸守行、2003年、社団法人著作権管理センター

参考文献[編集]

  • 森哲司『ウィルヘルム・プラーゲ - 日本の著作権の生みの親』(河出書房新社、1996年)
  • 大家重夫『プラーゲ旋風』(黎文社、1974年)
  • 大家重夫『改訂版ニッポン著作権物語』(青山社、1999年)
  • 大家重夫『著作権を確立した人々 - 福沢諭吉先生、水野錬太郎博士、プラーゲ博士 第2版』(成文堂選書、2004年)
  • 大家重夫『プラーゲ旋風-1930年代、日本の著作権事情』[『知的財産法研究』138号(2008年3月)13頁-31頁]
  • 大家重夫『JASRAC誕生の経緯と法的環境』[紋谷暢男編『JASRAC概論:音楽著作権の法と管理』(日本評論社、2009年)第1章]
  • 斉藤博『著作権法 第2版』(有斐閣、2004年)

外部リンク[編集]