プラタープ・シング (メーワール王)

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プラタープ・シング
Pratap Singh
メーワール王
RajaRaviVarma MaharanaPratap.jpg
プラタープ・シング
在位 1572年 - 1597年
戴冠式 1572年2月28日

出生 1540年5月9日
パーリガル
死去 1597年1月19日
チャーヴァンド
子女 アマル・シング
王朝 シソーディヤー朝
父親 ウダイ・シング2世
宗教 ヒンドゥー教
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プラタープ・シング(Pratap Singh, 1540年5月9日 - 1597年1月19日)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1572年 - 1597年)。

生涯[編集]

即位まで[編集]

1540年5月9日メーワール王国の君主ウダイ・シング2世の息子として、パーリガルで誕生した[1][2]

1568年、メーワール王国はムガル帝国により首都チットールガルを奪われたが、父ウダイ・シング2世はウダイプルを拠点に戦闘を続けた。

1572年2月、父ウダイ・シング2世が死亡したことにより、王位を継承した[3][4]

ムガル帝国との戦い[編集]

プラタープ・シングの即位時、チットールガルとその周辺の領土は帝国に奪われていたが、ウダイプルと大部分の丘陵地はメーワール王国の支配下にあった[5]。彼は帝国から自身の領土を奪還しようと試みた[6]

プラタープ・シングは皇帝アクバルから帝国の宗主権を受け入れ、自ら忠誠を誓うように説得された[7]。彼のもとにはマーン・シングバグワント・ダーストーダル・マルなどの使節が送られた[8]

プラタープ・シングは使節を丁重にもてなし、一時は妥協することも考えたものの、誇りだ高き彼は自らアクバルのもとへは赴かなかった。代わりに自身の息子アマル・シングにアクバルから与えられた服を着せ、バグワント・ダースに同行させて宮廷へ派遣した[9]。彼自身が宮廷に赴かなかったこと、加えて帝国がチットールガルを返還する意思を見せなかったため、両者は最終的な合意には達しなかった[10]

1576年初頭、アクバルはアジュメールに進軍し、マーン・シングに5000騎を率いてメーワール王国へ遠征するように命じた[11]。プラタープ・シングはこれを予想しており、王国の全領域を荒廃させていた[12]。そのうえ、丘陵地帯のすべての峠は要塞化されていた[13]

同年、プラタープ・シングとマーン・シングの軍勢は、クンバルガル(クンバルメール)に通じる狭い峠ハルディーガーティーで激突した(ハルディーガーティーの戦い[14]。メーワール軍は奮戦し、一時は帝国軍を混乱に陥れた[15]。だが、アクバル自身が率いてきた援軍が到着し、不利を悟ったプラタープ・シングはアラーヴァリー山脈地帯へ逃走した[16][17]

こののち、プラタープ・シングは正々堂々の戦いを挑まず、ゲリラ戦を展開して抵抗した[18]。ハルディーガーティーにおける敗戦はプラタープ・シング自身の戦意を弱めることはなかったが、独立を守るという大義はすでに失われ、ラージプートの大部分は帝国に帰順していた[19]。ラージプートの諸国は強大な帝国に小国が独立を維持することは不可能であることを悟っていたうえ、アクバルは諸国に自治を許していた[20]

プラタープ・シングは強大な帝国に対して、他のラージプート諸国の援助もなく戦い続けた[21]。帝国は容赦のない圧力をかけ、プラタープ・シングを支持してきたバーンスワーラードゥーンガルプルシローヒーなどを侵略した[22]。その後、これらの国々とは個別に条約が結ばれ、メーワール王国に更なる孤立をもたらした[23]

クンバルガルやウダイプルも帝国軍に占領されたため、プラタープ・シングは妻や子とともに貧窮と苦難耐えながら、谷や森を逃亡する大変な旅を経験した[24][25]。とはいえ、彼自身に降伏する気は芽生えず[26]、ビール族の首長らのおかげで抵抗を続けることはできた[27]

その後、1580年代になって、帝国内部でアクバルの改革に抗議してベンガルビハールで反乱が発生し、これにミールザー・ハキームが呼応し、パンジャーブに侵攻してきた[28]。そのため、1585年にアクバルはラホールに移動し、北西部の情勢を見守るためにその地を首都とした。

1585年以降、メーワール王国に帝国の遠征軍が派遣されることはなかった[29]。プラタープ・シングはこの有利な状況を見て、クンバルガルやチットールガル周辺の領土をはじめ王国領の大半を奪還したが、チットールガル自体の回復はできなかった[30][31]。この時期、ドゥーンガルプルの近くに新首都チャーヴァンドが建設された[32]

死とその後[編集]

プラタープ・シング像(ウダイプル

1597年1月19日、プラタープ・シングはチャーヴァンドで死亡した[33][34]。堅い弓を引こうとしたときに受けた内傷が原因だっという。晩年はチットールガルに隣接する山岳からチットールガルを見つめては涙を流したとされている[35]

プラタープ・シングの勇気と心に抱いた主義のために自己を犠牲にして戦い続けた人生とその精神は、今でもなお武勇譚として語り継がれている[36][37]

プラタープ・シングはチットールガルを奪還するまでは、一枚の木の葉で食事をし、藁の寝床で眠り、死ぬまでそれを続けたという[38]。彼の王国解放における勇気、英雄的行為、筆舌しがたいほどの長く苦難の物語は、今日のラージャスターンの人々が皆知っており、その名を越えるほどの偉大な名はないとされる[39]

プラタープ・シングの散発的戦法は、アフマドナガル王国の武将マリク・アンバル、そしてマラーター王国の創始者シヴァージーに受け継がれた[40]

出典・脚注[編集]

  1. ^ Udaipur (Princely State)
  2. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  3. ^ Udaipur (Princely State)
  4. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  5. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.253
  6. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.253
  7. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.253
  8. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.253
  9. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.253
  10. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  11. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  12. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  13. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  14. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  15. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  16. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  17. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  18. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  19. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.254
  20. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  21. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  22. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  23. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  24. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  25. ^ チョプラ『インド史』、p.131
  26. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  27. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  28. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  29. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  30. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  31. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  32. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  33. ^ Udaipur (Princely State)
  34. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  35. ^ チョプラ『インド史』、p.131
  36. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  37. ^ チョプラ『インド史』、p.131
  38. ^ チョプラ『インド史』、p.131
  39. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255
  40. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.255

参考文献[編集]

  • サティーシュ・チャンドラ、小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年。 
  • P・N・チョプラ、三浦愛明訳 『インド史』 法蔵館、1994年。 

関連項目[編集]