プブリウス・リキニウス・クラッスス

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プブリウス・リキニウス・クラッススラテン語: Publius Licinius Crassus, ? - 紀元前53年)は、共和政ローマの軍人・政治家。第一回三頭政治を行ったマルクス・リキニウス・クラッススの息子。

生涯[編集]

前半生[編集]

プブリウスはマルクス・リキニウス・クラッススを父、テルトゥラを母として生まれたが、誕生年は伝わっていない。プブリウスはマルクス・トゥッリウス・キケロの信奉者であり、父がカティリナ事件への関与をキケロに追及されたことに腹を立てて、キケロを害しようとした際にこれを阻止し、逆に父とキケロの仲を取り持った[1]。また、元老院の重鎮クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカの娘であったコルネリア(en)を妻に迎えた。

ガリア戦争[編集]

紀元前58年からのガリア属州総督で父の同盟者ガイウス・ユリウス・カエサルの元でガリア戦争に従軍。アリオウィストゥス率いるゲルマン人と戦ったウォセグスの戦い騎兵隊長として重要な働きをした[2]

紀元前57年からは、総督副官(レガトゥス)としてローマ軍団を指揮した。この年、派遣されて大西洋沿岸地域(アレモリカ)のガリア人諸部族を帰服させた。紀元前56年のアレモリカ諸部族の反乱に際しては、ガリア南西部のアクィタニアにローマ軍1個軍団を率いてアクィタニア人がアレモリカ諸部族との連携を阻止して、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスによるアレモリカ諸部族の反乱の平定に間接的ながら貢献した。

なお、プブリウスが父のパルティア遠征に従軍するためにガリアを離れた後も、プブリウスの兄弟であったマルクスはクァエストル(財務官)としてガリアに残り、『ガリア戦記』によると、紀元前54年にルキウス・ムナティウス・プランクス(en)やガイウス・トレボニウスと共に3個軍団を率いてベルガエ人の領地へ赴任した[3]。同年にアンビオリクスによってクィントゥス・ティトゥリウス・サビヌス及びルキウス・アウルンクレイウス・コッタ率いるローマ軍団が壊滅した(アドゥアトゥカの戦い)後、アンビオリクスに呼応したネルウィ族の軍に陣営を攻撃されていたクィントゥス・トゥッリウス・キケロの救援にカエサル自身が向かうのに際して、重要な後方の兵站拠点であったサマロブリウァ(Samarobriva, 現:アミアン)の守備を任じられた。

対パルティア戦争[編集]

父によるパルティア遠征に従軍するため、ガリアを離れて、ゲルマン騎兵ら兵1,000を連れて、紀元前54年冬にシリア属州に滞在していた父の本軍と合流した。紀元前53年、軍の一部隊を任されてパルティアとの戦いに臨んだものの、パルティアによる父の本軍とプブリウスの別働隊を引き離す計略にかかって敗北を喫し、配下のギリシア人に逃亡を進言されたが、自害して果てた。その後、ローマ軍はパルティア軍にカルラエの戦いで完敗して、父や総督副官オクタウィウスを始めとした多数の将兵が戦死した[1]

プブリウスの死後、妻コルネリアは紀元前52年にグナエウス・ポンペイウスの5番目の妻となったが、紀元前49年9月に自身の目の前で再び夫の死に遭遇することとなった。

その他[編集]

カエサルは『ガリア戦記』において、プブリウスについて「若きクラッスス」や「青年クラッスス」と記載しているが、これは父と区別するためだけでなく、親愛の情を示したものであった[要出典]。なお、プブリウス同様に「若き○○」「青年○○」と記されているのは、デキムス・ユニウス・ブルートゥス程度である。

脚注[編集]

  1. ^ a b プルタルコス対比列伝』クラッスス伝
  2. ^ カエサル『ガリア戦記』1.60
  3. ^ カエサル『ガリア戦記』5.24

参考文献[編集]