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ブリュエ=ラ=ビュイシエール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Bruay-la-Buissière


行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オー=ド=フランス地域圏
(département) パ=ド=カレー県
(arrondissement) ベテューヌ郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 62178
郵便番号 62700
市長任期 アラン・ワシュー
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) Communauté d'agglomération de l'Artois
人口動態
人口 23 621人
2009年
人口密度 1 445人/km2
住民の呼称 Bruaysiens
地理
座標 北緯50度28分55秒 東経2度32分55秒 / 北緯50.4819444444度 東経2.54861111111度 / 50.4819444444; 2.54861111111座標: 北緯50度28分55秒 東経2度32分55秒 / 北緯50.4819444444度 東経2.54861111111度 / 50.4819444444; 2.54861111111
標高 平均:m
最低:30 m
最高:106 m
面積 16.35km2 (1 635ha)
Bruay-la-Buissièreの位置(フランス内)
Bruay-la-Buissière
Bruay-la-Buissière
公式サイト bruaylabuissiere.fr
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ブリュエ=ラ=ビュイシエールBruay-la-Buissière)は、フランスオー=ド=フランス地域圏パ=ド=カレー県コミューン

1850年から1978年までブリュエ炭鉱会社が本拠地を置く炭鉱のまちであった。

コミューンとしてのブリュエ=ラ=ビュイシエールは、1987年にブリュエ=アン=ナルトワと、ラビュイシエールが合併して誕生した。

地理

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ベテューヌより8.7km離れている。ノール=パ・ド・カレー地域圏内の炭鉱中心地で、長い間石炭が産出されていた。1987年、放置されていた第3ブリュエ鉱山で天然ガス生産が行われることとなった。

スヘルデ川の支流ラウェ川が流れる。

都市計画

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世界大戦後、ポーランド人を中心とする移民によって人口が増加し、新たな住宅地が必要となった。1855年にはわずか700人だった人口が1913年には18,000人となり、1946年には31,705人に達していた[1]。数年間は鉱山地区の再開発が行われ、1970年代よりプロヴァンス開発地区が設置され、真の中心地区開発を模索し始めた。1978年、炭鉱のまちの再生例として、地方開発・国土整備問題省庁間委員会(fr)によってブリュエ再建計画が発表された。1979年に第二段階の建設事業が始まり、1000戸ほどの住宅、事業所、商店、公共施設が建てられた。

由来

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Bruayとは、ガリア語の男性名Brugusに由来する。

歴史

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ネアンデルタール人が20万年前のアラス近郊で暮らしていた[2][3]。紀元前1万年頃の出土品がベテューヌ周辺で見つかっている。ガロ=ローマ時代の火葬場跡がブリュエで見つかっている。

1250年頃のブリュエはベテューヌの一部で、ほぼ3世紀にわたって領主の領地だった。ベテューヌのまちは交通の要所ではなかったが、中世のブリュエは通行料をとっていた。しかしその制度は戦争で全て崩壊した。農地から上がる富は、1300年代のベテューヌの繁栄につながることとなった。

百年戦争中にはフランドル人がまちを痛めつけた。1500年のベテューヌはスペインの支配下にあった。1645年にベテューヌは包囲されている。1659年のピレネー条約締結によってフランスはこれらの土地を併合した。

1850年代、ブリュエにはブリュエ炭鉱会社が本拠地を置いていた。1852年から1909年までに、工場と同様6つの鉱山が開かれた。最盛期に会社は18箇所の鉱山を所有し、コミューンの8割あまりを所有していた[4]

第一次世界大戦後、炭鉱会社は労働者としてベルギー人、イタリア人、ポーランド人を雇用し、荒廃した鉱山を再建した。1939年のブリュエはポーランド人中心地というべき様相で、鉱山労働者の9割がポーランド人であった[5]

ブリュエの第4鉱山

第二次世界大戦中、ドイツの燃料供給基地であるブリュエはレジスタンスが組織されていた。大戦中、パ=ド=カレー県で銃殺された465人のうち40%が鉱山労働者、35%がポーランド人を中心とする外国人であった。3000人近くが県から追放され、その半数が死んだ。1941年6月、鉱山地帯において10万人もの鉱山労働者たちが労働環境改善とドイツへの反抗からストライキを起こした。逮捕者、追放された者、特別監視下に置かれた者、住民は時に暴力を用いられた(夜間外出禁止令が出された)。仕事が再開されるまで、カフェやレストラン、映画館は閉められた[6]

1956年、ベテューヌやブリュエに近い鉱山地帯の西部で鉱山が閉鎖された。プラスチック製造が替わって導入され、ベテューヌ周辺で4000人を雇用した。

人口統計

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1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年
30 902 28 628 25 714 22 893 24 927 23 995 23 813

sources = 1962年まではCassiniとEHESS(EHESS)から参照[7]1968年以降はInseeを参照[8] · [9] · [10]

姉妹都市

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脚注

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  1. “Évolution de la population”. site de la ville de Bruay-La-Buissière. 2006年11月27日. 2011年11月15日閲覧.
  2. En 1976, un fragment de crâne d'une femme de Néandertal est retrouvé sur un chantier à Biache-Saint-Vaast, entre Arras et Douai
  3. C'artouche (2000). Pas-de-Calais: Histoire d'un renouveau. Librairie Arthème Fayard. p. 24. ISBN 2-213-60733-8.
  4. C'artouche (2000). Pas-de-Calais: Histoire d'un renouveau. Librairie Arthème Fayard. p. 32. ISBN 2-213-60733-8.
  5. C'artouche (2000). Pas-de-Calais: Histoire d'un renouveau. Librairie Arthème Fayard. p. 31. ISBN 2-213-60733-8.
  6. C'artouche (2000). Pas-de-Calais: Histoire d'un renouveau. Librairie Arthème Fayard. p. 34. ISBN 2-213-60733-8.
  7. “Notice communale de Bruay-la-Buissière”. la base Cassini. 2012年1月1日閲覧.
  8. “Résultats du recensement de la population - Bruay-la-Buissière”. le site de l'Insee. 2012年1月1日閲覧.
  9. “Recensement de la population au 1er janvier 2006”. le site de l'Insee. 2012年1月1日閲覧.
  10. “Populations légales 2009 en vigueur le 1er janvier 2012”. le site de l'Insee. 2012年1月1日閲覧.