ブリガディアジェラード

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ブリガディアジェラード
ヒルスロップ夫人の勝負服
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1968年3月5日
死没 1989年10月29日
Queen's Hussar
La Paiva
生国 イギリスの旗 イギリス
生産者 J.L.Hislop
馬主 Mrs.Hislop
調教師 W.Hern
競走成績
生涯成績 18戦17勝
獲得賞金 253,026ポンド
勝ち鞍
G1 2000ギニー 1971年
G1 サセックスステークス 1971年
G1 クイーンエリザベスII世S 1971年・1972年
G1 チャンピオンステークス 1971年・1972年
G1 エクリプスステークス 1972年
G1 KGVI & QES 1972年
G2 セントジェームズパレスS 1971年
G2 グッドウッドマイル 1971年
G2 ロッキンジステークス 1972年
G2 プリンスオブウェールズS 1972年
G3 ウエストベリーステークス 1972年
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ブリガディアジェラードBrigadier Gerard)はイギリス競走馬である。デビュー以来無敗の15連勝を達成したイギリスの国民的アイドルホース。

名前はアーサー・コナン・ドイルの歴史小説の主人公、ジェラール准将(旅団長)からつけられたものである。

タイムフォーム誌による世界の名馬100選において3位に選定されている。またブリティッシュ・チャンピオンズシリーズ名誉の殿堂にも入っている。

生涯[編集]

競走馬時代[編集]

2歳時(1970年)[編集]

ブリガディアジェラードは1970年6月24日ニューベリー競馬場で行われたパークシャーステークス(芝5ハロン)でデビューした。ブリガディアジェラード以外の4頭の出走馬はいずれもレースでの勝利経験のある馬で、ブリガディアジェラードの人気は5頭中5番人気であったが最後方から追い込み、2着馬に5馬身の着差をつけて優勝した。7月と8月にも芝6ハロンのレースを勝ち、10月にミドルパークステークスに出走した。このレースでもブリガディアジェラードは後方から追い込んで勝利を収めたが、この年のイギリス2歳戦線ではミルリーフマイスワローに注目が集まっており、「2頭の留守を狙ってミドルパークステークスを勝った」といった程度の評価しか得ることができなかった。ブリガディアジェラードはこの年のシーズンを4戦4勝と負けなしで終えたものの、ジョッキークラブが作成した2歳フリーハンデでの評価は1敗を喫した2位ミルリーフ(132ポンド)よりも下の3位・131ポンドというものであった(第1位はマイスワロー(133ポンド))。

3歳時(1971年)[編集]

1971年5月1日、ブリガディアジェラードは前哨戦を走ることなくイギリスクラシック三冠第1戦の2000ギニーに出走した。ブリガディアジェラードの人気はミルリーフ、マイスワローに次ぐ3番人気であったが、レースでは2頭を後方から差し切り、2着のミルリーフに3馬身の着差をつけて優勝した。ブリガディアジェラードはイギリスクラシック三冠第2戦のダービーステークスには出走せず、セントジェームズパレスステークスサセックスステークス、グッドウッドマイル、クイーンエリザベス2世ステークスと6月から9月にかけて芝1マイルのレースを4連勝した。10月には初めて芝10ハロンのレース(チャンピオンステークス)に出走し、2着リアリティの追い上げをアタマ差凌いで優勝。6戦6勝の成績でこの年のシーズンを終えた。なお、この年にジョッキークラブが発表した3歳フリーハンデでは2000ギニーで破ったミルリーフが1位(133ポンド)で、ブリガディアジェラードは2位(129ポンド)であった。

4歳時(1972年)[編集]

1972年、ブリガディアジェラード陣営は目標をエクリプスステークスに置いた。このレースには前年のヨーロッパ年度代表馬に選出されたミルリーフも出走を表明しており、2000ギニー以来の再戦に注目が集まった。ブリガディアジェラードは5月20日ロッキンジステークス同月29日ウエストベリーステークス6月20日プリンスオブウェールズステークスを勝利し、エクリプスステークスに臨んだ。ミルリーフが馬インフルエンザによる発熱が原因で出走を回避したため注目の対決が実現しなかったこのレースをブリガディアジェラードは追い込みを決めて勝利した。7月22日に出走したキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスはブリガディアジェラードにとって生涯初となる12ハロンのレースであったが1番人気に支持された。レースでは残り2ハロンの地点で先頭に立ってそのままゴールして優勝、デビュー以来の連勝を15に更新した。

8月15日、ブリガディアジェラードはデビュー16連勝のヨーロッパ記録(リボーオーモンドなどが保持)をかけてベンソン&ヘッジズゴールドカップに出走。1番人気に支持されたが逃げたロベルトを交わすことができず、3馬身差の2着に敗れ、デビュー以来の連勝は15でストップした。

その後ブリガディアジェラードは前年に引き続きクイーンエリザベス2世ステークスに出走し、アスコット競馬場芝1マイルのコースレコードを更新して優勝した。凱旋門賞出走も噂されたが実現はせず、10月14日にチャンピオンステークス連覇を達成したのを最後に競走馬を引退した。この年のブリガディアジェラードの成績は8戦7勝で、イギリスの年度代表馬に選出された。

種牡馬時代[編集]

競走馬引退後はニューマーケットのエジャートン牧場で種牡馬となり、総額100万ポンド(1株2万5000ポンド×40株)のシンジケートが結成された。種牡馬としての成績は芳しくなく、特に同世代のミルリーフと比較すると明らかに劣った。その原因はブリガディアジェラードの実質的な所有者であるジョン・ヒスロップがシンジケートの株を譲渡する相手をどのような繁殖牝馬を所有しているかではなく自分と気が合うかどうかという観点から選んだことにあるとも言われている。主な産駒にはライトカヴァルリー(セントレジャーステークス優勝)、ヴァイラーン(チャンピオンステークス優勝)などがいる。ただしブリガディアジェラードの父系は現在も存続している。アルゼンチンに種牡馬として渡った産駒のジェネラルが活躍馬ロードアットウォーウォーエンブレムパイオニアオブザナイルの母の父でもある)を出し、そのロードアットウォーがトレード先のアメリカでそのまま種牡馬入りし、そこでまずまずの成功を収めたためである。2000年のブリーダーズカップ・ターフ3着馬John's Callや、2007年のドバイゴールデンシャヒーン優勝馬ケリーズランディングなどが、いずれもセン馬ではあるが、直系の子孫である。

ブリガディアジェラードは1985年に受胎率の低下により種牡馬を引退し、1989年10月29日心臓麻痺で死亡した。サンダウン競馬場ではブリガディアジェラードの名を冠した競走・ブリガディアジェラードステークスが施行されている。

主な勝鞍[編集]

受賞[編集]

  • 1971年 - 英最優秀マイラー
  • 1972年 - 英年度代表馬

評価[編集]

血統表[編集]

ブリガディアジェラード血統ペティション系フェアウェイ系) / インクロス Fair Trial 4×4=12.5%(父内)、Fairway 5×5×5=9.38%(父内)) (血統表の出典)

Queen's Hussar
1960 鹿毛
父の父
March Past
1950 黒鹿毛
Petition Fair Trial
Art Paper
Marcelette William of Valence
Permavon
父の母
Jojo
1950 芦毛
Vilmorin Gold Bridge
Queen of the Meadows
Fairy Jane Fair Trial
Light Tackle

La Paiva
1956 栗毛
Prince Chevalier
1943 鹿毛
Prince Rose Rose Prince
Indolence
Chevalerie Abbot's Speed
Kassala
母の母
Brazen Molly
1940 鹿毛
Horus Papyrus
Lady Peregrine
Molly Adare Phalaris
Molly Desmond F-No.14-c


参考文献[編集]

  • 原田俊治『新・世界の名馬』サラブレッド血統センター、1993年。ISBN 4-87900-032-9 

外部リンク[編集]